「レジリエンス(復活力)」と日蓮仏法


レジリエンス 復活力--あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何かレジリエンス 復活力--あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か
(2013/02/22)
アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー 他

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※以下の文章は「WEB第三文明」に書き下ろしたものです。許諾を得て転載しています。


「レジリエンス(復活力)」と日蓮仏法

時代のキーワードとなった「レジリエンス」

 近年注目を集めている概念の1つに、「レジリエンス(resilience)」がある。
 もともとは物理学用語で、「外部から力を加えられた物質が元に戻る力」を意味する言葉。そこから転じて、いまでは幅広い分野で用いられている。

 たとえば、生態学の分野では、回復不可能な状態を回避する生態系の力を「レジリエンス」と呼ぶ。また、ビジネスの世界では、アクシデントに遭遇しても業務を継続できるよう、データや資源のバックアップを整備することを「レジリエンス」と呼ぶ。

 本稿では、「人が困難や災害などから立ち直る力」としての「レジリエンス」に光を当てる。この意味でのレジリエンスは「復活力」「回復力」などと訳され、いま時代のキーワードとして浮上している。とくに米国では、人や組織のレジリエンスについての研究が進み、関連書籍が次々と刊行されている。

 米国でレジリエンスの研究に注目が集まっている背景には、2001年の「9・11」同時多発テロや2008年の「リーマン・ショック」など、国家的災厄が近年につづいたことがあるだろう。「大きな災厄から、人はいかにして立ち直ればよいか?」を研究することが、喫緊の国家的課題となったわけだ。
 同様に、東日本大震災と原発事故という災厄に見舞われ、いまなお復興が緒についたばかりである日本においても、レジリエンスを研究することは国家的課題といえよう。

信仰は人間のレジリエンスを高める

 米国で生まれたレジリエンス研究書の1つに、『レジリエンス 復活力――あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』(アンドリュー・ゾッリ、アン・マリー・ヒーリー著、須川綾子訳/ダイヤモンド社)がある。本国では2012年に刊行され、邦訳は13年に出た。

 同書は、個人や企業、経済や生態系など、あらゆる分野のレジリエンスを包括的に論じたもの。私は、個人のレジリエンスを扱った第4章「人はいかに心の傷から立ち直るのか」に、最も感銘を受けた。
 それによれば、レジリエンスの高い人――すなわち、逆境に強く、立ち直りの早い人は、次の3つの信念を心に抱いている場合が多いという。

1、人生に有意義な目的を見いだせるという信念
2、自分が周囲の状況や出来事に貢献できるという信念
3、経験はよかれ悪しかれ学習と成長につながるという信念



 このことをふまえて、著者は次のように述べている。

「信仰心の厚い人々に比較的高いレジリエンスが備わっているという研究報告は何ら矛盾を生じない」
「宗教的信念が廃れることなく受け継がれている理由の一つは、それが魂の存続を来世まで保証してくれるからではなく、それを保つことで一定の精神的レジリエンスが得られるからなのである」



 ――つまり、〝信仰をもつ人々は、もっていない人よりも総じてレジリエンスが高い〟のだ。それは、信仰が「自分の人生には意味がある」「自分の力によって状況は切り開ける」「逆境や困難を乗り越えることによって成長できる」という3つの確信をもたらすからにほかならない。

最もレジリエントな宗教とは?

 『レジリエンス 復活力』は、〝信仰がレジリエンスを高める〟と指摘しているのみで、信仰の中身には立ち入っていない。だが、ひとくちに「信仰」といっても、高いレジリエンスをもたらすものと、そうでもないものがあるのではないか。

 というのも、さきに挙げた「3つの信念」のうち、「自分が周囲の状況や出来事に貢献できるという信念」は、「すべては神仏の思し召しであり、運命を甘受すべき」ととらえるタイプの信仰からは生まれにくいと思うからである。
 自然災害などの大きな災厄に遭遇したとき、人は多かれ少なかれ無力感にとらわれる。その無力感がPTSD(心的外傷後ストレス障害)の引き金にもなるわけだが、信仰によって災厄のなかでも「自分が周囲の状況や出来事に貢献できるという信念」を保つことができたなら、無力感が克服できる。

 しかし、「すべては神仏の思し召し」ととらえる信仰の場合、信者が自らの力で状況を切り開く余地はないから、無力感は克服できないどころか、むしろ増幅されるのではないか。

 では逆に、さきの「3つの信念」をもたらしやすい宗教――言いかえれば「最もレジリエント(レジリエンスの形容詞形)な宗教」とはなんだろうか?
 その答えは、厳密にはレジリエンス研究者による詳細な研究を待たねばならないだろう。しかし、私が直観的に考えるのは、「日蓮仏法こそ『最もレジリエントな宗教』ではないか」ということだ。

「難が襲ってくることをもって、安楽であると心得るべきである」
「私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである」
「大難がなければ、法華経の行者ではない」



 などの遺文が示すとおり、日蓮は「末法(釈尊入滅から2000年以上を経た、思想的に乱れた世)に正しい仏法を信じ、教え通りに行ずる者には、さまざまな苦難が競うように起こるのは当然」ととらえ、苦難を乗り越えることによってこそ宿命が打開できるとした。

 そこには、苦難や逆境を忌み嫌い、避けよう、逃げようとする姿勢は微塵もない。
「苦難や逆境を、必要以上に恐れたり避けたりする必要はない。それは、自分が正しい方向に進んでいる証である。苦難を乗り越えてこそ成長もあり、運命の扉を大きく開くことができる」――そうした姿勢で人生に臨むことを教えるのが、日蓮仏法なのである。
 そのような、いわば〝闘争的楽観性〟にこそ、日蓮仏法の大きな特長がある。

 「ポジティブ心理学」の提唱者で、楽観主義研究の第一人者として知られる米国の心理学者マーティン・セリグマンも、日蓮仏法の楽観主義的側面に注目し、〝心理学の革命であるポジティブ心理学と、仏教の革命である日蓮仏法には共通性がある〟という主旨の発言をしている。

 そして、苦難を避けずに乗り越えようとする志向性をもつ日蓮仏法は、必然的に、信者に強いレジリエンスをもたらす。
 たとえば、東日本大震災の被災地では、日蓮仏法の信徒たちが目覚ましいレジリエンスを発揮した。被災した悲しみに打ちひしがれるのではなく、苦難を乗り越えることによって運命を切り開こうとする姿が、各地で枚挙にいとまがないほど見られたのだ。その力は、信仰によってもたらされたものにほかならない。

 レジリエンスが脚光を浴びているいま、日蓮仏法の「レジリエントな宗教」としての側面も、もっと注目されてしかるべきだろう。

「生き残る力」としての文化力


そして最後にヒトが残った―ネアンデルタール人と私たちの50万年史そして最後にヒトが残った―ネアンデルタール人と私たちの50万年史
(2013/11/09)
クライブ・フィンレイソン

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「生き残る力」としての文化力――日本は「文化」を大切にする国か

先進国なのに文化にお金をかけない日本

「文化力」という言葉を「国力」のニュアンスで最初に使ったのは、おそらく仏文学者の桑原武夫だと思われる。
 桑原は1979年9月6日付の『朝日新聞』に「劣勢な日本の文化力」という論考を寄せ、その中で「日本は国際的文化力では第三級」と断じ、「日本の対外文化宣伝費がフランスのそれの十分の一しかないことも問題だ」としている。

 日本を代表する知識人の1人であった桑原がそう嘆いてから、三十数年が経った。しかし、状況はいまもあまり変わっていないようだ。

 たとえば、各国の文化予算が国家予算に占める割合を見ると、フランスが1.09%、韓国が0.87%、ドイツが0.39%、イギリスが0.22%であるのに対し、日本はわずか0.11%でしかない(2012年度予算での比較/野村総研「諸外国の文化政策に関する調査研究報告書」より)。大まかに言って、日本の文化予算の割合はフランスの10分の1、韓国の7分の1、イギリスの半分程度であるわけだ。

 昔もいまも、日本は「先進国の中で文化にお金をかけない国」なのである。それはなぜなのだろう?

「過度の実用性重視」がもたらした、文化予算の低さ

 理由の1つとして、〝日本人の実用性重視志向〟が挙げられると思う。
 サイエンス作家の竹内薫氏が、日本人の科学観の特殊性について興味深い指摘をしている。要約すれば次のような指摘だ。

〝欧米人にとって、科学の源流はギリシア哲学にあり、科学は本来哲学的な学問と見なされている。ゆえに、欧米では基礎科学が重視されてきた。
 いっぽう、日本に科学が本格的に輸入されたのは明治からであり、欧米で19世紀に科学と技術が合体したあとだった。ゆえに、日本人は科学を「実用的な学問」と受け止めてしまい、根底にある哲学性は輸入されなかった。日本で基礎科学が軽視され、実用的な応用科学が一貫して重視されてきた背景にも、そのような偏った科学観がある。〟
(竹内薫著『科学予測は8割はずれる』東京書籍、『科学嫌いが日本を滅ぼす』新潮選書 による)



 科学に対して実用性を過度に重視してきたからこそ、短期的視野しか持たず、すぐに実用化されて役に立ちそうな研究にしか予算をつけない。……そうした傾向が日本には抜き難くあり、それが科学技術関係予算の低位安定をもたらしている面があるのだ。

 そして、この「過度の実用性重視」は、科学のみならず文化全般に対して言えるように思う。文化芸術は、総じて実用性から遠い。だからこそ、日本では一貫して予算面で冷遇されてきたのではないか。

 日本の「文化にお金をかけない」姿勢は、経済力の低下と相まって、今後いっそう強まっていくことが懸念される。財政に余裕がなくなるほど、目先の実用性に乏しい文化予算が真っ先に削られていくだろうから……。民主党政権下で行われた「事業仕分け」にも、その傾向ははっきりと見て取れた。

 しかし、そもそも私は、「文化は生活の役には立たないから、財政に余裕がなくなれば真っ先に切りつめるべき」と考える文化観そのものに、強い違和感を覚える。
 目先の実用性だけが、「役に立つ」ということなのではない。百年単位で物事を考える長期的視野に立てば、文化を重んじる国こそが生き残っていくのだと思う。

現生人類とネアンデルタール人の「文化力」の差

 文化力こそが「生き残る力」であることを示す1つのヒントが、先史時代にあった。
 我々現生人類(ホモ・サピエンス)と、旧人であるネアンデルタール人は、何千年にもわたって地球上で共存していた。しかし、ネアンデルタール人はいまから2万数千年前に絶滅し、現生人類は生き残った。

 ネアンデルタール人は、現生人類より体格が大きく、脳の容量も大きかったと考えられている。彼らは、石で作った道具や武器、火を使いこなした。また、死者を埋葬した最初のヒト属としても知られている。現生人類に劣らぬ知性を具えていたのだ。

 にもかかわらず、なぜネアンデルタール人は滅び、我々は生き残ったのか? その謎の答えとして考えられている説は多いが、そのうち私が最も心惹かれたのは「文化力の差が両者の運命を分かった」とする説である。
 それは、ドイツ・テュービンゲン大学のニック・コナード博士が唱えているもの。

 博士は、現生人類が作り出した「造形芸術や装飾品、楽器といったものが、現生人類にネアンデルタール人を凌駕する強みをもたらした」と述べている((『人類20万年 遙かなる旅路』アリス・ロバーツ著/文藝春秋)。
 芸術を持つことがなぜ生き残る力と結びつくのか、わかりにくいが、博士は次のように説明する。

「音楽が現生人類にどのような優位性をもたらしたかは、まだよくわかっていませんが、複雑で象徴的な表現をし、大きな社会的ネットワークを持つ人々に、それはふさわしいものだと思えます。おそらく音楽は人々をひとつにまとめる役目を果たしたのでしょう。ネアンデルタール人のやり方では、この新たなライバルたちの生活様式、技術、文化、そして社会的ネットワークに到底かなわなかったのでしょう。(中略)人の数が増えて、資源が少なくなったとき、現生人類はネアンデルタール人より迅速に、新しい技術や解決法を見つけることができました」



 一見実生活の役には立たないと思える芸術の探究が、人と人を結びつけて協力のネットワークを生み、同時に脳の進化も促し、めぐりめぐって「生き残る力」としての役割を果たしていった、というのだ。

 もっとも、ネアンデルタール人研究の第一人者であるクライブ・フィンレイソン博士の近著『そして最後にヒトが残った――ネアンデルタール人と私たちの50万年史』(白揚社)によれば、現生人類が生き残ったのは幸運による面も大きかったという。つまり、地球規模の危機に際して、たまたま生き残りやすい地域に暮らしていたから生き残れたのだ、と……。

 ただし、フィンレイソン博士も、現生人類が先史時代から高度な芸術創造を行っていたこと、高い文化的・技術的業績を成し遂げて生き残ってきたことは認めている。とくに、3万年~2万2000年前にユーラシア大陸に栄えた「グラヴェット文化」の時代に、「芸術の大きな高まりが訪れた」という。

 洞窟壁画はグラヴェット文化期に完成の域に達したし、粘土を高温の窯で焼いた「ポータブル・アート」さえ作られていた。「彼らは、極東ロシアの最初の焼き物師より1万5000年も早く、中東の陶器職人より2万年も前に、陶芸に必要な火の扱い方を身につけていた」のだ。

 グラヴェット文化人たちは、暮らしていた温暖な土地が気候変動で凍てついたツンドラ・ステップに変わっても、知恵と技術でその変化に適応していった。
 その高度な適応力と、彼らが行っていた高度な芸術創造の間には、やはり一定の関係があったのではないか。
 
 文化の追究は、目先の実用性には結びつかなくとも、目に見えない形で人類の「生き残る力」を高める。
 21世紀の我々にも、グラヴェット文化期の人類が遭遇したような未曾有の危機が、いつ訪れるかもしれない。「文化を大切にする国」こそが、その大変化に適応する知恵を発揮し、生き残っていけるのだと思う。

「デマの回復不可能性」について


オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険
(2008/10/03)
鈴木 光太郎

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「デマの回復不可能性」について――情報の「質」を見極めるリテラシー

メディアが広めたウソが「事実化」してしまう

 読者諸氏は、以下の話をおそらくどこかで耳にしたことがあるだろう。

“1956年のアメリカの映画館で、広告業者がある実験を試みた。上映するフィルムの中に、3000分の1秒というごく短い間だけ、「ポップコーンを食べろ」「コカ・コーラを飲め」と書かれた画面を5分おきに挿入したのだ。
 人間の視覚では3000分の1秒の映像は知覚できないため、観客はその画面を意識しない。しかし、このメッセージは無意識層に働きかけた。6週間にわたってつづけられた実験の結果、その映画館の売店でのポップコーンの売上は57・5%、コカ・コーラの売上は18・1%、それまでよりも上がったのだ”



 ――サブリミナル(閾下刺激)効果について論じるときに、よく言及されるエピソードである。
 だが、じつはこれは、ジェイムズ・ヴィカリーという広告業者がでっち上げた話だった。ヴィカリーは、サブリミナル広告用の装置で一儲けしようとしたのである。

 もっともらしい数字が並べられているが、じつはこの有名な実験には、元になった論文も報告も存在しない。学会で発表されておらず、そもそも実験そのものが行われていなかった。ヴィカリーが雑誌や新聞で語ったウソが広まっただけだったのだ。

 以上の話を、私は鈴木光太郎(心理学者・新潟大学教授)の著書『オオカミ少女はいなかった――心理学の神話をめぐる冒険』(新曜社)で知った。

 鈴木は同書の第2章「まぼろしのサブリミナル」で、この実験がでっち上げであることをくわしく論証している。それによれば、そもそも1950年代の映像技術では、3000分の1秒だけ別の映像を映し出すこと自体、不可能であったという。
 だが、一人の広告屋がでっち上げた実験が、半世紀以上経った現在でさえ、多くの人に事実として受け止められている。
 この例が示すように、マスメディアが一度大々的に報じたことは、たとえデマであっても“一人歩き”をし、いつしか「事実として定着してしまう」のである。

 そのような事例は、1999年に米国で起きた「コロンバイン高校銃乱射事件」をめぐっても起きていた。
 コロンバイン高校に通っていた2人の男子生徒が、生徒12名と教師1名を射殺して自殺したこの衝撃的な事件は、いまなお記憶に新しい。

 当初、この事件をめぐっては多くの憶測報道が氾濫した。たとえば、事件が起きた4月20日がたまたまアドルフ・ヒトラーの誕生日であることから、「犯人の少年2人はナチズムに影響されていた」と憶測するようなたぐいである。
 そうした憶測の一つに、「犯人の少年はマリリン・マンソンのファンで、マンソンの歌に影響されて事件を起こした」というものがあった。

 自ら「アンチクライスト(反キリスト)・スーパースター」を名乗り、性と暴力を歌う過激なロックで知られるマリリン・マンソンは、以前からキリスト教保守派に忌み嫌われていた。そこに起きたこの事件が格好の引き金となり、マンソンに対する過剰なバッシングが行われた。
 この事件を扱ったマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』にも、そのバッシングの一端が描かれている。

 のちに、犯人2人はマンソンのファンではなかったこと、したがってマンソンの歌に影響されて事件を起こしたわけではないことが判明したが、ほとんど報道されなかった。そのため、10年以上が経ったいまでも、「犯人はマリリン・マンソンの影響で乱射事件を起こした」と信じている人が多いのだ。
 
情報の「量」で、デマが真実を圧倒してしまう

 情報の力は「質×量」で決まる。質の高い情報であっても流通量で負けてしまえば、質の低い情報のほうが定着してしまうのだ。
 デマと真実を比べれば、真実のほうが「質が高い」に決まっている。それでも、デマが圧倒的物量で流通すれば、多くの人はデマのほうを信じてしまうのである。

 さきに挙げた2つの例でも、デマがマスメディアを通じて大量に流通したのに比べ、「デマだった」とする訂正報道は微量でしかなかった。

 それは、一つにはメディア側が誤報を認めたがらないためであろう。
 日本でのメディアをめぐる名誉毀損訴訟もしかり。デマ報道をされた側がメディアを訴え、勝訴しても、謝罪・訂正記事は誌面の片隅に小さく載るだけだ。それまでに、デマ記事のタイトルは、新聞広告や車内吊り広告などを通じて日本中に広まってしまっている。ここにも、デマと真実の悲しいほどの物量差がある。

 そのような構図があるから、「デマは一度広まってしまうと回復不可能」なのである。あたかも、海に入れた毒水が回収不可能であるように……。

 マスメディアによるデマが完璧に回復された事例は、管見の範囲では一つしかない。それは、松本サリン事件の被害者でありながら、当初「犯人視報道」の餌食となった河野義行さんの例である。

 河野さんの場合、のちにオウム真理教が真犯人であることが判明し、しかもその真実のほうが圧倒的物量で報道されたため、氏が犯人であるというデマは完全に打ち消された。きわめて特殊な事例であり、それほど大量に真実が流通しないかぎり、一度広まったデマは打ち消せないということでもある。悲しいかな、情報量の差によって、デマが真実を圧倒してしまうのだ。

 そして、デマが物量で真実を駆逐してしまう傾向は、インターネット時代になってからいっそう顕著になっている。編集者や校正者などのチェックによって正確性がまがりなりにも担保されている既存メディアと比べ、個々人が自由に情報発信できるネットは、デマ情報の含有率が高いからである。

 いみじくも、ネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」の開設者・ひろゆき(西村博之)は、かつて「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(ネット掲示板を使いこなすのは)難しい」と発言した。

 ネット上には週刊誌・タブロイド紙以上に大量のデマが流通し、その伝播速度も速い。そして、一度ネット上に散乱したデマ情報をすべて削除することは、事実上不可能である。「デマの回復不可能性」は、ネット時代の本格的到来によっていっそう深刻な問題になったのだ。

 では、どうすればよいのか?

 「デマのない世界」は、残念ながら絵空事でしかない。我々一人ひとりが、「大量に流通している情報が真実とはかぎらない」と肝に銘じ、情報の「質」を見極めるリテラシーを高めていくしかないだろう。
 その積み重ねこそが、迂遠のように見えても、デマを駆逐する唯一の方途だ。賢き民衆のクチコミだけが、悪しきマスコミを打ち破るのである。

横井孝治『親ケア奮闘記』


親ケア奮闘記―がんばれ、母さん。たのむよ、父さん。親ケア奮闘記―がんばれ、母さん。たのむよ、父さん。
(2013/11)
横井 孝治

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書評/横井孝治著『親ケア奮闘記』

エッセイの形を借りた“親介護入門”

 著者は「介護アドバイザー」で、親を介護する人のための情報サイト「親ケア.com」の運営者でもある。
 著者が介護の世界で働く契機となったのは、34歳の夏から両親の介護を経験したことであったという。本書は、その介護経験を振り返ったもの。発端となった母親の異変から、母が病院から退院して再び父との2人暮らしに戻り、介護に一区切りがつくまでの顛末が綴られている。

 もとは「親ケア.com」にウェブ連載されたものだが、書籍化にあたって再編集がなされている。
 「介護保険サービス一覧」「要介護認定の流れ」など、介護をめぐるさまざまな情報も随所に織り込まれている。具体的な「使える介護術」も満載だ。そのため、たんなる体験記であるにとどまらず、読者が親の介護をするときのための実用書――いわばエッセイの形式を借りた“親介護入門”としても役立つ本になっている。

 かくいう評者も、80歳を越えた老母をもつ身である。ゆえに、本書の内容はどこをとっても他人事ではなく、ごく近い将来の親介護の「心の準備」をする思いで読み進めた。

「きれいごと」を排したリアルな介護体験記

 本書には「いわゆる『きれいごと』は、一つも入っていません」と、「はじめに」で著者は言う。この言葉には2つの意味が込められているだろう。

 第1に、自らが親介護の中でくり返してきた失敗を、少しも包み隠そうとしていない点である。
 著者は、介護が始まった時点では「介護についての知識や心構えのカケラもなかった」という。無知ゆえにさまざまな失敗を重ねてきたことを、著者は本書で微に入り細を穿って振り返っている。
 いまは「介護アドバイザー」を務めている著者にとって、それは恥ずかしい告白でもあったろう。それでも、「私のような失敗をする方を少しでも減らしたい」との思いから、あえて赤裸々に失敗の数々を紹介しているのだ。

 第2に、介護の過酷な現実から目をそらした理想論・精神論が、少しも入っていないということ。
 著者はこれまで、介護の世界の「偉い先生方」による、「要介護者の心に寄り添い、最大限に傾聴する介護を行わなければいけない」「高齢者を住み慣れたところから引っ越しさせるのは、老化を進めるだけだ」といったたぐいの発言に、強い違和感を覚えてきたという。
 介護において、「傾聴」が大切であることも、住み慣れた場所からの転居を避けるべきであることも、当然だ。しかしそうは言っても、老親の理不尽な態度や発言につい言葉を荒らげてしまうこともある。転居せざるを得ないこともある。
 著者は、つねにそのような現実に目を向けて筆を進めている。現実を無視した「きれいごと」は一つも書かれていないのだ。

 自らの過去を飾ろうとする自己正当化が微塵もないことと、理想論・精神論に陥っていないこと――2つの意味で「きれいごと」を排したからこそ、本書はすこぶるリアルな介護体験記となっている。

涙と笑いのヒューマン・ドラマ

「もしかして自分がやっているのは介護なのか? 介護って、寝たきりの人のおむつを替えたり、車いすを押してどこかに連れて行ったり、お風呂に入れてあげたりすることじゃないのか?」


 ――著者がそのように独りごちる場面がある。たしかに、老人介護の一般的イメージはそのようなものだろう。

 だが、著者の両親は介護か始まった時点で寝たきりでもなく、車いすも必要なく、食事も入浴も自分でできる。にもかかわらず、母親が精神に変調をきたし、幻聴などの症状を見せ始めた(統合失調症だと思われる)ことから、離れて暮らす著者が遠距離介護をする日々が突然始まるのだ。

 紆余曲折を経て母親をメンタル・クリニックに入院させたものの、こんどは一人暮らしとなった父に異変が現れる。昭和ヒトケタ生まれの男性にはありがちなことだが、父親は家事というものがまったくできない。それゆえ、一人暮らしとなった途端、生活に支障をきたすのである。
 実家に戻った著者が、脱水症状を起こして倒れていた父親を発見し、病院に運ぶ。そのとき、医師は次のように言う。

「年をとってから急に独りになると、体調がうまく管理できなくなって、調子が悪くなるというのはよくあることなんだ」


 かくして、著者が両親のケアに奮闘する日々が始まる。親が寝たきりになったり、認知症になったりするばかりが介護の始まりではないのだ。本書は、老人介護の多様なありようを知るうえでも有益である。

 また、本書の大きな美点の一つとして、全編にあたたかいユーモアがちりばめられていることが挙げられる。帯に「泣き笑いの介護体験記!」との惹句があるとおり、笑える場面が随所にあるのだ。
 とくに、父親の言動にはいわゆる「天然ボケ」の趣があり、そのキャラクター自体が笑いを誘う。ユーモアで内容の深刻さがシュガーコーティングされているから、読後感は爽やかだ。

 涙と笑いのヒューマン・ドラマを味わううち、親介護についての知識が一通り得られる良書。

犬の散歩から考えた幸福論――「幸せの種」のありか


東京犬散歩ガイド東京犬散歩ガイド
(2006/07)
白石 花絵

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犬の散歩から考えた幸福論――「幸せの種」のありか

「どんなときに幸せを感じるか?」

 人間が不幸なのは、 自分が本当に幸福であることを知らないからである。 ただそれだけの理由によるのだ。


 ――ドストエフスキーの『悪霊』の一節である。

 「しあわせの青い鳥」を探す旅に出たものの、つかまえることができず、家に帰ったら昔から飼っていたキジバトが「しあわせの青い鳥」に変わっていた、というメーテルリンクの戯曲を思い出す。

 幸せは遠くに求めるべきものではなく、なにげない日常生活の中にこそある。しかし、多くの人はその幸せに気づくことができない。……などと言うと、お坊さんの法話のようなクサイ人生訓めいてしまうが、最近私はしみじみ「ほんとうにそのとおりだ」と思っている。

 少し前、とある酒席で、「どんなときに幸せを感じるか?」という話題になった。
 私の番がきて、「朝、犬の散歩をしているときにいちばん幸せを感じる」と言ったら、冗談だと思ったらしく、一同に笑いが起きた。中には、「そんなことがいちばん幸せだなんて、カワイソウなヤツだな」と哀れみの視線を向ける(さすがに口には出さなかったが)者もいた。

 だが、私は冗談で言ったのではない。犬の散歩をしているときがいちばん幸せで心安らぐし、そんな自分をカワイソウだともまったく思わない。
 ただ、笑われた一件によって、「なぜ私は犬の散歩に幸福感を覚えるのか?」を改めて考えてみた次第である。

幸せなんて、じつはカンタンだ!

 海外で行われたある調査で、「あなたがペットを飼うことによって得た利益は?」という設問に対していちばん多かった答えは、「自分がペットに愛されているという実感」だったという。とくに、犬はストレートに飼い主への愛情を表現する動物だから、「愛されているという実感」も強いものになる。

 しかも、飼い犬は散歩に連れて行くとすごく喜ぶ。我が家の愚犬など、私が「お散歩行く?」と聞くだけでブンブン尻尾を振り、眼を輝かせて喜ぶほどだ。そのように、散歩は「愛犬を幸せにする行為」でもある。
 「自分が愛されている実感」を感じ、その相手を幸せにすること――これが幸福でなくてなんであろうか。相手が人であろうと動物であろうと、幸福感に本質的な差はないはずである。

 また、当然のことながら、犬の散歩は適度な運動になる。
 心理学の新しい潮流「ポジティブ心理学」の分野では、人間の幸福感を高める方法について、さまざまな角度から研究が進められている。ポジティブ心理学の研究者の一人ソニア・リュボミアスキー(米カリフォルニア大学教授)は、著書『幸せがずっと続く12の行動習慣』(日本実業出版社)の中で次のように述べている。

 運動はあらゆる活動のなかでも、とても効果的に幸福感を高めてくれる方法です。



 そして同書では、運動がどれくらい幸福感を高めるかが、研究データから明らかにされている。たとえば、次のような実験結果が紹介される。

 うつ病に悩まされている50歳以上の男女を集め、無作為に3つのグループに分ける。
 第1のグループには有酸素運動をさせる。第2のグループには抗うつ剤を投与する。そして、第3のグループには有酸素運動をさせるとともに抗うつ剤を投与する。

 その実験を4ヵ月間つづけた後、3つのグループの参加者はいずれも、うつ状態が改善し、幸福感が増した。
 しかも、その半年後の経過報告では、抗うつ剤を投与されたグループよりも、運動だけを行ったグループのほうが再発率が低かったという。

 「運動をすると気分がよくなる」ことは誰もが知っているが、その心理的効果は、時に抗うつ剤の作用さえ上回るほどのものなのだ。
 そのように、適度な運動は人の幸福感を高める。犬の散歩もしかりである。

 くわえて、朝の光を浴びると、「睡眠ホルモン」の別名で知られるメラトニンの分泌が抑制されるなど、体内時計が調整され、脳のウォーミングアップと夜の快眠にもつながる。これもまた、朝の犬の散歩に幸福感を感じる理由の1つだろう。

 たかが犬の散歩の中にも、これだけ人を幸せにする要素が揃っている。まさに、「幸せは何気ない日常生活の中にこそある」のだ。

 以上はほんの一例で、誰の生活の中にも「幸せの種」は転がっているはずだ。
 キャッチコピー風に言うなら、「幸せなんて、じつはカンタンだ!」――。あなたの生活の中にも、気づかず見過ごしている幸せがきっとあるはずだ。


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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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タイトルの由来

●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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