『赤と黒の熱情』



 野沢尚氏自殺の報に驚く。

 城戸賞・江戸川乱歩賞・向田邦子賞・吉川英治新人文学賞・芸術選奨文部科学大臣賞……数々の賞に彩られた、作家/シナリオライターとしての華麗なキャリア。
 こんなにも輝かしい名声を得て、目の前にも大きな仕事がたくさんあったというのに、それでもなお、自ら命を絶つほど何かに苦悩しておられたのだろうか。

 いま思えば、この人の作品には死の匂いに満ちたものが多かったけれど……。

 野沢氏が脚本を書いた映画で私が個人的に好きだったのは、工藤栄一監督の『赤と黒の熱情』(1992年)である。
 目の前で兄を殺され、ショックで記憶喪失に陥ったヒロイン(麻生祐未)のために、その兄を組の命令で殺したヤクザが、罪滅ぼしに「美しいニセの思い出」を作ってやろうとする物語。
 だが、ヒロインの尻に彫られた蝶のタトゥーが、「ニセの思い出」にほころびをもたらしてしまい……。

 この着想は、いかにも野沢氏らしいと思う。ヤクザ映画なのに耽美的で切ないのだ。
 話題の映画『グッバイ、レーニン!』のストーリー(東西ドイツ統一後に昏睡から目覚めた母親にショックを与えぬよう、家族が「まだ統一されていないふり」をする物語。私は未見だけど)は、ちょっとこの作品に似ている気がする。

 もっとも、この『赤と黒の熱情』、着想こそ卓抜だが、後半の展開が破綻してしまっている印象で、明らかに失敗作だと思う。しかし、ヘンな言い方だが、へたな傑作よりも心に残る「忘れがたい失敗作」なのだ。

 ともあれ、ご冥福をお祈りしたい。
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『赤ちゃん泥棒』再見

  赤ちゃん泥棒の画像

 私の大好きな映画『赤ちゃん泥棒』のDVDが、999円の廉価版で再発売されていた。以前BSで放映したときに録画したビデオはあるのだが、あまりの安さに迷わずゲット。で、さっそく再見。

 『赤ちゃん泥棒』は、コーエン兄弟の監督第2作にして初のコメディであった(1987年作品)。
 子供ができないことを悩んだ夫婦が、金持ちの5つ子の1人を誘拐し、自分たちの子供として育てようとする物語。夫婦は身勝手な犯罪者でしかないのだけれど、映画全体のトーンは「心あたたまる」ものだ。

 ブラック・ユーモアとペーソスの、絶妙の共存。ハートウォーミングなのに、どこか病的で歪んでいる――このテイストは、『未来は今』『オー・ブラザー!』、最新作『レディ・キラーズ』に至るまで、コーエン兄弟のコメディすべてに共通している。

 くわえて、この『赤ちゃん泥棒』は主演の2人――ニコラス・ケイジとホリー・ハンターがいずれも味のある好演を見せてバツグンだ。
 また、「シェイキー・カム」(※)を駆使したアクション・シーンの小気味よさも特筆もの。ちなみに撮影は、のちに『メン・イン・ブラック』で監督として成功するバリー・ソネンフェルドである。
 それ以外の登場人物の奇妙さかげんといい、隅々までコーエン兄弟らしさが全開で、やはりよい。何度観ても面白い。

※シェイキー・カム=ブレを防ぐ特殊カメラ装置「ステディ・カム」(S・キューブリックが『シャイニング』の撮影で初めて使用)を改良し、自然な「揺れ」の効果をくわえたもの。サム・ライミ作品でもおなじみ。

 子どもたちと一緒に観たのだが、小5の娘も大いに気に入った模様。
 娘は、『のだめカンタービレ』とか『動物のお医者さん』など、私の好きなコメディ系マンガもたいてい好きになる。それに、私も娘も、いまのお笑いではドランクドラゴンとインパルスがお気に入りだ(これは息子も)。
 やはり、親子は「笑いのツボ」も似るのだなあ。
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永江朗『〈不良〉のための文章術』

<不良>のための文章術 (NHKブックス)<不良>のための文章術 (NHKブックス)
(2004/06/24)
永江 朗

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 永江朗(あきら)著『〈不良〉のための文章術/書いてお金を稼ぐには』(NHKブックス/1160円)読了。

 ライターにとって不可欠な文章技術を身につけるための「ワークブック」である。「売れっ子ライターが、苦節二十年の経験をふまえ、四百~千二百字程度の、切れ味鋭い文章の書き方を伝授します」という惹句にウソはない。
 
 永江が2002年に上梓した『インタビュー術!』(講談社現代新書)は、タイトルのとおりインタビューの技術に特化した「ライター入門」であった。
 対して本書は、文章術に特化した「ライター入門」である。「取材して書く」という章もあるものの、その章も、取材内容をどのように文章化するかに力点を置いて書かれている。

 「作家になるための文章術」でもなければ、「名文を書くための文章術」でもない。あくまで、「ライターになるための文章術」なのだ。

 永江は言う。
「なぜ文章を書きたいのかと問われて、『自分を表現したいから』『自己実現のため』という人は、プロの書き手になるのをやめてください。読者が(それ以前に編集者が)迷惑します。誰もあなたのちっぽけな『自分』、ありもしない『ほんとうの自分』なんか読みたくありません。関心もない」

 いや、まったくそのとおりである。
 ライターは「自分のことを書く仕事」ではない。取り上げる対象を陰からサポートする「黒子」であり、表現者というよりは、永江も言うように「サービス業」なのだ。その根本的なところを勘違いしているライター志望者が多すぎる。

 本書は、「プロの文章は読者のためにあります」という正しい認識のもと、原稿料に見合った、読者のためになる文章を書くノウハウをギュッと凝縮した本である。
 内容は徹頭徹尾実践的。ヘンな精神論を振りかざすいやらしさがない。400字~1200字程度の文章の書き方に的をしぼっているのも、雑誌を中心に仕事をしていると、「だいたいこれくらいの分量で書く機会が多いから」だという。

 本文では、ブック・レビュー、グルメ記事、コラム/エッセイ、人物素描といったさまざまな種類の文章について、それぞれ悪い例・よい例が提示される。そして、悪い例はどこが悪いのか、どう改善すれば原稿料のもらえる文章になるのかが、こと細かに説明されていく。

 「文章読本」のたぐいにはたいてい名文・悪文の例が豊富に引かれているものだが、本書の特長は、よい例・悪い例として挙げられた文章の大半が著者自身の文章であるということ。
 「悪い例」は、いかにもセミプロ・ライターが書きそうな中途半端にダメな文章を、永江自らが書き下ろしている。「よい例」は、書き下ろしたものもあれば、実際に雑誌等に寄せた文章が使われている場合もある。

 あえて自分の文章を例にしたことについて、永江は、「文章ができるプロセスをいちばんよく知っているので取り上げるまで。他意はありません」としている。
 ともあれ、結果的にはその試みが本書の最大の美点を生んだ。どのような狙いをもってどの点を改善すれば「よい文章」になるかが、既成のライター入門や文章読本よりもはるかに具体的に、明快に説かれているのだ。
 ライター生活17年の私が読んでも、その“改善プロセス”には学ぶべき点が多い。「なるほど、こんなふうに文章をブラッシュアップすればよいのか」と、思わず唸った。

 いちばん感心したのは、同じ題材の文章の切り口を変えたり、発表する媒体の性格に合わせて文体を微妙に変えたりする“プロの高等テクニック”を披露するくだり。

 たとえば、『窓ぎわのトットちゃん』をネタにコラムを書く、という「お題」について、永江は“旅雑誌に「文学散歩」として書く場合”と“中高年向け週刊誌の「ベストセラー再読」として書く場合”という2つのケースを設定し、媒体に合わせてどこをどう変えたらいいかを実践してみせる。

 また、いまは亡きナンシー関についての人物素描を書く、というお題について、永江は3つの切り口を用意し、それぞれの切り口に合わせてコラムを書き分けてみせる。
 読者層に応じて文章を七変化させる手際の鮮やかさは、「プロの文章は読者のためにあります」という著者の言葉を証して余りある。
 
 『インタビュー術!』もよい本だったが、これもじつに「使える」内容である。ライター/ライター志望者は2冊併読すべし。
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「YES オノ・ヨーコ展」

オノヨーコという生き方WOMANオノヨーコという生き方WOMAN
(2006/10)
アラン クレイソンロブ ジョンソン

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 「東京都現代美術館」で開催中の「YES オノ・ヨーコ展」を観た。

 私もご多分にもれずジョン・レノン経由でオノ・ヨーコを知ったクチだが、いまではジョンうんぬんを抜きにして「アーティストとしてのオノ・ヨーコ」が大好きである。
 やっぱすごいですよ、この人。うちの母親と同い年だが、あの世代の女性があんなに自由な生き方をするなんて……。自分の母親と引き比べることで、いっそうすごさがわかる。

 誤解されがちだが、オノ・ヨーコはジョン・レノンと結婚したから有名になったわけではない。ジョンと出会う以前から、すでに前衛アーティストとして確固たる地位を築いていたのだ。かりにジョンと結婚しなかったとしても、彼女はアート史に名を遺したであろう。

 オノ・ヨーコの初期の代表作『グレープフルーツ』は、私の大好きな本だ。「インストラクション・アート」と呼ばれるたぐいの作品で、さまざまな言葉による指示(インストラクション)が「作品」になっている。

 本の中にあるさまざまなインストラクションは、それ自体が詩のように美しい(じっさい、「詩集」として紹介されることも多い)。「好きな詩集を1冊だけ挙げよ」と言われたら、私はこの『グレープフルーツ』を挙げたい。

 たとえば、こんなインストラクションがある。

「月の匂いを嗅ぎなさい」

「地球が回る音を聴きなさい」

「雲を数えなさい。雲に名前をつけなさい」

「キャンバスに2つの穴をあけなさい。そして、空の見えるところにそれをかけなさい」

 ちなみに、最後のインストラクションには「空を見るための絵画」というタイトルがついている。空は、『グレープフルーツ』にかぎらず、オノ・ヨーコの作品にくり返し登場するモティーフである。
 「空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか」と、彼女はかつて述べたことがある。

 『グレープフルーツ』は、以前『グレープフルーツ・ブック』というタイトルで邦訳が出ていたが(新書館/田川律訳)、これはいまでは入手困難だ。むしろ原書のほうが、アマゾンなどでかんたんに手に入る。

 また、『グレープフルーツ』の中から50あまりのインストラクションを厳選し、我が国一流の33人のフォトグラファーの写真とコラボレーションさせた『グレープフルーツ・ジュース』という本もある(講談社文庫)。これもいい本だし、入手しやすいのでオススメ。

 なお、ジョン・レノンが『グレープフルーツ』にインスパイアされて名曲「イマジン」を作ったという話は、よく知られている。
 「想像しなさい(イマジン)」という言葉は、『グレープフルーツ』にくり返し登場するのだ。
「想像しなさい。/千の太陽が/いっぺんに空にあるところを」
「想像しなさい。/西から東へ/一匹の金魚が空を泳いでいくところを」
 というふうに……。


 さて、「YES オノ・ヨーコ展」について。
 大規模な回顧展である。1950年代の初期作品から最近作まで、半世紀にわたる創作活動の全貌が鳥瞰できる。

 飯村隆彦の著書『YOKO ONO/オノ・ヨーコ 人と作品』(講談社文庫)などでしか知らなかった彼女の代表作の数々を間近に観ることができたので、私は十分に満足した。
 ジョン・レノンとともに行なった有名な「平和のためのベッド・イン」の模様を映した映像や、「No.4」などの前衛映画作品も観ることができた。

 ちなみに、出展作品から私が好きなものをいくつか挙げると……。

・「空を開けるためのガラスの鍵」/透明なアクリル・ケースに収められた、4本のガラス製の鍵

・「永遠の時計(ETERNAL TIME CLOCK)」/秒針だけがあり、時針も分針もない時計が、アクリル・ケースに収められている

・「プレイ・イット・バイ・トラスト(信頼して駒を進めよ)」/駒も盤も、それが置かれたテーブルも椅子も、すべてが純白に塗られたチェスのオブジェ。かりにこのチェスを実際にプレイしたとしても、自分の駒なのか相手の駒なのか、すぐにわからなくなってしまうだろう。勝ち負け・争いごとを否定する意志が、この作品にはこめられている

・「リンゴ」/アクリルの展示台の上にポツンと置かれた本物のリンゴ。静物画を描くかわりにリンゴそのものを置き、それがしなびて腐っていくプロセスそのものをアート化した作品

・「スカイ・マシーン」/ステンレス製の「空の自動販売機」。「コーラの自動販売機のかわりに、街角に空の自動販売機があったらどんなに素晴らしいでしょう」とはヨーコの弁

 すべての作品に通底しているのは、力強い「肯定への意志」だ。「世界は悲惨に満ちているけれど、それでも希望を捨てまい、ユーモアを忘れまい」というポジティヴな意志が、みなぎっている。だからこそ、全体のタイトルも「YES」なのだ。

 ジョンとヨーコが惹かれあうきっかけとなった「天井の絵/イエス・ペインティング」も、もちろん展示されていた。ヨーコの個展を偶然観にきたジョンが、この作品に感動して彼女に興味を抱いたという、伝説的な作品である。

 白いはしごをのぼると、天井から釣り下がった白い板には豆粒のように小さい字が書かれている。そばに鎖で吊るされた虫メガネで見ると、「YES」という言葉が浮かび上がる。
 ジョンもまた、ヨーコの「肯定への意志」に胸打たれたのだった。

 会場の片隅には、「ウィッシュ・ツリー(願いの樹)」と題されたモミジ(?)の樹が展示されていた。
 来場者が、用意された小さな短冊に自分の願いごとを書き込み、その樹の枝に吊るすようになっている。要は、日本の七夕から想を得た参加型のアート作品である。展示が終わったあと、短冊はすべてオノ・ヨーコのもとに届けられるという。

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『ちょっと待って、神様』と『秋日子かく語りき』


ちょっと待って、神様 [DVD]ちょっと待って、神様 [DVD]
(2004/06/25)
泉ピン子、宮崎あおい 他

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 今年1月から2月にかけてNHKで放映されていた『ちょっと待って、神様』は、私が久々にハマッて観たテレビドラマであった。25日に、いよいよこのドラマがDVD・ビデオ化される。大島弓子の傑作短編『秋日子かく語りき』を原作にしたドラマである。

 『秋日子かく語りき』は、私がいちばん好きな大島作品である。メイン・サイトで1度この作品について書いたことがあるので、以下、その文章をコピペ。

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 大島弓子といえば、『綿の国星』などの作品で知られる少女マンガ界の大御所である。が、この『秋日子かく語りき』は、むしろ中年女性にこそ読んでほしい作品だ。

 大島作品の中に、「死者の蘇り」を描いたファンタジー短編が二つある。一つは映画化もされた『四月怪談』で、もう一つがこの『秋日子かく語りき』である。

 『四月怪談』では、事故死した少女が霊界でのさまざまな曲折を経て生き返るまでが描かれ、この『秋日子かく語りき』は、事故死した中年女性が、(女子高生の身体を借りて)一週間だけ生き返るいきさつを描いている。

 つまり、この『秋日子かく語りき』は、『四月怪談』を中年女性向けに焼き直したものとも思える(似ているのは基本設定だけだが)。2作品に通底するのは、「この世は生きるに値する」という力強いメッセージである。

「あんな人生なんにも納得してないんです」と天使に不平を言い立てた主人公が、一週間の〝猶予期間〟で人生の素晴らしさを悟っていく……優しい物語が、「マンガ界の印象派」と呼びたいやわらかな絵柄とあいまって、読む者の心を癒してくれる。

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 この『ちょっと待って、神様』では、中年主婦を泉ピン子が演じ(ハマリ役!)、彼女が〝猶予期間〟に身体を借りる女子高生・秋日子を、『ユリイカ』『害虫』などの作品で知られる宮崎あおいが演じている。

 この、宮崎あおいの演技がじつに達者! 「外見は女子高生でも中身はオバサン」という難役を見事にこなしている。彼女の演技を見るためにも一見の価値があるドラマだ。

 基本設定を除けば、原作とは異なるストーリーだ。原作は短編だから主人公・竜子1人の「蘇生の物語」となっていたが、ドラマのほうは周囲の人間たちもしっかり描きこみ、主要登場人物全員が「蘇生」していく物語になっているのだ。

 事故死した竜子に身体を貸す少女・秋日子も、竜子の夫と2人の子どもたちも、秋日子になりかわった竜子との交流をとおして変わり、「蘇生」を遂げて新たな人生のステージに向かうのである。

 ストーリーの細部は違っても、大島弓子の原作がもつテイスト、そして「この世は生きるに値する」という力強いメッセージは、このドラマにもきちんと〝移植〟されている。原作ファンとしても十分納得。非常にクオリティーの高いドラマであった。

 ついでに一言。
 このドラマのエンディング・テーマになっているのが、島谷ひとみの「元気を出して」。
 作者・竹内まりやの歌で知っている人が多いだろうが、もともとは竹内が薬師丸ひろ子のために書いた曲。薬師丸の歌手としてのデビュー・アルバム『古今集』のオープニングを飾った曲で、我々薬師丸ファンには忘れられない曲なのである。ドラマの雰囲気にもよく合っている。
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『なぜ「少年」は犯罪に走ったのか』

 碓井真史(まふみ)著『なぜ「少年」は犯罪に走ったのか』(ワニのNEW新書)、『少女はなぜ逃げなかったのか/続出する特異事件の心理学』(小学館文庫)読了。

 今日はこれから新潟へ日帰り取材。著者の碓井氏(心理学者/新潟青陵大学教授)へのインタビュー。テーマは例の小6女児殺害事件である。そこで、ドロナワで碓井氏の著書を2冊読んだというわけ。

 2冊とも2000年に出たものである。
 前者は、当時続発していた少年による殺人事件について、後者は、新潟の少女監禁事件、京都小学生殺害事件(「てるくはのる」事件)などの特異犯罪について扱っている。
 犯罪の背景を心理学者としての視点から分析し、社会の病理に歯止めをかける方途を探った内容。4年前の本ではあるが、今回の長崎の事件を考えるうえでも示唆に富む指摘が多い。また、人目を引く極論や奇をてらった主張を避け、ごく常識的でニュートラルな目線から意見を述べる姿勢が好ましい。

 2冊のうち、とくに『なぜ「少年」は犯罪に走ったのか』は良書だと思う。
 印象深い一節を引こう。

「問題のない家庭がよい家庭ではありません。家族1人ひとりの問題を、家族全体の問題としてとらえ、家族全体で解決に向かっていくのがよい家庭です。(中略)
 家庭にも、学校にも、どこにでも常に問題はあります。『我が校にはいじめも非行もなく、何の問題もない学校です』などと管理職がいう学校で、本当によい学校など見たことがありません。
 不器用にばたばたしながら、問題を解決していけばよいのです」
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子どもの名前の話

 人名用漢字を一挙に578字も増やそうとする見直し案が、11日に公表された。「苺」「遥」「煌」「牙」などが使用可能になって名づけの選択肢が広がった一方、「糞」「呪」「屍」「癌」などというネガティヴなイメージの字が多く含まれ、話題を呼んでいる。

 我が家には小5の娘と小1の息子がいるからよくわかるが、いまどきの子どもには「うへー」と言いたくなるような奇天烈な名前の子が少なくない。もしも見直し案がいまのまま成立したら、「癌子ちゃん」も「呪怨くん」も必ずや登場するであろう。

 ちなみに、うちの子の名前は「夏海」と「光」というごくシンプルなものである。決めたのは2人とも私。命名にあたって考えたのは、「電話で名前を説明する際に、一発でわかってもらえる名前」にしようということだった。
 「政之」というありふれた名前の私でさえ、電話口での説明に手間取ることがある。こんなふうに……。

「えーと、政治の政に、ひらがなの『え』に似た之です」
「ひらがなの『え』?」
「あのー、『これ』とも読む字ですね」
「『これ』…ですか?」
「お墓に『誰それの墓』って書いてある、あの『の』の字です」
 
 ましてや、難読文字や突拍子もない読み方をさせる名前をつけられたら、社会に出てから何かと難儀するにちがいない。だから「わかりやすい名前にしよう」と決めていたのだ。
 2人合わせて「光る夏の海」。そんなイメージも気に入っている。

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 子どものころ、私は「佳子」とか「佳江」という名前の女性がカワイソウに思えて仕方なかった。
 なぜなら、絵画コンクールや作文コンクールのたぐいでは、佳作は「優秀作」や「一等・二等」になれなかった作品がもらうものだから。「佳」という字には、「いちばん優れているわけではない」という意味があるのだと思っていたのだ。

 私の身近にはいなかったが、姉が「優子」で妹が「佳子」という姉妹がいたとしたら、妹は「アタシはお姉ちゃんよりランクが下なの?」と、その名前に傷つくのではないだろうか。

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 亡くなった私の父は、酒に酔うと、幼かった私のことを「アキちゃん、アキちゃん」と呼んで、頭をなでた。
 
 「アキちゃん」とはいったいなんのことだろう? 不思議に思ってあるとき尋ねてみて、理由がわかった。

 私が生まれて名前を決める際、父は私に「明人(あきひと)」と名づけたかったのだそうだ。
 ところが、祖父が「皇太子様と同じ名前をつけるなんて、畏れ多い」と時代錯誤なことを言って反対し、けっきょく「政之」になったのだとか。

 「皇太子様」とは、むろんいまの天皇のことである。あちらは「昭仁」だけれど。

 もしも「明人」という名前になっていたら、私も物書きになどならず、日焼けした肌に白い歯が輝くような「明るい人」になっていたかもしれない(笑)。
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ライターのためのオススメ本4冊

「超」文章法 (中公新書)「超」文章法 (中公新書)
(2002/10)
野口 悠紀雄

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吉岡忍+古木杜恵グループ著『フリーランス・ライターになる方法』(NHK出版・生活人新書/680円)
 「吉岡さんほどの大御所ノンフィクション作家が、なぜいまごろライター入門?」といぶかしく思ったのだが、読んでみればやっぱり“名前貸しただけ”という感じ。
 吉岡さんと古木杜恵氏(ちなみに男性)は「巻頭対談」に登場するだけ。本文はほかの無名ライターが書いている。羊頭狗肉にもほどがある。まあ、ゴーストライターをしょっちゅうやっている私が言うのもなんだけどさ。

 で、中身はというと、巻頭対談と「著名ライターの修行時代」というインタビュー・コーナー(重松清、佐野眞一、与那原恵らが登場)だけが面白く、ライターが頭で書いたほかの章はことごとくつまらない。安い新書だから、面白い部分が少しでもあれば腹は立たないが…。

 私がつねづね「ライターの鑑」として尊敬してやまない重松清氏は、さすがにいいことを言っている。たとえば――。

「仕事をしながら必ず意識していたのは、その雑誌にとっての『マスの読者』を考えて、依頼されたページに最も効果的な記事を書くということだった。その雑誌にとっての『読者』について考えるとき、ぼくはしっかりと広告まで読みこんでいたよ。(中略)その雑誌のターゲット、『マスの読者』というのは、その広告を見ればわかる」

 なるほどなるほど。
 私は中綴じの週刊誌を買うとまず広告の部分をビリビリ破り捨ててから読むクセがあるのだが、そのぶんライターとしてはまだ甘いのだな(笑)。

野口悠紀雄『「超」文章法』(中公新書/780円)
 上質の文章読本。論文やちょっとしたエッセイなど、実用文を書くための文章作法を説いた本だが、ライターが文章を磨くためにも役立つ本である。いいアドバイスがたくさんある。

 野口は、大要次のように主張する。

“従来の文章読本は文体などの「化粧」にばかり紙数を割いてきたが、本書は「化粧」よりも文の「メッセージ」と「骨組み」を重視する。「メッセージ」とは文の命題であり、「一言で言える」ほど単純明快な主張でなければならない。「文章が成功するかどうかは、八割方メッセージの内容に依存している」。文体や言い回しには「せいぜい二割以下のウエイトしかない」。
 伝えたいメッセージが見つかったなら、文体に凝るなどの「化粧」をする前に、「比喩と具体例と引用」を駆使してメッセージの説得力を強めることが先決だ。これを文章の「筋力増強」と呼ぼう”

 そして、この主張が各章で具体的に展開されていく。
 内容はすこぶる論理的で明快。あいまいなところが微塵もない。
 実用向けの文章読本としては、本多勝一の『日本語の作文技術』や木下是雄の『理科系の作文技術』がこれまで名著に数えられてきたが、私はこの本こそ、その二著をしのぐ名著だと思う。
 
「社内報にエッセイを書くように頼まれてるんだけど、何をどう書いたらいいものやら」などと困っている人には、とくにオススメ。きっと、速効性があるはずだ。

玉村豊男著『エッセイスト』(中公文庫)
 ベテラン・エッセイストが、物書きとしての歩みを綴った自伝的エッセイである。上品なユーモアを漂わせた文章の読みやすさはさすが。

「ライティング・ビジネスの経済的側面についてもできるだけ情報を提供しようとするものである」から、ライターもしくは志望者にとっても大いに参考になる。たとえば、「原稿料の研究」「取材と必要経費」「印税とは」などというエッセイもある。

 何度もうなずきながら読んだ。とくに、次のような記述はまったくそのとおりだと思う。

「私はフリーでいることの最大のメリットは、
『いつでも喧嘩をしてやめられる』
 ことだと考えていた。気に入らないことがあれば蹴とばして、啖呵を切ってやめる。そのときに、出かかった言葉を呑み込んでしまうのは単なる下請けである。フリーではない。フリーの自由とは、私見によれば、〝いやならいつでもやめられる自由〟なのだ」

 また、こんな一行もある。

「フリーライターの数は好景気のときに増え、不況のときに減る」

 これもそのとおり。私の周囲にも、「平成長期不況」でライターを廃業してしまった人は少なくない。

 本書は、エッセイストとしての〝サクセス・ストーリー〟でもある(ただし、自慢話的なイヤらしさはない)。「エッセイスト」という肩書きのもつ優雅な響きとは裏腹に、人気エッセイストとしてやっていくためにはビジネスマン的資質にも恵まれていなければならないことが、よくわかる。

大前研一著『ドットコム仕事術』(小学館/1300円)
「お前は会社員でも経営者でもないのに、なぜビジネス書など読んでいるのか?」といぶかる向きもあろうが、私はビジネス書もけっこう読む。質の高いビジネス書にちりばめられた提言は、フリーランサーの仕事にも援用可能だからである。

 本書もしかり。30代以上のビジネスマンを読者対象にした本ではあるが、「ライターの仕事術」として読むことができる。
 
 たとえば、第Ⅱ章「企画発想力」は、そのまま「ライターにとっての企画発想力」として読める。
 この章で、大前は次のように言う。

「企画を考える際、テレビ、新聞、雑誌、書籍、あるいはインターネットからネタを拾おうとする人が多い。この方法で、良いアイデアを得るのは非常に難しい。情報を受け身で受信してしまうため、好奇心や構想力があまり刺激されないからだ。(中略)
 企画のヒントは、自分自身の日常生活の中から探すべきである。たとえば通勤電車の車内は、周囲の客を眺め、彼らを対象にしたビジネスがないものか、と思案を巡らせる場ととらえるべきだ。(中略)
 自分が日常生活の中で日々感じている『なぜだろう』という疑問をプランにする。これは企画力を身につけるうえで有効な方法の一つだ」
 
 この文中の「ビジネス」という言葉を、ライターは「単行本企画」「雑誌の記事企画」に置き換えて読めばよいのである。

 同様に、若き日の大前がいかに自分を磨いてきたかをふまえて書かれた第Ⅶ章「人間力を鍛え直そう」も、ライターのスキルアップに援用できる提言を多く含んでいる。

 たとえば、「長期休暇は勉強に不向き」という項目で、大前は次のように言う。

「長期休暇中に自己改造に励む人もいるだろう。(中略)だが、たかだか1週間か10日程度の休暇で自己改造ができると思うのは、幻想にすぎない。ふだんの習慣にないことを無理にしようとしても三日坊主に終わるだろう。
 そんな自己改造は毎日、毎週、毎年、日々のスケジュールの中にきちんと組み込むべきだ。本当の自己改造は日々行ってこそ実現するものなのである」

 ふだんできないことは時間があってもできない。だからこそ、休暇中は家族との交流と休息・リフレッシュに専念せよ。そして、長期休暇の予定は年の初めに決め、何があってもその予定を死守せよ、と……。
 ああ、ライターが読んでも身にしみる。

 ただ全体的に、大前の自慢話が多いのが鼻につく。まあ、自慢に値する華麗なキャリアを積んできた人ではあるのだけれど……。
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言葉の「凶器性」、ネットの「毒性」

1.言葉は凶器にもなる
 ネットの書き込みが殺意を呼び起こしたとされる長崎の小6児童殺害事件を機に、またぞろ「インターネット害悪論」がかまびすしい。
 私に言わせれば、「ネットが凶器になる」というより、もともと言葉には強い「凶器性」があるのだ。その凶器性がネットの世界では先鋭化するというだけのことである。

 以前、メイン・サイトの「極私的ライター入門」で、「マスコミに物を書く重い責任」という項目を書いた。以下、それをコピペ。

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 私の知人が、ある著名な評論家に批判の手紙を書いた。「あなたの○○という著作を読んだが、○○についてのこの意見は、ちょっとおかしいのではないか」うんぬん。ていねいな言葉をつかった真摯な批判であったという。
 
 何日か経って、その評論家から知人に手紙が届いた。
 「へえ、忙しいのにちゃんと返事をくれたのか。律儀な人だな」と思いつつ封を開けると、中からハラハラと紙吹雪が……。
 「なんだこりゃ?」
 ――よく見ると、紙吹雪の正体は知人が出した手紙だった。その評論家は、返事を書くかわりに、相手の手紙を紙吹雪大になるまで細かく破り、そのあげくにわざわざ送り返してきたのである。

 評論家が怒りに震える指で批判の手紙を破っていくさまを思い浮かべると、サイコホラーの一場面のようである。罵詈雑言を並べた返事をもらうよりずっとコワイ。「この人をこれ以上怒らせたら何をされるかわからない」という気持ちになる。

 しかし、である。
 こうした態度はまことに大人気なく、恥ずかしいと思う。知人の手紙は誹謗中傷ではなくまっとうな批判だったのだから、それに対して反論があるならきちんと書けばよい。反論を書く時間がないなら、無視すればよい。「ワタシを批判するとはケシカラン!」的な思考停止のキレ方をするのは、物書きにあるまじき態度である。

 作家であれ評論家であれライターであれ、マスメディアに物を書いて食っていくからには、自分の書いたものには責任をもたねばならない。責任をもつとは、事実誤認は極力ゼロに近づけ、まちがいがあったら謝罪・訂正するなどの真摯な対応をし、批判はきちんと受けとめる(=その批判が妥当か否かを客観的に判断し、妥当であれば素直に反省する)ことである。

 そして、まったく批判を受けない物書きというのはあり得ない。一つの意見を表明すれば、必然的に、その意見に同意しない読者の反発を買うからだ。
 
 たとえば、私が「荻野アンナの『背負い水』はそこらへんのOLのウェブ日記と同レベル。なんでこんなのが芥川賞なの?」という意見をマスメディアで表明すれば、その瞬間、荻野本人およびそのファンを敵に回すことになる。イソップ童話のロバの話ではないが、どんな意見も「すべての人を納得させることはけっしてできない」のである。

 読者からの批判に対しては、誹謗中傷でないかぎり、すべて返事を書くことが望ましい。私のような無名ライターでもたまに批判の手紙やメールをもらうが、私は原則的にはすべて返事を書いてきた。
 とはいえ、これはシンドイ作業である。きちんとした返事を書くにはそれなりに時間と労力を費やさねばならず、それはどれだけ書いても原稿料が発生しない文章なのだから……。
 
 有名になればなるほど、多くの読者からの批判に身をさらさねばならない。
 しょっちゅう批判の手紙やメールをもらうであろう著名ライターともなれば、すべての批判に反論することは物理的に不可能である。
 ただ、返事を書く書かないは別として、批判に身をさらす覚悟はつねにもたねばならないし、その批判を冷静に受けとめる視点を保たねばならない。

 車を運転するのに免許がいるのは、車が人を殺す凶器になり得るからである。同様に、ライターがマスメディアに発表する文章も、ときに人を殺す凶器になり得る。物書きを目指すなら、これを「大げさな……」と笑ってはならない。マスメディアというものにはそれくらいの力があるのだ。
 
 しかしながら、マスメディアに物を書くには免許などいらない。だからこそ、ペンが凶器になることを自覚しない未熟な物書きも大勢いる。
 ペンの凶器性に最も自覚的であらねばならないのは、いうまでもなく、新聞記者などのジャーナリストである。
 しかし、たとえ軟派なジャンルばかりこなしているフリーライターであっても、ペンの凶器性に無自覚であっていいわけではない。どんなジャンルの原稿であれ、また、書き手に悪意がまったくなくても、書いたものが人の心を傷つけることはあるのだから……。

 私自身の最近の体験を例に挙げよう。
 鈴木宗男に関する少し前の週刊誌の狂騒ぶりについて、写真家の藤原新也氏は、氏のサイトのダイアリーで「自閉症的熱狂」と評した。言い得て妙だと思ったので、私はその言葉を某紙に連載していたコラムに引用し、“1つの週刊誌に3つも4つもムネオ批判記事が載る状況は行き過ぎだ”と批判した。
 
 しばらくして、そのコラムに対する批判・抗議の手紙を2通もらった。
 1通は自閉症児教育に携わる女性からのもので、もう1通は自閉症児の親の友人だという女性からのものだった。批判の趣旨は同じで、私のコラムの中の「自閉症的」という表現が自閉症への誤解に基づいていて、自閉症児差別を助長するものだ、というのであった。

 一瞬カチンときて、「これが噂に聞く言葉狩りってやつか」と思った。だが、そのうちの1通には「自閉症の子をもつ私の友人は、あなたのコラムを読んでひどいショックを受けています」とまで書いてあったので、さすがに気になって、自閉症について少しくわしく調べてみた。

 するとたしかに、自閉症は脳障害の一種であって、“外の世界に目を向けない様子”の比喩として「自閉症的」という言葉をつかうのは不適当であった。もちろん、私自身に差別の意図など微塵もなかったが、自らの不勉強と無神経な言葉の選び方は大いに反省した。

 このように、書き手に悪意がなくても、また、たった1つのなにげない言葉であっても、それがある立場の読者に「ひどいショック」を与えることはつねにあり得るのだ。

 そして、1通の批判の手紙の背後には、同じように感じても手紙を書くまでには至らない、たくさんの読者の声が隠れている。
 
 ビクビクしながら書く必要はないにしろ、マスメディアに物を書く重い責任をつねに念頭に置いて、キーボードに向かわねばならない。

----------------------------

 以上はマスメディアに物を書く場合の話だから、ウェブ日記にそのままあてはまるものではない。

 私自身、雑誌に書く原稿よりはずっと気楽にこの日記を書いている。たとえば、事実確認に要する労力は半分以下だ(「マスメディアじゃないのだから、間違っていたらあとで直せばいい」と思っているから)。「責任」についても、まあ、雑誌原稿よりはずいぶん軽く考えている。

 ただ、文章が人を傷つける凶器にもなるという点は、マスメディアもウェブ日記も本質的には同じだろう。実害が及ぶ規模が違うだけだ。

 であるならば、ウェブ日記の書き手にも、「自分の言葉が凶器にもなる」といういくばくかの自覚は必要だろう。車を運転する際に、「自分が殺人者になる可能性」を心の隅に置く必要があるように……。

 上にコピペした文章の「自閉症的熱狂」という表現をめぐっては、この文章を書いたあと、さらにもう一通抗議の手紙がきた。
 また、引用元である藤原新也氏の側にも同様の抗議があったらしく、藤原氏ものちに日記からこの言葉を削除している。

 つい先日、石破防衛庁長官が「自閉隊」なる言葉を不用意に使って物議を醸したが、同じような失敗をしている私には、石破を笑うことはできない。

 同様の苦い思い出は、ほかにもある。

 たとえば、ある原稿で「〇〇にはちょっとしたスピード違反程度の罪の意識しかないらしい」という文章を書いたところ、その記述に対して抗議の手紙をもらったことがある。
「交通三悪の一つであるスピード違反を、“取るに足らないこと”の喩えに用いるとはケシカラン!」というのが、その抗議の趣旨だった。

 よもやそんなことで抗議されるとは思っていなかったから、驚いた。しかし、少しばかり想像力を働かせれば、これはたしかに配慮不足であった。
 たとえば、スピード違反の車によって事故死した肉親をもつ読者が読んだら、どう感じるであろうか?

 言葉というのは、それくらいこわい。書き手がなんの悪意ももたずに書いた一見取るに足らない言葉が、人を深く傷つけることがあるのだ。

 田中元外相の長女のプライバシーを暴いた『週刊文春』の記事について、「あの程度の記事でプライバシー侵害と騒ぐとは……」と長女を非難する声が少なくなかった。が、私には絶対そんなことは言えない。
 心の痛みの度合いは、当人にしかわからない。長女にとってあの記事は、販売差し止めを申し立てざるを得ないほどの「痛み」をもたらすものだったのだろう。

 かくいう私のこの日記だって、いつどこで誰を傷つけているかわからない。誰も傷つけず、誰の反発も買わずに公開のウェブ日記を書きつづけることは不可能なのである。
 だから、せめて「言葉の凶器性」を心の片隅で自覚しつつ、ウェブ日記をつけようではないか。

 評論家の加藤周一が『過客問答』(かもがわ出版)という本で述べていたことだが、フランスには「意見の違いを楽しむ文化」があるという。その点、日本とはまったく違う。日本人はとかく、意見(とくに政治的主張)の違う相手を即座に「敵」と見なし、攻撃してしまいがちだ。

 「一億総ライター時代」ともいえるウェブ日記/ブログ全盛期が到来しつつある。いわゆる「ネチケット」は、今後ますます重要性を増していくにちがいない。

2.ブログと「ストローク」
 「ストローク」という心理学用語がある。
 「ある人の存在や価値を認めるための言動や働きかけ」のことで、親が子どもの頭をなでることから上司が部下をほめること、あるいは「おはよう」などというあいさつまでの幅広い行動が「ストローク」に含まれる。
 また、肯定的な行動だけがストロークなのではない。叱られること、罵倒されることなどは「否定的ストローク」と呼ばれる。

 ウェブ日記はストロークに満ちている。
 日記の内容を掲示板やメッセージでほめられること、「私もそう思う!」と同意の意志を示されることはもちろん、リンクされることやアクセスされることも広義のストロークといえよう。

 しかし、ウェブ日記/ブログのもたらすストロークは、当然のことながら両刃の剣である。

 まず、肯定的ストロークばかりがあるわけではない。
 ヴァーチャルな世界の出来事とはいえ、日記の内容を批判中傷されれば気分は悪い。また、ほかの日記の掲示板に書き込みした内容を無視されたり、一方的に削除されたりすれば、たとえ相手に悪気はなくてもいやな気分になる。

 トラックバックについても、むろんよい面ばかりがあるわけではない。
 たとえば、作家・室井祐月のブログを見てみたら、2ちゃんねるの「痛いBLOGを晒すスレ」なるものからのトラックバックがしっかりと表示されていた(笑)。

 また、肯定的ストロークであっても、たやすく得られるストロークを求めて、ネット中毒症状に陥りかねないという危険性がある。

 いまどきの中高生は、友達とケータイ・メールで「起きたー?」「学校着いたー?」「いま何してるー?」などという無意味なやりとりをくり返す。その姿を大人たちは笑うが、ああしたやりとりもストロークを求めてのものなのであり、私たちがウェブ日記やブログにハマることと本質的な違いはない。

 ウェブ日記中毒にご用心、である(むろん自戒もこめて)。
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「取材力強化」(『編集会議』7月号)


編集会議 2004年 07月号 [雑誌]編集会議 2004年 07月号 [雑誌]
(2004)
不明

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 花田紀凱が流れ流れて編集長をつとめている業界誌『編集会議』。
 私は、かなり前の「フリーライター特集」のときに1度買って悪口を書いたことがある。以下コピペ(2002年11月26日付)。

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 「フリーライターになる!」という「総力特集」が読みたくて、『編集会議』12月号を買ってきた。

 職業柄、一般誌がこの手の特集を組んだときには目につくかぎり買っている。で、整理魔な私は、「ライター特集」の部分だけを切り取ってきちんとスクラップもしている。

 というわけで、過去に他誌がやった同趣旨の特集と比較して読んでみたのだが、ダメっすね、『編集会議』。まがりなりにも編集者向けの業界誌なのだから「クロウト向けの深さ」を期待したのに、以前『鳩よ!』(95年10月号「フリーライターへの道」)や『ダカーポ』(99年2月3日号「フリーライター養成講座」など)がやったライター特集のほうが、よほど面白かった。

 わずかに新鮮だったのは、失業手当・国民健保・国民年金などとのつきあい方を考えた「無頼(フリー)になるための“お役所”活用術」という記事。おもしろかったのはこれくらいで、あとはどれもありきたり。

 たとえば、「フリーライターとしてなんとしても生き残るための10の条件」という記事があるのだが、これが箸にも棒にもかからない内容。
 「10の条件」の中には「健康に気を遣え!」「金銭感覚を身につけろ!」などというものがあるのだが、そんなあたりまえのことをわざわざ「!」つけて強調されても、「トホホ~」って感じである。

 『編集会議』といえば、『週刊文春』→『マルコポーロ』→『UNO』→『メンズ・ウォーカー』と、雑誌を移るたびにマイナーになっていく「元・敏腕」花田紀凱氏が編集長をつとめる雑誌。
 花田氏がすっかり「過去の人」であることがよくわかる特集でありました。

※追記/じっくり読み直して気づいたが、この特集の質の低さは、使っているライターのほとんどが駆け出しの新人であることによる。花田編集長が「校長」をつとめる『編集会議』の「編集・ライター養成講座」の出身者ばかり起用しているのだ。
 880円もする雑誌なのに、自分のところのライターズ・スクールの生徒の練習に使っているとは…。買う読者こそいい面の皮だ。(コピペ終わり)

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 いま出ている7月号は「取材力強化」なる「総力特集」だったので、久々に買ってみた。
 今回は中身もよかった。

 特集のトップ記事は、「気鋭のジャーナリストが明かす私の取材作法」。大谷昭宏、野村進、与那原恵、高山文彦、江川紹子の5人へのインタビューである。
 いい言葉がたくさんちりばめられている。いくつか拾ってみよう。

「事前に資料を読み込んだ上で、(取材)当日はそれらすべてを白紙に戻して、相手に会うようにします」
「過去のインタビュー記事を見て、それまで聞かれていない斬新な角度を探す。その人の一生で一度も聞かれたことのないような、意表をつく質問を考えるわけです」(野村)

「取材というものは、基本的にはすべてやりにくいと思ってたほうがいいですよ。所詮は赤の他人同士なわけですからね、過剰な期待はしない(笑)」
「取材力って、現場の力じゃなくて、日ごろの筋トレの成果なんです」(与那原)

「取材先では、徹底的に歩くようにしています。歩いてその土地の等高線を身体に刻み込む、そんな感じです。人間の足の裏にも動物と同じ肉球のようなものがあって、そこを通して入ってくる目に見えない情報がいっぱいある」(高山)

 私がこの特集でいちばん感心したのは、「インタビュー時に困らない言葉の辞典 聞き方上手」なる記事である。

 ライターがインタビューをする際に何よりもコワイのは、「空白の時間」だ。頭の中が真っ白になって何を聞いたらよいかわからなくなり、気まずい沈黙が流れる時間――これほどイヤなものはない。

 この記事は、「空白の時間」を作らずに淀みなく話を進めるノウハウを、微に入り細を穿って教える内容なのである。
 インタビューの始め方から終わり方まで、上手な相槌の打ち方から話が脱線した際に軌道修正するコツまで、細かすぎるほど細かいアドバイスが盛り込まれている。

 これは使える!
 とくに、駆け出しライターや「ライター志望者」は熟読して頭に叩き込むべし。ある程度のキャリアを積んだライターにとっても役に立つアドバイスが多い。
 ちなみに筆者は斎藤直隆という私の知らないライターだが、只者ではないと見た。

 もっとも、ほかの記事で金子達仁が指摘しているとおり、インタビュー時の「沈黙」には、「じっと黙って付き合っていればいい沈黙」もある。相手が言葉を探しているがゆえの沈黙である場合もあるからだ。

 そのほか、この号には永江朗の連載「名インタビュアー列伝」で、名インタビュアーの誉れ高い黒柳徹子が登場している。永江には『インタビュー術!』という著書もあるだけに、この記事自体、非常によくできたインタビュー記事になっている。

 ともあれ、ライターおよびその卵なら、今月号の『編集会議』は880円を出して買う価値がある。

 関係ないけど、表紙になっている20歳の作家・島本理生(ロング・インタビューもあり)は、プチ整形でまぶたを二重にしたら見違えるような美人になるタイプと見た。思いっきり余計なお世話ですが(笑)。
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『レディ・キラーズ』

 レディ・キラーズの画像

 私がいちばん好きな映画監督、コーエン兄弟の新作『レディ・キラーズ』。
 前作『ディボース・ショウ』を観たのが4月末だというのに、早くも新作公開。諸事情で前作の日本公開が遅れたのか、それともこちらが早めの公開なのか? いずれにせよ、つづけざまに新作が観られるのはうれしい。

 『ディボース・ショウ』は、悪い映画ではなかったが、「コーエン兄弟らしさ」が希薄で物足りなかった。対照的に、この『レディ・キラーズ』は隅から隅までコーエン兄弟らしさ全開だ。

 クライム・コメディである。
 『マダムと泥棒』という1955年のイギリス映画のリメイクなのだという。あいにく私は元の映画を観ていないが、アカデミー脚本賞もとっている傑作らしいので、こちらもぜひ観てみたい。

 アメリカ南部を舞台に、カジノの売り上げをそっくりいただく完全犯罪を企てた犯罪者5人組と、彼らとかかわりをもってしまった黒人老女が巻き起こす珍騒動を描いている。

 家計の助けに貸し部屋を営む老女の家の地下室は、カジノの地下金庫にほど近い。5人組のリーダー(トム・ハンクス)は、自らを大学教授と偽って部屋を借りる。そのうえで、「中世の古楽器を演奏する趣味のサークルの練習に使いたい」とウソをついて地下室を借り、金庫までのトンネルを掘ろうとするのだった。

 以下、ネタバレ注意!

 前半は、計画遂行までのすったもんだで笑わせる。
 トム・ハンクスが集めたほかの4人というのが、「犯罪のプロ」にはほど遠いマヌケばかり。また、家主の老女も、善良だがクセのある強烈なキャラクターで、5人を翻弄する。
 「完全犯罪計画が、1人の老女によってあらぬ方向に進み始める」という話の骨格は、『大誘拐』みたいだ(てゆーか、『大誘拐』のほうが『マダムと泥棒』を意識して書いたのかも)。
 
 後半は、ブラックな味わいがいっそう強まる。
 犯罪計画は成功するものの、老女に正体がバレてしまう。「アンタたち、すぐに金を返して教会へ行きな!」という老女を、5人組は殺そうとする(ゆえにタイトルが『レディ・キラーズ』)。彼女の善良さを知ってしまった5人の誰もが手を下すのを尻込みし、やむなくクジ引きをするのだが……。
 
 犯罪者5人組は、ろくでもない連中なのに、不思議とみな憎めない。じつに殺伐とした話なのに、映画全体の雰囲気は不思議にほのぼのとしている。強烈なブラック・ユーモアと、底に哀しみを秘めたペーソスの共存。この奇妙な味わいこそが、『赤ちゃん泥棒』以来の「コーエン・タッチ」である。
 『ディボース・ショウ』の2倍は笑える傑作。コーエン兄弟ファンは必見だ。

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 ほかの人のブログでの感想を見てみると、「テンポが悪い」「犯罪者5人組がマヌケ揃いなのが不自然」「『ディボース・ショウ』のほうが切れ味がよかった」という酷評が目立つ。
 私はいちいち心の中で反論したくなってしまう。

 「テンポが悪い」んじゃない。意図的にズレまくっているのであり、そこがよいのだ。『オーシャンズ11』みたいな“たたみかける展開で見せる犯罪映画”の対極にあるのだ。
 「犯罪者5人組がマヌケ揃いで不自然」って、不自然だからこそ面白いんじゃないか。
 「『ディボース・ショウ』のほうが切れ味がよかった」ように見えるのは、あちらのほうが「普通の映画」で、コーエン兄弟らしくないからだ。

 なお、傑作『オー・ブラザー!』が音楽映画でもあったように、この『レディ・キラーズ』も、随所に使われるゴスペルがすこぶる心地よい。

 それと、ストーリー上も重要な役割を果たす老婦人の飼い猫「ピクルス」が、強い印象を残す。こんなにも猫が美しく撮られた映画も珍しいのでは? 猫好きの人にもオススメ。
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マット・リドレー『やわらかな遺伝子』

やわらかな遺伝子やわらかな遺伝子
(2004/04/28)
マット・リドレー中村 桂子

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 マット・リドレー著、中村桂子・斎藤隆央訳『やわらかな遺伝子』(紀伊国屋書店/2400円)読了。

 著者は英国のサイエンス・ライター。
 英オックスフォード大学で動物学を学んで博士号を取得、『エコノミスト』誌ほかの科学担当記者を経て、現在は英国「国際生命センター」の所長。コールドスプリングハーバー研究所の客員教授でもある。

 吹けば飛ぶよな「ライターさん」である私など、聞いただけで恐れ入ってしまう輝かしい経歴だ。学者に教えを乞うライターというより、一流の学者と対等に伍して議論をかわすだけの力をもった、本格派のサイエンス・ライターなのである。

 2001年に邦訳が出たリドレーの前著『ゲノムが語る23の物語』は、ゲノム(=「遺伝子の一揃い」のこと)研究の歴史と最先端を知るための科学啓蒙書として出色だった。「さすがは『ネイチャー』の国イギリス、サイエンス・ライターの中にもすごい逸材がいるものだ」と唸ったものである。

 この『やわらかな遺伝子』は、『ゲノムが語る23の物語』の続編といってよい内容。ただし、前作が遺伝子をめぐる興味深い話題を総花的に取り上げていたのに対し、本書はテーマを1つに絞っている。
 そのテーマとは、「遺伝子決定論者」対「環境決定論者」の、世紀を跨いだ長い論争――平たくいえば「生まれか育ちか」の論争――の総括である。

 遺伝子の研究が進むにつれ、人間の生き方や性格などがすべて遺伝子によって生まれつき決定済みであるかのようにいう「遺伝子決定論者」が多数現れた。

 他方、「生き方や人となりを決めるのは環境や生活習慣であり、遺伝子が与える影響など取るに足らない」とする研究者も少なくない(遺伝子決定論がナチズムと陸続きの「優生学」を連想させたことも、反発を招いた原因である)。

 遺伝子決定論と環境決定論がいずれも、遺伝子の影響を過大評価もしくは過小評価した極論であることは、科学者ならずとも常識でわかる。
 遺伝子ですべてが決まるわけではないが、遺伝子で決まっている部分も少なくない。「生まれか育ちか」の二者択一ではなく、「生まれも育ちも」ともに人間の生き方を決める要件なのだ。あたりまえの話である。

 とはいえ、そのことを科学的に厳密に論証するのはたいへんな難事。本書はその難事に挑戦したものといえる。
 すなわち、これまでにわかった遺伝子をめぐる膨大な知見をふまえ、遺伝子と環境がどのように人間の生き方にかかわっていくかというメカニズムを、ダイナミックに解き明かした労作なのである。

 著者は、文献を渉猟するとともに第一線の研究者たちに取材をくり返し、これまでに行われてきた「生まれか育ちか」の論争の軌跡を精緻にたどっていく。
 論争の大きな争点となったテーマごとに章が立てられ、各テーマをめぐる研究者たちの主張とやりとりが手際よくまとめられていく。たとえば、“性差を生むのは遺伝子か環境か?”、“統合失調症は遺伝病か否か?”、“双子についての研究結果は、生まれと育ちのどちらが重いことを示しているか?”などというテーマである。

 いずれも、原典の論文ははるかに難解なのだろうが、著者の文章は平明でユーモアとウィットに富み、しかも興味深いトピックが随所にちりばめられているので、楽しく読みとおすことができる。
 思わず人に教えたくなるようなトピックが、400ページ近い本文の中に山盛りである。たとえば――。

「マウスは、目が開いてから三週間暗闇で育てられると、事実上盲目のまま一生を送る。視覚系が成熟するためには、光を経験しなければならない。要するに、マウスの脳には『生まれ』も『育ち』も必要なのである」
「動物界では、一卵性双生児はめったにできない」
「ボノボ(ピグミーチンパンジー)は、ごちそうを祝ったり、諍いを終わらせたり、友情を固めたりするために性交をする」
「早いうちに離ればなれになった双子は、大きくなってから離れた双子より、共通点が多い」(※引用者注/同じ家族の中で育てられると、何かにつけて双子の差異が強調されるため、相違点のほうが際立つようになる)
「哺乳類である人間は、雄性化が起きないかぎり本来は女性である。女性が『デフォルトの性』なのだ(鳥では逆に雄がデフォルトになる)」

 原題「nature via nurture」は、「生まれは育ちを通して」の意。ここに、「生まれか育ちか」についての著者の結論が集約されている。著者によれば、遺伝子の役割は巷間思われているほど固定的なものではなく、経験によって左右されるのだという。

「あなたの脳内で発現する遺伝子のパターンは、多くの場合、時々刻々と、体外の事象に直接あるいは間接的に反応して変化している。遺伝子は経験のメカニズムなのである」「遺伝子は神ではなく、歯車なのだ」
 ――著者はそのように結論づける。邦題の『やわらかな遺伝子』とは、そうした遺伝子の柔軟性を表現したものであろう。

 従来の遺伝子決定論と環境決定論のどちらにも与しない、新たな人間観・遺伝子観を提示する1冊。複雑に入り組んだ難解な論争を腑分けし、明快に総括してみせる手際の鮮やかさに舌を巻いた。「知的興奮」とはこのような本のためにある言葉だろう。



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渡辺香津美『モ・バップ』

Mo’BopMo’Bop
(2003/08/10)
渡辺香津美New Electric Trio

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 音楽雑誌も読まなくなったし、ヒットチャートへの関心もなくなったので、最近私が聴く音楽は世間から半年~1年ほどズレている。
 好きなアーティストの新譜も、発売されてしばらく経ってから「あ、出てたんだ」と気づくという具合。
 
 このところの愛聴盤は、ギタリスト渡辺香津美が新たに組んだ「渡辺香津美ニューエレクトリックトリオ」の『モ・バップ』(ewe/3000円)だが、これも昨夏に出たアルバムなのである。

 こ・れ・は・よい!

 もともと私はYMO経由で渡辺香津美のファンになった(香津美はYMOのワールド・ツアーでサポート・メンバーをつとめた)こともあり、1970年代末から1980年代にかけての彼の音がいちばん好きである。

 日本の「クロスオーヴァー」の里程標となった名盤『KYLYN』(1979)、ロック色の強いドライヴ感あふれるフュージョンを展開したヒット作『トチカ』(80)、そして、ビル・ブラッフォードらと組んで後期キング・クリムゾン的な超絶テクのバトルをくり広げた『スパイス・オブ・ライフ』(87)。この3つあたりがお気に入り。

 逆に、昨今の香津美のアコースティック路線にはいまいちノレなかった。

 しかし、この『モ・バップ』は、80年代の過激で先鋭的な音に回帰した感じになっており、『トチカ』あたりが好きだった人にはたまらない作品に仕上がっている。
 ただし、タイトルの「バップ」という言葉とは裏腹に、ジャズ色は薄い。

 トリオのほかのメンツは、ベースがリチャード・ボナ、ドラムスがオラシオ・エル・ネグロ・エルナンデス。
 リチャード・ボナは、パット・メセニー・グループのメンバー。『スピーキング・オブ・ナウ』からPMGに参加している(ただし、今年出る新作を最後にPMGとの契約は終了とか)。
 エルナンデスという人は私は知らなかったのだが、手数の多い超絶テクのドラマーである。

 全編、壮絶なテクニックのぶつかり合い。トリオとは思えないほど音が厚い。

 ただ、同じトリオ編成の作品であった『スパイス・オブ・ライフ』が緊張感に満ちていたのに比べ、このアルバムにはどこか大らかさと余裕が感じられる。
 『スパイス・オブ・ライフ』が眉間にシワ寄せて演奏する感じの冷たい音だったのに対し、こちらは鼻歌まじりで笑いながら超絶テクをぶつけ合っている感じ。ハードなナンバーでも流麗で、しかもきらびやかな色彩感覚に満ちている。
 ボナとエルナンデスが持ち込んだ情熱的な「ラテンの血」、楽天的な「アフリカの血」(ボナはカメルーン出身)が奏功しているのだろう。

 ラストの曲「トライコーン」の最後には、『トチカ』に入っていたヒット曲「ユニコーン」(オーディオメーカーのCMに使われた)のリフが登場する。このことが象徴するように、「21世紀の『トチカ』」を目指したのがこのアルバムなのだろう。

 リチャード・ボナにも惚れ直した。「21世紀のジャコ・パストリアス」とも評される彼の華麗なベース・プレイが堪能できるアルバム。

 ボナはシンガーでもあり、ヴォーカルもすっごくいいのだが、残念ながら、このアルバムには歌ものはなし。ま、これだけ激しい演奏の連続では、ヴォーカルの入る余地はなかったのだろう。
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瀬戸川猛資の映画評


シネマ古今集シネマ古今集
(1997/06)
瀬戸川 猛資

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瀬戸川猛資著『シネマ古今集』(新書館)
 1999年に惜しくも早逝した評論家のシネ・エッセイ集。
 私はこの人の『夢想の研究』という本が大好きで、日本の映画評論屈指の名著だと思っている。

 この『シネマ古今集』は、『サンデー毎日』に連載された映画コラムをまとめたもの。1回につき原稿用紙3枚半の短いものなので、一編の映画評論の中で縦横無尽にイマジネーションを広げた『夢想の研究』に比べると、やや見劣りがする。

 しかし、それでも映画好きにはたまらなく面白い本である。
 連載時の最新作と過去の名作映画を、それぞれ半々程度の割合で取り上げている。また、最新作を評するにあたっても、同タイプの過去の名作との比較などが自在に取り入れられていく。ゆえに『古今集』。

 古今東西の映画についての該博な知識に圧倒される。また、映画への愛、マニアならではの深いこだわりが全編にみなぎっている。

 世評高い作品でも、自らの基準に照らして愚作であれば容赦なくこきおろす辛口な部分も。しかし、そのこきおろし方にすら、読んでいて痛快な「芸」がある。また、ホメ方にも当然「芸」がある。

 本書で絶賛されている映画には目立たない「隠れた傑作」が多いのだが、「瀬戸川さんがここまでホメるなら……」と、その一作一作を観てみたくなる。
 「軽妙洒脱なシネ・エッセイ」のお手本ともいうべき好著。


シネマ免許皆伝シネマ免許皆伝
(1998/03)
瀬戸川 猛資

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瀬戸川猛資著『シネマ免許皆伝』(新書館)
 『シネマ古今集』の続編。
 正編に比べると批評としての切れ味が落ち、「フツーの映評」になってしまっている回が多い。瀬戸川氏がかつて『夢想の研究』で展開したような、目を瞠るような斬新な解釈もほとんど見られない。

 ただし、そうした不調は「手抜き」ではなく、おそらく氏の体調不良に起因するものだろう。というのも、99年に病没した氏はもともと病弱で入退院をくり返していたそうだし、本書は最晩年に近い時期の著作(98年刊)であるからだ。

 瀬戸川氏の本業は文芸評論家であり、とくにミステリ評論家として名高い。ゆえに本書でも、小説を映画化した文芸作品や、文学・演劇関連の映画が多く取り上げられている。

 映画ファンには偏向と映るかもしれないが、氏はむしろ意図的にそうしたセレクトを行なっているのだ。「あとがき」に次のようにあるとおり。
「英米仏の映画を、背景に注目して普通に取り上げれば、こうなる」「(欧米では)文学や演劇は映画の基盤として尊重され、敬意を払われているのだ」

 急いでつけ加えておけば、氏はけっして芸術的映画のみを評価してB級映画を軽んずるようなタイプではない。
 それどころか、『ツイスター』や『スクリーマーズ』などというまごうかたなきB級映画をほめているし、『トイ・ストーリー』のような「お子様向け」と考えられている映画にも高い評価を与えているのだ(ちなみに、『トイ・ストーリー』は私も大好きである)。

 映画史的教養と、その「基盤」たる文学・演劇に関する深い素養。2つを兼備した稀有な批評家であった瀬戸川氏の映評がもう読めないのは、寂しい。
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森達也の作品

職業欄はエスパー 職業欄はエスパー
森 達也 (2002/09)
角川書店

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『職業欄はエスパー』(角川文庫/781円)
 スプーン曲げの清田益章ら、3人の「超能力者」を取材した同名テレビ・ドキュメンタリーをベースにしたノンフィクション。

 超能力を肯定するでも否定するでもなく、その狭間のグレイゾーンを見つめつづけるスタンスが絶妙。テレビ番組のほうを私は見ていないが、この本だけで十分独立した価値を持つ、きわめて独創的なノンフィクション。読み出したら途中でやめられない面白さだ。

 のちに著者の森氏は「サイキッカーもの」の小説も書いているが(私は未読)、たしかに本書には小説のネタになりそうな話がたくさん出てくる。
 たとえば、「超能力者」の1人・秋山眞人はこんなことを言う。

「十代後半のいちばん能力が激しい頃は、他人の意識ばかりじゃなくて木や草や野菜の意識まで感受できました。野菜にも意識はあるんですよ。キャベツの千切りなんかもう修羅場です」

 そ…それって超能力じゃなくてただのデン(以下略)。

 念力をあやつるPK系のエスパーは肉が好きで、テレパシーや予知をするESP系のエスパーにはベジタリアンが多い、という話も面白い。

 宗教史上に残る聖人の多くはベジタリアンだったが、それは「肉食をするとスピリチュアルな能力が失われてしまうからだ」という説がある。PK系とESP系は同じ「超能力」でもベクトルがちがうのだろうか?
 そういえば、宮部みゆきの『クロスファイア』で、パイロキネシス(念力で火をつける能力)をもつヒロイン・青木淳子は、その能力を使うとむしょうにチョコレートが食べたくなる、という設定になっていたっけ(笑)。

 一つだけ文句を言いたい。
 単行本のときのタイトルは『スプーン』なのに、文庫化にあたって改題し、そのことは巻末に小さく但し書きしているのみ。おかげで私は別の本かと思って単行本と文庫を一緒に買ってしまった。「内容を確かめないオマエが悪い」と言われればそれまでだが、これはちょっと読者に対して不親切だなあ。せめてカバーに「『スプーン』改題」と一言添えるべき。

『「A」/マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(角川文庫/600円)
『A2』(現代書館/1700円)

森氏が監督した傑作ドキュメンタリー映画、『A』『A2』から派生した本である。

 『A』『A2』ともにナレーションは皆無で、テロップのたぐいもあまり使われていない映画である。つまり、説明的になることを意図的に避けている。だからこそ、制作中の悪戦苦闘、最終的にカットされた場面など、2本の映画の舞台裏を明かしたこの2冊は、映画を観てから読んでも十分面白い。

とくに『「A」』は、独立したノンフィクション作品としても価値をもつものだと思った。

『放送禁止歌』(解放出版社/1800円、光文社知恵の森文庫)
 『職業欄はエスパー』と同じく、森氏が作った同名のテレビ・ドキュメンタリーをベースにしたノンフィクションである。
 岡林信康の「手紙」、赤い鳥の「竹田の子守唄」など、「放送禁止歌」(正しくは「要注意歌謡曲」)の数々を素材に、それらの歌がなぜ放送禁止となったかという背景に迫った本。

 規制する側や放送禁止歌を作った側など、関係者に取材を進めていく過程で、驚くべき事実が明かされていく。
 「放送禁止」はたんなるガイドラインにすぎず、放送禁止歌を放送するか否かは、各放送局の自由裁量だということ(つまり、放送してもなんらペナルティがあるわけではない)。また、「〇〇からの抗議を受けてやむなく放送禁止になった」というたぐいの話の大半がじつは根も葉もないウワサ話で、放送局側の自主規制で放送しなくなった曲のほうが多いということ……。

 たとえば、なぎら健壱の「悲惨な戦い」は、大相撲のテレビ中継中に力士のマワシが外れてしまうというコミック・ソングだが、この曲が放送禁止歌になったのは、NHKや相撲協会から抗議があったからではないという。抗議などいっさいなかったのに、民放連の自主規制で「放送禁止」になった例なのだ。

 同様に、岡林の「手紙」や赤い鳥の「竹田の子守唄」は部落差別が歌いこまれていることから放送禁止になったと思われてきたが、部落解放同盟側によれば、この2曲についてメディアに抗議したことなどないという。それどころか、2曲は「要注意歌謡曲リスト」にすら載っていない。つまり、放送禁止歌ではないのだ。にもかかわらず、メディア側の自主規制によっていつの間にか“実質的放送禁止歌”となっているのだった。

 放送禁止歌の背景を探る追跡行をとおして、“めんどうなことは議論などせず、蓋をして隠してしまう”メディアのありよう、ひいては日本社会のありようそのものが浮き彫りにされていく。
  この『放送禁止歌』も、真の“主人公”は日本社会そのものなのだ。『A』『A2』『職業欄はエスパー』がそうであるように…。

 「ドキュメンタリーの形を借りた日本人論」として読める、スリリングな1冊。

『ベトナムから来たもうひとりのラストエンペラー』(角川書店)
 ベトナム、グエン王朝の王族クォン・デ(1881~1951)を主人公にした歴史ノンフィクション。

 クォン・デは、ベトナムがフランスの植民地支配を受けていた時代に、王朝の復興とベトナム独立を目指して日本に亡命し、けっきょく一度も祖国の土を踏めず、志を果たさぬまま日本で亡くなった。日本ではもちろんのこと、ベトナムでさえ忘れ去られた「もうひとりのラストエンペラー」である。

 森氏の著作の中では異彩を放つ作品。歴史ノンフィクションとしては水準以上の出来だが、『A』や『職業欄はエスパー』の圧倒的な面白さに比べると、やや見劣りがする。
 というのも、取材相手とのスリリングなやりとりにこそ森氏のノンフィクションの最大の魅力があるのに、この作品では関係者の大半がすでに亡くなっているので、その魅力が皆無に等しいからだ。

 ただ、ほかの著作同様、クォン・デという人物を通して日本社会そのものを描くことに主眼が置かれているし、善悪の二元論を注意深く避ける森氏の姿勢はここでも貫かれていて、その点は好感。つまり、クォン・デの側に「正義」があるという一方的な形では書いていないのだ。

『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(晶文社/1700円)
『A』『A2』など、森達也の創作の舞台裏を明かし、作家としての基本姿勢を表明したエッセイ集。キラリと光るいい言葉がたくさんある。
 タイトルの「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」は、当初、『A2』のキャッチコピーに使われる予定だった言葉だという。

『池袋シネマ青春譜』(柏書房/1600円)
 初の長編小説。
 ファンには知られているとおり、森氏は、テレビ・ドキュメンタリーの世界に飛び込む前は役者をしていた。石井聰亙が大友克洋のマンガを映画化した『シャッフル』、黒沢清の『神田川淫乱戦争』などの作品に出演している。

 この小説は、氏の青春時代――立教大学の学生仲間で自主制作映画を作っていた時期から、俳優としての一歩を踏み出すまで――をベースにした自伝的作品である。

 あとがきによれば「あくまでもフィクション」だそうだが、いまや日本の映画界を背負って立つ監督、俳優など綺羅星の如き名前が、実名でたくさん登場する。
 つまり、多少の潤色はあったとしても、実名を出して差し障りがない程度には事実に基づいているのだろう。

 出てくる人名を拾ってみると、長谷川和彦、相米慎二、石井聰亙、黒沢清、三田村邦彦、大竹まこと、佐野元春、塩田明彦、荒戸源次郎など。ただし、森氏本人は主人公の「森克己」という架空の人物となって登場する。

 物語の核となるのは、やはり女優の卵であるヒロインの梨恵子と克己の恋愛関係。この梨恵子も、森氏の当時の恋人がモデルなのであろう。
 克己は、大学卒業間近になっても、就職するか役者の道を突き進むか決めかねているというモリトリアム青年である。

 森氏自身にとっては苦い思いで振り返る日々なのかもしれないが、傍目から見るとうらやましいほどゴージャスな青春である。上に挙げたような、のちに一家を成す人々と映画や芝居作りに汗を流し、女優と恋をするのだから。
 しかも、20代のころの森氏はモテモテであったらしく、克己は梨恵子以外の女優の卵などからも好意を寄せられるのだ(私は以前森氏を取材したが、いまでもカッコイイ人だ)。

 森氏と克己がどれくらい重なるのかという下世話な詮索はさておき、これはきわめて正統的で優れた青春小説である。氏はノンフィクションでもいい文章を書く人だが、小説を書かせてもやはりうまい。

 恋と性、懸命に夢を追う若者たち、喧嘩にナンパにバイト、青臭い議論の応酬、苦い挫折、恋の終焉……「青春小説のフルコース」がひととおり揃っているという感じのストーリーだ。
 そして、いい場面、いい文章、いいセリフがたくさんちりばめられている。
 ゴシップ的興味を差し引いて、単純に「克己と梨恵子のラブストーリー」として読んでも、十分楽しめる。「ノンフィクション作家の余技」の域をはるかに越えている。
 
 40代末になってようやく、映画と芝居に明け暮れた自らの青春を総括するように書いた、一生に一度だけ書けるたぐいの小説。
 森達也ファン、邦画好きの映画ファン、それに青春小説好きは必読である。

『下山事件(シモヤマ・ケース)』(新潮社/1600円)
 戦後史最大の謎とも言われる「下山事件」――初代国鉄総裁・下山定則が、1949年夏、轢死体となって発見された事件――に、新たな角度から迫ったノンフィクションである。
 
 森が、“自分の祖父が下山事件にかかわったらしい”という1人の男を紹介されるところから、長い追跡行の幕が開く。
 男の話をひととおり聞いたあと、森はマスコミ界の重鎮・斎藤茂男に面会を申し込む。斎藤は、下山事件の謎を長年追いかけてきたジャーナリストの代表格である。

 斎藤は言う。
「まあ、あの事件はいろんな怪情報が飛び交いましたからねえ。今でも年に一度か二度はそんな情報が僕のところにくるけど、ほとんどはガセです。お会いするのは構わないけど僕も毎日暇にしているわけでもないので、できれば今この電話で、もう少し具体的に説明してもらえませんか」

 だが、森が「男」から聞いた話の概略を伝えた途端、斎藤は声の調子を変え、「すぐに会いましょう」と言う。森が偶然出会った情報提供者は、事件の謎を解く鍵となるかもしれない人物だったのだ。

 その後、森は斎藤とともに、「男」を糸口に下山事件の謎に迫っていく。
 関係者を探して取材を重ねるにつれ、事件の異様さが鮮明に浮かび上がってくる。下山総裁以外にも、周辺でたくさんの人間が不審な死を遂げていた。
 かつて下山事件を追ったジャーナリストの1人は、森にこう忠告する。
「悪いことは言わないから、こんな取材は今すぐやめなさい。あんただって家族がいるんだろ。(中略)あんたたちは奴らの怖さを知らないから、こんな取材ができるんだよ」

 そして、「ビンゴ!」と叫びたくなるような偶然がいくつも連鎖して、長年事件を追いかけてきた斎藤でさえ知らなかった事実が、次々と明らかになっていく。
 かりに本作がノンフィクションではなく「下山事件を素材にしたミステリー」であったなら、「話が出来すぎ。ご都合主義にもほどがある」と言いたくなるであろう。それほど、「見えざる手」に導かれるような展開で追跡行は進む。

 だが、事件から半世紀余。高齢となった関係者の多くは、数年を費やした取材の間にも次々に亡くなっていく。斎藤茂男も、取材の結実を待たずして鬼籍に入る。

 そして森は、従来あった「共産党犯行説」「GHQ黒幕説」「自殺説」のどれでもない、新たな結論にたどりつく。その結論とは――?

 すこぶるスリリング。「巻を措くあたわず」の傑作ノンフィクションである。
 森氏のノンフィクションは、取材過程のトラブルや自らの迷いなどのネガティブな要素も、すべて赤裸々に描きこんでしまうところに大きな特徴がある。
 この作品も、当初はテレビ・ドキュメンタリーとして企画されながらポシャり、自主制作映画にしようとする試みも頓挫し、紆余曲折のすえ連載することになった『週刊朝日』とも決裂し……と、さまざまなトラブルの末に1冊の本となった。
 そうしたいきさつもすべて作品の中に取り込まれ、しかもその部分がまたスリリングなのである。

 凡庸な書き手なら、森氏と同じ取材過程をたどったとしても、もっと通俗的な「事件読み物」になったろう。スパイ小説ばりのサスペンスをもっと強調し、自分が取材のすえ導き出した結論がいかにスクープであるかを強調しただろう。
 だが、森氏はそうしなかった。氏の主眼は事件の謎解きにはない。下山事件を通して米軍占領下の日本を描き、そこから現在の日本社会を逆照射することにこそ主眼があるのだ。
 だからこそ、謎解きの過程のみを描くつもりなら余分でしかない脇の話のディテールが、丹念に描きこまれている。

 また、“下山総裁を殺した男たち”を単純に悪玉として扱ってはいない。その点も、オウム真理教をフラットな視点から見据えた『A』『A2』を撮った森氏らしい。氏は、次のように書く。

「子供の頃からヒーローものには熱狂できなかった。勧善懲悪がダメなのだ。ヒーローにあっさりとやられる悪の結社の手下たちの日々の営みや心情を想像して、どうしてもヒーローに没頭できなかった。
 だからこそ、半世紀以上前に下山を殺害した男たちが、深夜の線路脇の土手を遺体を担いで歩きながら、ふと見上げたであろう夜空を僕は想像してしまう」

 ――「森達也節」ともいうべき印象的な一節である。
 
「もしも下山事件がなかったら、日米関係は大きく変わっていただろう。朝鮮戦争による特需は消え、その後の経済発展もまったく異なる道を辿っていたはずだ。日米安保は締結されなかったかもしれないし、五五年体制も自動的に消える。いずれにせよ今ある形とは、まったく違う日本になっていたことだけは間違いない」

 そのような、日本の歴史が「大きく軋みながら軌道を変えた」転回点としての下山事件を見据えた、深い余韻を残すノンフィクションである。

 さて、これで森氏の著作をすべて読んだことになる。
 私が森作品のベスト3を選ぶなら、『職業欄はエスパー』、『A/マスコミが報道しなかったオウムの素顔』、そしてこの『下山事件』になる(甲乙つけがたいので、順不同としたい)。それぞれ、じつに森達也らしい独創的なノンフィクションである。
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『ほたるの星』


ほたるの星 [DVD]ほたるの星 [DVD]
(2004/12/22)
小澤征悦、山本未來 他

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 実話を元にした映画である。
 主人公の小学校教諭・三輪元(小沢征悦)のモデルとなったのは、山口県の瀧口稔さん。工業高校を卒業して就職した瀧口さんは、働きながら大学の通信教育部に学び、教員採用試験に合格した。

 赴任先の小学校の校庭には、荒れ果てて真っ黒に淀んだ池があった。担任クラスの子どもたちに「ここにホタルが飛んだら、きれいやろうねえ」と何気なくつぶやくと、子どもたちは「先生、それってすごいねえ! 絶対やろうよ!」と歓声を上げた。

 そこから、瀧口さんと子どもたちの奮闘が始まった。池をきれいにし、ホタルの卵を手に入れ、日々のエサ(ホタルの幼虫はカワニナしか食べない)を確保し……。瀧口さんは、ホタルの世話のために学校のそばに引越してまで、ホタルの飼育に心血を注いだ。そして翌年、たくさんのホタルが池のまわりを舞い飛んだのだった。

 映画はかなり脚色されているものの、ホタルの飼育過程はほぼ事実の再現に近い。また、「Berryz工房」の菅谷梨沙子が演じる比加里と教師のふれあいがストーリーの核となるのだが、これも、心を閉ざした女子生徒がホタルの飼育を通じて蘇生していった事実に基づいている。

 監督・脚本は、大ヒット作『ぼくらの七日間戦争』で知られる菅原浩志。
 菅原は、阪神大震災後に防災意識啓蒙を目的に制作された『マグニチュード/明日への架け橋』や、覚醒剤の恐ろしさを訴えた『DRUG』など、啓蒙的な映画を手がけてきた。この映画もまた、それらの作品の延長線上にある。

 ホタルの飼育という難事に教師と生徒が挑戦していく姿を通して、監督は、教育現場の荒廃や悪化の一途をたどる環境破壊などの現実の流れに歯止めをかけようとしている。教育の中に希望の光を見出そうと、観客に呼びかけているのだ。
 とはいえ、けっして説教臭い映画ではなく、素直に感動できる佳編である。

 菅原監督は、「ホタルが舞うとき、いちばん会いたい人を連れてくる」という美しい伝説を自ら創作し、それによって実話に鮮やかな色を添えている。
 母親の病死と父親の暴力によって心を閉ざした比加里は、「ホタルが舞いよるとき、一番会いたい人に会えるんよ。おばあちゃんがそう言っていた」というクラスメートの一言によって、ホタルの飼育に真剣に取り組むようになる。亡き母親と会いたい一心で。

 教師と生徒たちのさまざまな苦労の末、無事に育ったホタルが乱舞するラストシーンは、感動的だ。舞い飛ぶホタルのなかに、比加里は亡き母の幻影を見、教師は自らの恩師の幻影を見る。
「いちばん会いたい人をホタルが連れてきた」のだ――。
 余貴美子が演じる幻の母は比加里を優しく抱擁し、役所広司演ずる幻の恩師は教師に言う。「これでやっとお前もほんとうの教師になれたな」と……。ここが、この映画の一番の“泣きどころ”である。

 モデルとなった瀧口稔さんは、「教育とは、魂に光を点すことである」という言葉を教師としてのモットーとしてきたという。舞い飛ぶホタルの光は、人々の魂に光を点す教育の価値の象徴であるかのようだ。

 ホタルを蘇らせることで、そこにかかわった人々もまた蘇生していくという、美しい物語。素朴だが好感のもてる映画である。
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『分類する技術が仕事を変える』



 久我勝利著『分類する技術が仕事を変える』(日本実業出版社/1300円)読了。

 分類力をスキルアップすることによって、思考の柔軟性が養われ、物事の全体を把握する能力も高まる。また、分類することによって、混沌として見えた物事に秩序が与えられ、問題点も見えやすくなる。
 したがって、分類力のアップは仕事の能率を向上させることにつながる。「ビジネスマンから学生まで、幅広い層の人々に役立つスキル」が分類の技術なのである。

 大要そのように主張する著者が、「分類する技術」を向上させる法、およびそれを仕事に活かす法を説いたビジネス書である。

 考えてみれば、我々ライターの仕事にも分類力が求められる場面は多い。たとえば単行本企画の章立てを考えたり、雑誌記事のプロットを考えたりする作業は、分類そのものだ。
 
 また、“分類によって物事の全体が把握できる”という主張も、日々の仕事に照らして納得できる。

 著者も本書で引用している立花隆の『「知」のソフトウェア』(講談社現代新書)はライター必読の名著だが、この中で立花は、「材料メモ・年表・チャート」を作ることの効用を1章を割いて説いている。複雑で混沌として見える出来事も、年表化・チャート化することによってすっきりと全体像が把握でき、問題点の所在と「原稿にするにはあと何が足りないか?」が見えてくる、というのである。
 思えば、立花はあそこで、「分類の技術」の重要性をべつの言葉で語っていたのだ。

 そんなわけで、私は本書をまず「ライターにとってのスキルアップ」のヒントがちりばめられた本として読んだ。もちろん、ほかの職業の方にも役立つヒントが見つかるだろう。

 また、本書はたんなるビジネス書ではない(という言い方はビジネス書に失礼かもしれないが)。専門的な分類学の知見を平明にかみくだいた「分類学入門」でもあり、さらには「分類の雑学」に関するコラム集としても楽しめる。

 「雑学」というと体系的な学問より一段低く見られがちだが、私は雑学が好きだし、「雑学本」はライターとしての得意分野の1つだ。そして、優れた雑学本を書くことは、じつはヘタな専門書を書くよりも難しいものなのだ。

 本書は、分類に関する古今東西のさまざまな知見を網羅した、知的刺激に富む優れた雑学本である。
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『ぼくセザール10歳半1m39cm』

ぼくセザール10歳半 1m39cm スペシャル・エディションの画像

 『ぼくセザール10歳半1m39cm』を試写会で観た。

 7月下旬公開予定のフランス映画。監督・脚本は、『ペダル・ドゥース』や『無伴奏「シャコンヌ」』に主演した俳優のリシャール・ベリ。監督作品としてはこれが長編第2作にあたる。

 教育を語る際、人は「子どもの目線で物事を考えることがたいせつ」などとよく言うが、この映画は「子どもの目線で撮られた映画」だ。
 比喩ではない。主人公の小学生セザール・プチ(ジュール・シトリュク)の身長である1m39cmにカメラポジションを置き、文字どおり「子どもの目線から見た世界」が映像化されているのだ。

 子どものころ、私たちにはいまよりもずっと大人が大きく見え、部屋は広く見え、天井は高く見えた。だからこそ、上から見下ろす大人たちには無言の威圧感があったのだ。そんな、「あのころの世界」を追体験できる映画である。

 ただし、基本はコメディであり、教育論的なメッセージも笑いに包んで語られるから、堅苦しさや説教臭さはない。

 「トリュフォーの傑作『突然炎のごとく』のジュニア・バージョン」――本国フランスではそんな評価も受けたという。
 そう、これはなんと、少年2人と少女の三角関係を軸にした淡いラブストーリーでもあるのだ。

 “小さなジャンヌ・モロー”となるのは、監督の娘だという美少女ジョゼフィーヌ・ベリ。実年齢もまだ12歳だが、末恐ろしいことに、すでに立派な「女優の顔」をしている(全国のロリオタ諸氏に推奨したい)。
 彼女が演ずる転校生サラをめぐって、主人公セザールとその親友モルガンがかわいらしい恋の駆け引きをくり広げるのだ。

 くっきりとした起承転結を備えた、起伏に富む脚本が素晴らしい。
 セザールの恋を核にしてストーリーは進むが、そのほかに2つの謎が用意されていて、その謎をめぐるサスペンスが観客の心を引っぱっていく。
 前半は、セザールの父親の仕事をめぐる謎。後半では、モルガンと生別した父親をめぐる謎。モルガンが1度も顔を見たことがないというその父親を探しに、3人(セザールとサラとモルガン)は子どもだけでイギリスへ行くという「冒険」を企てるのだ。

 笑いのみならず、切なさもスリルもある。コミカルな部分とシリアスな部分が、絶妙のバランスで共存している。
 演出のテンポもよく、はじけるような色彩感覚あふれる映像もポップで美しい。
 キュートでおしゃれなキッズ・ムービー。思いっきりハッピーエンドな点も、観ていてホッとする。

 なお、ゴダール作品でおなじみのアンナ・カリーナが、ド派手なオバサン役で登場して強烈な存在感を発揮している。これも一見の価値あり。
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内外「小説入門」読み比べ

書きあぐねている人のための小説入門 書きあぐねている人のための小説入門
保坂 和志 (2003/10/31)
草思社

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 私は、小説を書くことからまったく離れてしまっていたこの十数年の間も、「小説の書き方」のたぐいの本をたくさん読んできた。童貞のくせに「HOW TO SEX」のたぐいを読みふける中学生のような気恥ずかしさ(わはは)を覚えつつ……。

 比較的最近読んだその手の本を、まとめてレビューしてみよう。
 
スティーヴン・キング著、池央耿訳『小説作法』(アーティストハウス)
 弁当箱のように分厚いのに読み出したらやめられない極上の娯楽小説を書くこの巨匠が、自らの創作の秘密を余さず明かした1冊。

 この本でキングが主張している小説作法は、どれもごくあたりまえのことばかりだ。いわく――。
“上達するには、大量に読み、大量に書くよりほかに近道はない”
“第2稿は初稿-10%の分量になるくらいまで削れ”
“作品にリアリティを与えるには取材で得た背景情報を盛りこむ作業が不可欠だが、それはあくまで背景にとどめなければならない。書きこみすぎると物語のスピードが減退し、読者は退屈する”

 いずれも、「小説の書き方」のたぐいには必ず書かれていることで、指摘自体に新味はない。しかし、それらのことが数あるキング作品を例にとって語られるため、重い説得力がある。
 『キャリー』や『ミザリー』や『デッド・ゾーン』がどのような発想で生まれ、なにゆえに傑作たり得たかが、作者自身の筆で明かされていくのだ。

 たとえば、『デッド・ゾーン』の出発点となったアイデアについて、キングはこう語る。

 「私の長編『デッド・ゾーン』は二つの疑問から出発した。政治暗殺者は果たして正義の人だろうか? だとしたら、その正義漢を小説の主人公にすることはできないだろうか? この発想で作品をものすには、危険なまでに性格の歪んだ政治家を登場させなくてはいけない」

 たったこれだけの単純きわまるアイデアから、あの傑作(映画もよかった)を創りあげてしまうのだから、錬金術のようである。

 くわえて、キングの語り口そのものがユーモアに満ちていて、読み物としてもなかなか。小説家志望者ならずとも、キング・ファンなら間違いなく楽しめる本だ。『小説作法』と銘打たれてはいても、3部構成のうちの第1部は「生い立ち」で、文字どおりキング自身の生い立ちが語られているし……。

デイヴィッド・ロッジ著、柴田元幸・斎藤兆史訳『小説の技巧』(白水社)
 英国の小説家であり、バーミンガム大学で長年文学を講じてきた学者でもある著者が、小説のさまざまな技法上の概念・手段について、古今の作品を実例に解説していく本。
 邦訳は1997年に出たもので、長らく「積ん読」していたのだが、小説を書くうえで参考になればと思い、読んでみた。

 結論からいえば、実作の参考にはまったくならない本であった。
 柴田元幸は「訳者あとがき」で「(小説を書くうえでの)技法上のショートカットコマンドを満載したありがたい本」だと持ち上げているが、これは営業用のお世辞だろう。
 大学で文学を講じている学者が書いた小説の多くがつまらない(蓮實重彦の小説とか)ことからもわかるとおり、文学理論を熟知することと小説をうまく書くことの間には、大きな懸隔があるのだ。

 ただ、大いに勉強にはなった。
 「意識の流れ」「異化」「マジック・リアリズム」「メタフィクション」「寓話」などという、聞きかじりの知識でなんとなく「わかったつもり」でいた用語について、その正しい意味を、文学史的位置づけをふまえて簡潔・平明に解説してくれるのがありがたい。

 また、「手紙の形で書かれた小説は十八世紀には大変盛んであった」などというふうに、小説の歴史についてのウンチクがちりばめられていて、〝駆け足でたどる小説史〟という趣もある。じつにためになる。

 ただし、著者の専門の関係で、取り上げる作品は古めの英米文学に大きく偏っている。福田和也とか渡部直己あたりに、現代日本文学版を作ってほしい。

大岡昇平著『現代小説作法』(第三文明社・レグルス文庫)
  かなり前に買って、長らく「積ん読」していたものだ。

 古色蒼然とした小説入門。例として挙げる作品も、トルストイとかバルザックとかディケンズとか、いかにも古めかしい。元は昭和33年から34年にかけて『文学界』に連載されたものだというから、無理もないが。
 ただ、ところどころにキラリと光る指摘がちりばめられていて、それなりに勉強にはなる。たとえば――。

「昔、ある大衆作家から聞いたことですが、彼等の間には『流す』とか『つぶを立てる』という技巧があるそうです。(中略)
 朝起きて歯を磨くとか、乗物へ乗るとか、お茶を飲むとか、本筋にたいした関係のない動作を、ただ物語の順序として書く場合、あるいは日常茶飯の会話で飛ばす場合が『流す』です。これに反して、重大な場面にさしかかって、動作や心理を丹念に描く場合が『つぶを立てる』です。
 ところが急いで書いた小説は、とかくこれが逆さまになっている場合が多いそうです。どっちでもいい場合をくどくど書き、つぶを立てるべき個所を、『流し』てしまうのです」
 
 ただ、これを読んで小説がうまく書けるようになるということは、間違ってもなさそうな本。

 そもそも、新書スタイルの薄い本なのに25章にも分けられていて、各章があまりにも短すぎる。
 たとえば、「文体について」という章はたった9ページしかない。こんな紙数で文体などという大きな問題について語っても、ほとんど何も語っていないのと同じであろう。

ローレンス・ブロック著、田口俊樹・加賀山卓朗訳『ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門』(原書房)
 ローレンス・ブロックは好きな作家だ。アル中探偵マット・スカダーのシリーズなどで知られているミステリー作家で、代表作『八百万の死にざま』は私のお気に入りハードボイルドの一つ(映画化されたが、映画はスカだった)。
 ブロックが書いた小説入門なら、読まないわけにはいくまい。

 同傾向の著作であるディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』が実践的なアドバイスに満ちていたのに対し、こちらは実践以前の「心構え」にウエイトが置かれている。

 それに、実用書であるのに文章によけいな装飾がたくさんついていて、横道にばかりそれている。率直に言って、小説入門としてはほとんど役に立たない。ガッカリした。
 ただ、言いかえれば「ローレンス・ブロック節」に満ちた文章でもあるので、ファンなら単純に読み物として楽しめる。

 また、小説家志望者のみならず、フリーランスの物書きとして生きていくための覚悟を教えてくれる内容でもある。
 たとえば、ブロックはこう書く。

「フリーランスの物書きであることを愉しむには、もうひとつ重要な心がまえがいる。それは、財政的に不安定になることに対しては免疫をもたなければならないということだ」
「作家が愉しむべきこと、あるいは少なくとも耐えられなければならないことは、この仕事に伴う完全なる孤独である」

 まさにそのとおり。
 だからこそ、手前味噌になるが、私の「極私的ライター入門」の「ライター適性検査」でも、孤独への耐性があること、収入不安定と保障のなさに耐えられるくらいオプティミストであることの2点を、適性として挙げたのである。

 それと、ブロックが「自分の才能を信じることの大切さ」を説くために挙げた、高名なヴァイオリニストの逸話に強い印象を受けた。大要次のような話だ。

 世界的に有名なヴァイオリニストのもとに、ヴァイオリニスト志望の青年がやってきた。
 青年は、「私の演奏を聴いて、才能の有無を判断してください。才能があるとあなたに認めていただければ、私は一生を音楽に捧げます」と詰め寄る。
 ヴァイオリニストは青年の演奏を聴いて、こうつぶやく。
「きみには炎が欠けている」
 青年は、がっくりとうなだれて帰る。

 数十年後、2人は偶然に再会する。
 かつての青年は実業家として成功を収めていた。
「あなたに『炎が欠けている』と言われて、私は音楽の道をあきらめることができました。でもなぜ、あなたは1度演奏を聴いただけであれほどきっぱり言い切ることができたのですか?」

 いまや老巨匠となったヴァイオリニストは、事もなげに言う。
「私はきみの演奏など聴いてはいなかったよ。私のところに『才能の有無を判定してくれ』などとやってくる若者には、いつもああ言うことに決めていたんだ」

 実業家は真っ赤になって怒る。
「ひどいじゃないですか! あなたがいいかげんなことを言わなければ、私は一流のヴァイオリニストになれたかもしれないのに……」
 老巨匠は哀れむような顔で首を振り、こう言うのだ。
「わかってないねえ。もしも『炎』を持った人物なら、私の言うことなどまったく気にせず、音楽の道を突き進んでいたはずだ」(リライトしてあります)

 どうです、いい話でしょ。ブロックの創作ではなく、昔から語り継がれている逸話らしいのだが……。

 表現者に必要な「才能」の中には、「誰になんと言われようとも自分の才能を信じきる才能」も含まれる――ブロックは本書の中で、幾度も言葉を換えつつ、そうくり返している。
 実践的アドバイスは乏しいものの、勇気づけられる本ではある。

保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)
 小説入門というと、マニュアル的な「技術論」を思い浮かべる人が多いだろう。「原稿用紙の使い方」から「タイトルのつけ方」に至るまでを微に入り細を穿って教えるような……。

 だが、本書はそうした「小説マニュアル」の対極に位置する本である。
 なにしろ、著者は“小説を書くのにテクニックなど不要。小手先の技術よりよほどたいせつなことがある”という考えの持ち主。マニュアル的な技法論など入る余地がないのだ。

 保坂は言う。
「本当に書きたいことだったらテクニックなんか関係ない」
「テクニックから自由になることのほうがよほど難しい」
「あなたが技術や手法について誰かに訊くたびにあなたは小説から離れていく」

 かつて、キング・クリムゾンのロバート・フリップは、自らが超絶テクのギタリストでありながら、「テクニックを捨て去るインテリジェンスが必要だ」と喝破した。保坂が意識しているかどうかはともかく、彼のテクニック不要論はフリップの言葉を彷彿とさせる。

 そして保坂は、従来の「小説マニュアル」が重視してこなかった“小説をめぐる本質的な問い”を、むしろ本書の主軸に据える。
 「小説とは何か?」「小説は、なぜ人間を書くのか?」「なぜ、風景を書くのか?」――そうした大命題にあえて真正面から答えることで、保坂は本質的な次元からの「小説の書き方」を読者に教えようとしているのだ。

 示唆に富む言葉が、たくさんちりばめられている。たとえば――。

「小説とは『小説とは何か?』を問いつづけながら書くことだ」

「人間の能力というのは奇妙なもので、最初の一作のために全力を注ぎ込んだ人には、二作目がある。しかし、力を出し惜しんで、第一作を書きながら二作目のネタを残しておいた人には、二作目どころか第一作すらない」

「本当の意味の『新人』というのは、小説の世界に何か新しいことを持ち込めた人のことだ」

「社会問題をテーマにするのなら、社会問題を創出するくらいの気構えが必要だろう。創出が無理なら、せめて『不登校』や『引きこもり』などとマスコミに命名される前にその事象に着目し、みんなに気づかせるために小説にする(小説家はオピニオン・リーダーでなく、観察者なのだ)。方法は、これしかないと思う」

「『今の若い人』を書くのにケータイを出したとしたら、ケータイというツールによってもたらされた内面の変化のほうをまず考えておかなければならない」

「日本人作家の作品だけを読んでいては、小説と小説観を相対化することができない」(だから、異質な海外文学を積極的に読むべき)

 著者自身も言うように、これは「こう書けば新人賞がとれる」というたぐいの本ではない。
 だが、小説という表現形式についての重要なサジェスチョンがたくさんつめこまれており、タイトルどおり「書きあぐねている人」の背中をポンと押してくれるだろう。

 私は、保坂和志の小説は芥川賞受賞作『この人の閾(いき)』しか読んでいない。これがまったく面白くなかったため「大した作家ではない」と軽んじていたのだが、本書を読んで見る目が変わった。ほかの作品も読んでみよう。

 なお、面白いことに、本書の主張はことごとく、丸山健二の小説入門『まだ見ぬ書き手へ』と正反対になっている(ただし、2人ともいまどき珍しい「手書き派」)。
 たとえば、丸山は「最低でも七回は書き直しを」と言っているのに対し、保坂は書き上げた作品は「もうそれ以上手直しをする必要はない」と言い切っている、という具合だ。

 小説観がまるっきり逆。というより、ほとんど丸山に喧嘩を売っているような内容である(丸山の名は出てこないが)。
 ぜひ、『文学界』あたりで保坂と丸山の対談をやってほしいものだ。さぞや実りある対談となるにちがいない(笑)。

大塚英志著『物語の体操』(朝日文庫)
 副題は「みるみる小説が書ける6つのレッスン」。朝日の文芸誌『小説トリッパー』に連載されたものだ。
 ホントに「みるみる小説が書ける」ようになるかは保証のかぎりではないが、読み物としてはなかなか面白い。“つげ義春のマンガをノベライズすることは、文学っぽい文体を手っ取り早く身につけるための訓練として最適”などというくだりに、なるほどと膝を打った。

 大塚らしい皮肉も随所で炸裂。

 「(名作を書き写す文学修行があるが)写植オペレーター出身の小説家というのをあまり聞いたことがないので、この『模写』はあまり役に立ちそうもない」

「サブ・カルチャー化したと言われる戦後文学からそれでは『サブ・カルチャー的なもの』を引き算したらそこには『文学』はちゃんと残ってくれるのか」

 “文学のアウトサイダー”としての立場から文学を語る大塚のスタンスは、存外、いまの日本文学にとって重要なものかもしれない。

大塚英志著『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書)
 上の『物語の体操』の続編というか、ティーン向けの焼き直しである。併読するとよい。

 「キャラクター小説」とは聞き慣れぬ言葉だが、アニメ風のカバーで飾られた「スニーカー文庫」「電撃文庫」「コバルト文庫」などの一群のジュニア小説を指すらしい。アニメやゲームのノべライズを多く含み、通常の小説とは異なるファン層(おもにティーンエイジャー)に支えられたジャンルである。

 大塚英志は「オタク世代」を代表する論客の一人だが、同時に『多重人格探偵サイコ』などのヒット作をもつマンガ原作者であり、「ノヴェルズ作家」でもある。『キャラクター小説の作り方』は、その知識と経験を活かした小説入門である。

 『ぼっけえ、きょうてえ』の岩井志麻子、歴史小説の売れっ子となった藤本ひとみ、直木賞をとった唯川恵など、ジュニア小説出身の人気作家は数多い。だが、その多くはジュニア小説出身であることを隠したがり、著者略歴にも当時の著作は並べないのが普通だ。つまり、ジュニア小説ないしキャラクター小説は、「ふつうの小説」より一段低く見られているのである。そもそも、 キャラクター小説というネーミング自体、もともとは「アニメやゲームのキャラクター・グッズみたいな小説」という自嘲を含んだ業界用語だったという。

 だが、大塚はむしろ、キャラクター小説の世界からこそ次代の文学が現れてくるのではないかと、このジャンルのもつ潜在的可能性に期待をかける。そして、キャラクター小説を「ふつうの小説」よりも一段低くみる風潮に、アグレッシヴに異を唱えてみせる。

 宮崎勤事件(1989年)後の「オタク・バッシング」に抗し、孤軍奮闘に近い形でオタク擁護の論陣を張りつづけたのが大塚だった。その姿勢に私は敬意を抱いたものだが、本書もその延長線上にある仕事である。

 たとえば、キャラクター小説を「オリジナリティがない」と批判する人たちに、“では、世に流通している小説などに、真に「オリジナリティ」をもつ作品がどれだけあるのか?”と大塚は問い直す。その歯に衣着せぬ言葉は痛快であり、「物語」をめぐる根源的問いかけともなっている。

 「ぼくたちは全く何もないところからすべてを作り出すのではなく、先人の作った財産の上にあくまで物を書いているのです。それを忘れて軽々しくオリジナリティなどと口走ってはいけません。言ってしまえばぼくたちは大なり小なり『盗作』をしているのであって、むしろ創作にとって重要なのは、誤解を恐れず言えばいかにパクるかという技術です。(中略)著作権法という法律を当然、守り、その上で正しく『盗む』ことで創作を可能にする作法があります」

 ――大塚が潔いのは、そのことを説明するにあたって、自分が原作を書いたマンガの中でいかに他人のキャラをパクったかをまず種明かししている点だ。たとえば、『多重人格探偵サイコ』は、「七つの顔を持つ」探偵『多羅尾判内』のパクリなのだという。

 そしてそのうえで、小説・マンガ・テレビドラマなどの古今の名作・ヒット作を例に挙げて、キャラクター作りや物語の基本設定作りにおいて、パクリがいかに有効かを説明していく。もちろん、パクッたうえでどのように新しさ・面白さを出すかが腕の見せどころだと大塚は言っているのだが…。

 大塚によれば、野島伸司脚本のドラマ『フードファイター』は「『タイガーマスク』のキャラクター作りのパターンをそっくり流用したもの」であり、同じ野島の『ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ』や北川悦吏子の『ロングバケーション』も、基本設定は80年代のラブコメ少年マンガのパクリなのだという。

 「『オリジナリティ』なる呪縛はきっぱり忘れて、過去の作品からキャラクターを構成する『パターン』を発見し、そして、知らん顔をしてそれを『スニーカー文庫のような小説』に持ち込みましょう。きっと君の作品は『オリジナリティがある』と世の中の人から絶賛されるはずです」

 最後の一行の皮肉は痛烈だ。ちなみに、本書はもともと角川書店のキャラクター小説専門誌『ザ・スニーカー』で連載されたものだという(!)。

 キャラクター小説の直接の原型として、大塚は新井素子の小説を挙げる。
 新井はデビュー当時のインタビューで、「ルパン(アニメの『ルパン三世』)みたいな小説を書きたかった」と発言したという。
「誰もが現実のような小説を書くことが当たり前だと思っていたのに彼女はアニメのような小説を書こうとしたのです」と、大塚は言う。それは「実は日本文学史上、画期的なことだった」と…。

 新井素子の出現から20余年。いまや、「キャラクター小説」にかぎらず、純文学や「ふつうのエンターテインメント小説」にさえ、アニメやマンガを「写生」したような小説が目立ってきた。

 大塚はそのことをネガティヴには捉えず、むしろ時代の必然であり、日本文学史の大画期(の予兆)であると考えているようだ。それは「江藤淳が言うところの文学の『サブ・カルチュア』化の最後の局面」であり、「八〇年代に吉本ばななさんら一群の女性作家が少女まんがの影響下に出てきたことより、もう少し決定的な事態」である、と…。

 死にかけの日本文学を「再生」する鍵は、キャラクター小説にあるのかもしれない。作家志望の10代より、むしろすれっからしの文学愛好家にオススメしたい一冊。

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 ここに挙げた以外のオススメ本を挙げるなら、次の3冊であろうか。

ディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』(朝日文庫)
丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』(朝日文庫)
中条省平『小説の解剖学』(ちくま文庫)
※同じ著者の『小説家になる!』(メタローグ)の文庫化。タイトルが変わっていたせいで同じ内容とは気づかず、私は両方買ってしまった(怒)。

 これ以外にも、三田誠広の「ワセダ大学小説教室」三部作(集英社文庫)など、この手の本を山ほど読んでいる私。
 ただし、私自身がまだ小説家になってはいないので、「役に立った」とは言えないのがつらいところだ。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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