SINGER SONGER『ばらいろポップ』


 Coccoとくるりがコラボした話題のバンドSINGER SONGERのファースト・アルバム『ばらいろポップ』(ビクター/3045円)が、アマゾンから届いた。本日発売である。

 さっそく一聴。よい。しみじみとよい。先行シングル「初花凛々」がポップで明るい曲だったように、明るい曲ばかりだ。

 もっとも、私はもともとCoccoの曲が暗いとはけっして思わない。
 リストカッターの少女を主人公にした「Raining」(名曲)のようにヘビーな歌詞のものが多いのはたしかだが、Coccoの曲には根底にいつもあふれんばかりの生命力が感じられるからだ。

 ただし、今回のアルバムは「表面は暗いけど根は明るい」どころではなく、表面からメチャメチャ明るくてポップ。「遺書。」のような情念の爆発を思わせる曲は一つもなく、「陽気なCocco」が前面に出ているのだ。まさに「ばらいろポップ」。Coccoのソロ・アルバムより一般受けしそう。

 「初花凛々」のビデオクリップでは、髪を思いきりショートにして微笑むCoccoの姿が印象的だった(正直、初めて「Coccoマジかわいい」と思いました)。昔の長い髪のCoccoが巫女を思わせたのとは対照的。
 なんだか、Coccoから「憑き物」が落ちたよう。世の中をナナメに見て突っぱらかっていた女性が、子どもを産んだとたん菩薩のような顔に変貌することがままあるけど、そんな感じ。

 全10曲中、くるりの岸田が書いた曲は1曲のみ。あとは全部Coccoの曲。その意味でこれは、「くるりとのコラボによって作られた、Coccoの4年ぶりのニューアルバム」といってもよい。

 新しい「陽気なCocco」のスコーンと抜けた感じが、乾いた風が吹き抜けていくようなくるりの音にぴったりマッチしている。
 ジャズの弾き語りのような渋い味わいの「Baby, tonight」とか、Coccoの熱唱がどことなくAORっぽい「オアシス」など、過去のソロでは見せなかった新境地も。

 私が気に入った曲を挙げると、「ロマンチックモード」「Millions of Kiss」「Come on you」「オアシス」、そして「初花凜々」。この5曲をつづけて聴くと、幸せな気分になれる。 
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絲山秋子『逃亡くそたわけ』



 絲山秋子著『逃亡くそたわけ』(中央公論新社/1300円)読了。

 精神病院から脱走した若い男女のあてどない逃避行を描いた、ロード・ムービーならぬ「ロード・ノベル」。
 これで私は絲山の既刊4冊を全部読んだことになるが、この作品がいちばん面白かった(逆に、いちばん退屈だったのが『海の仙人』)。

 何より、笑える。爆笑箇所が10ヶ所くらい、クスッと笑えるくだりも20ヶ所くらいある。純文学でこんなに笑ったのは町田康以来だ(『逃亡くそたわけ』というタイトルも、心なしか町田康っぽい)。
 そして、作品全体に、「ためにためた表現衝動が一気に爆発!」という感じのエネルギーがみなぎっている。

 絲山のウェブサイトの「プロフィール」ページには、「1998 躁鬱病(内因性)発症、4ヶ月休職、半年復職(途中転勤)、5ヶ月入院、2年休職」という一行がある。彼女は入院中に小説を書き始めたのだという。
 『逃亡くそたわけ』は明らかにその闘病体験をベースにしており、彼女にとっては血を流すような思いで書かれた作品にちがいない。

 じっさい、幻覚・幻聴の描写などにはすさまじいリアリティがある。たとえば――。

【引用始まり】 ---
 「ここから出してくれーって言うとっと」
 「誰が?」
 「脳みそが。頭ん中入りきらんごとなって」
 「うーん、俺にはわかんないけど、大変だなあ、躁って楽しいと思ってたら大間違いなんだな」
【引用終わり】 ---
 だが、それでいて文章には微塵も陰鬱さがなく、むしろ痛快な印象なのだ。血を流すような体験を「笑い」にまで昇華させる力業。その点で、吾妻ひでおの『失踪日記』を彷彿とさせる。
 そして、笑いが満ちているからこそ、要所要所にちりばめられた恋愛感情などの「想い」の表現が、ハッとするほど哀切に映る。

 全編を彩る方言のいきいきとした躍動感、ときおり出てくる独創的な表現など、多くの美点をもつ傑作。絲山秋子の作品を初めて読む人には、この『逃亡くそたわけ』をすすめたい。これをつまらないと感じる人は、ほかの作品もきっと肌に合わないと思う。
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長嶋有『泣かない女はいない』



 長嶋有著『泣かない女はいない』(河出書房新社)読了。

 ひいきの作家ではあるのだが、最近は新作を読むたびに失望のほうが大きい。今回は図書館で借りてすませてしまった。
 表題作の中編は、まあまあの出来。併録作「センスなし」は、長嶋作品で初めて「つまらない」とはっきり思ってしまった。

 2作とも、ディテールには相変わらずはっとするほどうまい部分がある。たとえば――。

【引用始まり】 ---
 睦美には蛇がでてきたというより、蛇がなにかの領域からはみだしてきたように思えたのだ(「泣かない女はいない」)

 夫の不貞を知ったのは昨年の暮れだ。九九年だったので「恐怖の大王」という言葉が浮かばずにはいられなかった(「センスなし」)
【引用終わり】 ---
 だが、作品全体としてはどうもパッとしない。

 長嶋の芥川賞受賞作「猛スピードで母は」は、やはりよかった。デビュー作の「サイドカーに犬」も、その次によかった。あの2作は、ディテールのうまさが全体の素晴らしさに結びついていた。また、「麦チョコ」「新オバケのQ太郎」などという、「わかる」世代を限定したモノや作品名などの使い方が、ほどよいスパイスになっていた。

 しかし本書の2作は、ディテールにこだわりすぎて全体が散漫になっている印象を受ける。スパイスにばかりこだわりすぎて、けっきょくまずくなってしまった料理のよう。
 とくに、聖飢魔Ⅱファンでなければわからないくすぐりが重要な要素となっている(!)「センスなし」など、30年後の若者が読んだら判じ物のように意味不明だろう。
 中森明夫の『東京トンガリキッズ』のように、あえて「時代の記号」を満載し、「時代に殉じて」いるのかもしれないが……。

 ところで、表題作の「泣かない女はいない」(のタイトルとワンシーン)って、もしかしたら、私のメインサイトに載せた以下の文章から着想したもの?

【引用始まり】 ---
 レゲエの大御所ボブ・マーリーの名曲に「ノー・ウーマン、ノー・クライ」というのがある。
 この曲名を、私は「泣かない女はいない」という意味だとばかり思っていたのだが、じつはちがうらしい。
 ここでの「ノー」は“呼びかけ”であり、「女よ泣くな」と訳すべきなのだそうだ。
 誤訳(?)である「泣かない女はいない」のほうに心惹かれるのは私だけだろうか。(「女の名セリフ」より
【引用終わり】 ---
 「著作物」とも言いにくいこんな短い文章について、「パクった」なんて言う気は毛頭ないですが……。
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『Asian Muse/亜細亜的女神』



 なんの気なしにレンタルしてきた『Asian Muse/亜細亜的女神』(東芝EMI)というオムニバス・アルバムが、意外にもすっごくよかった。
 アジア各国の女性シンガー、伝統的楽器の女性奏者の曲を選りすぐって収めたものである。

 14人中6人が中国の奏者/歌手であるのは、やはり女子十二楽坊が日本で売れたせいだろうか。
 私は、女子十二楽坊のアルバムは毒にも薬にもならない退屈な音楽だと思うけれど(ファンの人すいません)、このオムニバスに収録された曲はもっと精神性の高いものが多くて、総じてよかった。
 
 ラインナップ中、日本のアーティストは、アン・サリー、Azami(シンガー)、ガムラン奏者の櫻田素子、箏奏者のみやざきみえこの4人。

 アン・サリーの曲は、旧作『moon dance』に入っていた「蘇州夜曲」の再録。
 ほかのアーティストの曲もみな既発表盤からの再録らしいのだが、元のアルバムを知らない私にはどれも新鮮だった。なにしろ、アン・サリー以外は知らない人ばかりなので……。

 それ以外のラインナップは、インド、ヴェトナム、韓国のアーティスト。 韓国のシンガー・ソングライター、リーチェの「オギヨディオラ」という曲が、メチャメチャよかった。
 田中麗奈主演の青春映画『がんばっていきまっしょい』の主題歌にもなった曲だという。天空を舟で漕ぎ渡っていく幻想的なイメージを歌い上げた曲。

「動きをとめた風 雨もあがった さあさあ 舟を漕げ」(対訳より)

 そういえば、『がんばっていきまっしょい』はボート競技の話だったっけ。あの映画、傑作という評判はよく耳にするものの観たことがない。こんど観てみよう。

 中国の琵琶奏者シャオ・ロンの「楽園」と、二胡奏者チェン・ミンの「THE LAST EMPEROR」もそれぞれよかった。
 琵琶というと、日本の琵琶法師のおどろおどろしいイメージが浮かぶけれど、シャオ・ロンの琵琶はもっと繊細でハープに近い音色。
 「THE LAST EMPEROR」は、いうまでもなく、坂本龍一にアカデミー賞をもたらした同名映画のテーマ曲。泣ける。

 ついでに言うと、このラインナップならザバダックの「椎葉の春節」も収録して欲しかったなあ。
 ザバダックの名盤『桜』に収められた曲。宮崎県椎葉村に歌い継がれる民謡を上野洋子が持ち前の美声で歌い上げた、鳥肌ものの名唱である。
 上野洋子こそ、日本が誇る「Asian Diva」の1人だと思う。
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80年代ポップス・ベスト20



 「マイぷれす」に「ベストヒット80's 」なんてスレッドがあったので、発作的に「80年代ポップス・ベスト20」を選んでみた(ベストテンにするつもりが、いつのまにか20曲になっていた)。

 以前メインサイトで「70年代ポップス・ベストテン」を選んだことがあるけど、ほんとうは80年代のヒット曲のほうが身近なのだ。80年代は私の10代半ばから20代半ばにあたるから。

 言わずと知れた大ヒットから隠れた名曲まで、バラバラ。
 各曲についてコメントしてみよう。

80年代ポップス・ベスト20
スウィングアウト・シスター「フォーエヴァー・ブルー」
 メロディーもコーラスもストリングスも、バート・バカラックの諸作を彷彿とさせる。上品な名バラード。

カルチャー・クラブ「タイム」
 フィリー・ソウル風の名曲。「君は完璧さ」より「ポイズン・マインド」より「ミス・ミー」より、私はこれが好きだった。
 ボーイ・ジョージはいまどこへ? …と思ってググってみたら、カルチャー・クラブがいつのまにか再結成していた。 

シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム」
 個人的にはあまり興味のもてないシンガーだったけど、これは時代を超える名バラード。晩年のマイルス・ディヴィスも、自分のアルバムで取り上げていた。
 
ビリー・ジョエル「アレンタウン」
 この曲がオープニングを飾る『ナイロン・カーテン』は、ビリー・ジョエルのアルバム中、いちばんビートルズっぽくてよい。この曲など、もろ中期ビートルズだ。スピルバーグが監督した(だったと思う。記憶で書いてるのでちと不安になった)ニューシネマ風のプロモ・ビデオも話題になったっけ。
 『ナイロン・カーテン』では、「グッドナイト・サイゴン」も名曲。「チャーリーも、ベイカーも、ドアーズを聴きながら死んでいった」。うぅぅ、泣ける。

デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキン「ライプチヒ」
 「エレポップ界のカーペンターズ」という趣もあったデュオ。懐かしい音色の流麗なシンセ、バーバラの伸びやかなヴォーカル、いずれも素晴らしい。

ネイキッド・アイズ「灯が消えるころ/When the Lights Go Out」
 日本では、「僕はこんなに」が小ヒットした「一発屋」として知られるのみの“切な系”エレポップ・デュオ。彼らのファースト・アルバムに収録されていた超・名曲。
 だが、現在入手可能な日本盤のベスト・アルバムには、けしからぬことにこの曲は入っていない。このまま埋もれさせてしまうにはあまり惜しい曲だ。 

カッティング・クルー「愛に抱かれた夜/(I Just) Died in Your Arms」
 邦題が赤面ものですな。
 やはり「一発屋」であるカッティング・クルーだが、彼らのファースト・アルバム『ブロードキャスト』は隠れた名盤である。いい曲がずらりと揃っているのだ。ヴォーカルの声質がジョン・ウェットンに似ている。

ユーリズミックス「ゼア・マスト・ビー・アン・エンジェル」
 この曲は、テレビドラマの主題歌になったり、CMに使われたりして、いまだによく耳にする。力強さとホーリーな透明感を兼ね備えた、聴く者に幸を与える曲。ゆえに、結婚披露宴のBGMにもよく使われる。落ち込んでいるときにこの曲に救われた人も多いのでは? 

イエス「ロンリー・ハート」
 プログレの大御所が、トレヴァー・ラビンという新たな血を導入してポップに生まれ変わった時期の代表曲。パーフェクトな仕上がり。フェアライトの音色がいまとなっては懐かしい。

スザンヌ・ヴェガ「ルカ」
 スザンヌ・ヴェガ最大のヒット曲。清冽で美しい曲だが、歌詞の内容は児童虐待をテーマにしたヘビーなもの。

ポール・マッカートニー「テイク・イット・アウェイ」
 名盤『タッグ・オブ・ウォー』収録の、ビートルズ時代の「ハロー・グッドバイ」を彷彿とさせる傑作。天才メロディー・メイカーの本領発揮。サビ・Aメロ・Bメロをつなぐ展開のさせ方の、なんと自然で見事なこと。リンゴ・スターとスティーヴ・ガッドの豪華ツイン・ドラムスも聴きものだ。

フィル・コリンズ&フィリップ・ベイリー「イージー・ラヴァー」
 「見つめて欲しい」とどちらを選ぶか迷ったすえに、こちら。ロック色の濃いギターとドラムスが小気味よい。タイプの異なる2人のヴォーカルの、からみ・掛け合いの妙も堪能できる。

ホール&オーツ「プライベート・アイズ」
 どちらかといえばシブいブルーアイド・ソウルのデュオだった彼らを、スーパースターへと飛翔させた大ヒット曲。ポップ・ソングとして完璧な出来。ちなみに、「プライベート・アイ」とは私立探偵の俗称。
 彼らの曲では、メロウなバラード「ワン・オン・ワン」も好きだったなあ。

シンプリー・レッド「ホールディング・バック・イヤーズ」
 ミック・ハックネルが、ほろ苦い追憶を切々と歌い上げる名バラード。どちらかといえば70年代ポップスに近い匂いがある曲。
 厳密には「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」だが、邦題としては「ジ」が抜ける。オーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」も邦題は「ドック・オブ・ベイ」である。

クリストファー・クロス「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」
 邦題をつけた人に拍手。原題は「Arther's Theme(アーサーのテーマ)」というごく平凡なものなのだ。
 この曲は『ミスター・アーサー』というB級映画(観てないけど、たぶんB級)のテーマ・ソングだったが、曲としての出来はまぎれもないA級。誕生したときからスタンダードの風格をもっていた曲である。
 それもそのはず、バート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガーという手練のソングライター・コンビが、クリストファー・クロス自身とともに作り上げた共作曲だったのだ(サビの部分は、ピーター・アレンがキャロルと共作した未発表曲からのいただき。彼の名が作曲者の1人としてクレジットされているのはそのため)。
 アカデミー賞最優秀主題歌賞受賞曲。

ティアーズ・フォー・フィアーズ「ヘッド・オーヴァー・ヒールズ」
 TFFというと、「シャウト」のイメージが強い。なぜかあの曲ばかりが何度もCMに使われるからだ。だが、彼らには「シャウト」を超える名曲がたくさんある。私のお気に入りはこの「ヘッド・オーヴァー・ヒールズ」と、ファーストの「マッド・ワールド」。

ジョー・ジャクソン「ステッピン・アウト」
 この曲が入っていた『ナイト・アンド・デイ』は、80年代を代表する名盤の一つだろう。ジャケットもよかった(上の画像)。
 とくに、きらめくようなピアノのリフが心地よいこの曲は、「都市の夜」を表現した最も美しいポップソングではないか。

スクリッティ・ポリッティ「オー・パティ」
 グリーン・ガートサイドの美声とルックスで人気を集めたスクリッティ・ポリッティ。彼らのアルバムで最も完成度が高いのは『キューピッド&サイケ85』だが、一曲だけ選ぶとしたら、次作『プロビジョン』のこの曲。名バラードである。間奏に入るマイルス・デイヴィスのトランペットも絶品。

ドナルド・フェイゲン「I.G.Y.」
 ドナルド・フェイゲンの初ソロ『ナイトフライ』は、AORの聖典ともいうべき名盤中の名盤である。そのオープニングを飾った名曲。いまだにCMなどによく使われる。

スタイル・カウンシル「マイ・エヴァー・チェンジング・ムーズ」
 パンク・ロックのスターだった「ザ・ジャム」のポール・ウェラーが、おしゃれ系ポップスに転身を果たしたスタイル・カウンシル。おしゃれな音の底に、ストイックなパンク魂が透けて見えるところがよかった。この名曲もしかり。甘いメロディーなのに、凛とした骨っぽさも感じさせるのだ。
 そういえば、彼らの曲「シャウト・トゥ・ザ・トップ」が、『とくダネ!』のオープニング・テーマになっている(ミスマッチ!)。
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花田家崩壊と『嫉妬の時代』

 二子山親方の死去を契機に、堰を切ったように報じられている花田家の内情、若・貴の確執。暴露合戦がすさまじいありさまになっている。

 昨日はついに、花田家の元家政婦がテレビに登場し、同義的守秘義務を思いっきり破って、自分が見た花田家の内情(どこまで事実か知らないが)を暴露していた。

 この元家政婦のモラルの低さをなじるのはたやすい。だが、あのような内情暴露をマスコミが熱望し、多くの視聴者が望んでいたという側面は否定できない。元家政婦だけが「悪者」ではないのだ。

 身ぐるみはがして尻の毛まで抜くような勢いの、マスコミによる「花田家崩壊」報道。それを見ていると、私には岸田秀の『嫉妬の時代』が思い出されてならない。

 『嫉妬の時代』(文春文庫)は、「ロス疑惑」報道、豊田商事事件、『積木くずし』ブームなど、1980年代にマスコミをにぎわせた出来事を通して、「歴史上かつてなかったほどの嫉妬とはしゃぎの時代」となった現代日本の病理をえぐった本である。

 この本の内容が、一連の「花田家崩壊」報道にもそっくりあてはまるから、関心のある向きは読んでみるとよい。

 「人をハシゴにのぼらせておいて、そのあとハシゴを外して突き落とすのがマスコミのやり口だ」とよく言われる。のぼった高さが高いほど、突き落とすときの落差は大きくなり、見る側の歪んだカタルシスも大きくなる。

 若・貴ブームの際に「日本一幸せな家族」として喧伝された花田家の人々は、そのときハシゴのてっぺんまでのぼらされた。
 人々はニュースを通じてその姿を見上げながら、幸せすぎる家族に対する嫉妬を、心のどこかでふつふつと燃やしていたのではないか。

 だからこそ、「『日本一幸せな家族』の内実は、じつは家族の不和が二重三重にはりめぐらされた地獄の家だった」という「物語」が、いま人々を興奮させている。
 花田家の人々がハシゴのてっぺんから突き落とされるとき、心の底にためこまれた嫉妬の膿が一気に排出され、私たちはある種の暗いカタルシスを覚えるのだ。

 子どもが砂浜で作る砂の城は、念入りに作れば作るほど、こわすときの快感も大きくなる。メディアがじっくり時間をかけて「日本一幸せな家族・花田家」という物語を織り上げたのも、じつはその偶像を破壊するときの快感のためであったのかもしれない。

 もっとも、今回の場合、花田家の人々自らがその“偶像破壊”に積極的に加担しているようにも見え、そこが異様なのだが……。

 私は二子山親方も若・貴も取材したことはないのだが、1度だけ、憲子夫人(当時)に取材申し込みをしたことがある。
 自宅に電話したことろ、いきなり二子山(当時は藤島)親方が電話に出た。それはあくまで憲子さんを「良妻」として扱う取材だったのだが、親方はただ一言、「そういう取材はきっぱりおことわりします」とだけ言われた。有無を言わさぬ強い口調であった。

 そのときは、「愛妻をマスコミからガードする男らしい夫」の姿と感じ、ことわられたのに、親方に対してむしろ好印象を抱いたものだった。
 いまにして思えば、そんなきれいごとじゃなかったんだなあ。
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『ガラスのうさぎ』

アニメ版 ガラスのうさぎアニメ版 ガラスのうさぎ
(2005/06)
高木 敏子

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 『ガラスのうさぎ』を観た。戦争を描いた児童文学の金字塔の、長編アニメ版である。

 公式サイト→ http://www.ggvp.net/usagi/index.htm

 原作は、1977年の発刊以来、四半世紀以上にわたって版を重ねているロングセラーである。累計発行部数はじつに220万部を超えるという。海外での出版も盛んで、現在までに英語・ドイツ語・中国語など9ヶ国語に翻訳されている。

 原作が最初に出版されたころ、私は中学生だった。読書感想文の課題図書にも選ばれたことを覚えている。
 もっとも、私は夏休みの読書感想文に『青春の門』を選ぶようなクソ生意気な中学生だったので(笑)、『ガラスのうさき』はなんとなくスルーしてしまった。

 というわけで、『ガラスのうさぎ』の物語に触れるのは今回が初めて。予想していたよりもずっと感動的でよい作品だった。

 『アンネの日記』がユダヤ人虐殺の悲劇を、『ひめゆりの塔』が沖縄戦の悲劇をいまに伝えるように、この『ガラスのうさぎ』も、東京大空襲(1945年3月10日)の悲劇をつぶさに伝える物語だ。

 「物語」といったが、これは原作者・高木敏子の実体験に基づくノンフィクションである。高木が両親の33回忌を記念して作った私家版の小冊子「私の戦争体験」が、『ガラスのうさぎ』の原型なのだ。

 主人公・敏子は、東京の下町に住む12歳の少女。太平洋戦争末期の日々を、家族とともにつつましく生きていた。
 だが、一夜にして8万3千人の命を奪った東京大空襲で、敏子も母と二人の妹を喪ってしまう。さらには父親までも、疎開先で米軍の機銃掃射を受けて亡くなる。

 それでも敏子は、「みんなが生きていたことを、誰が思い出してあげられるの? 私は死ねない。死んじゃいけないんだ」と心を奮い立たせ、敗戦前後の混乱のなかを懸命に生きていくのだった――。

 細部の描写に、真実の重みが光る。
 たとえば、父親を喪った直後、泣き明かすより先に敏子がしなければならなかったのは、大人1人を火葬するのに必要な荷馬車一台分の薪を探すことであり、役場で埋葬許可書・火葬許可書を得る手つづきをすることだった。

 何度も絶望の淵に立たされながら、眼前の現実と気丈に闘う敏子の姿は、観る者の胸を打つ。

 タイトルの「ガラスのうさぎ」とは、腕のいいガラス職人であった父親が敏子たちのために作ったうさぎの置物のこと。
 その置物は、東京大空襲の焼け跡から、爆発の高熱で半分溶けてしまった姿で見つかる。それは戦争の悲惨さの象徴であり、同時に、いかなる炎も焼き尽くすことのできない「希望」の象徴でもある。

 ただ、アニメとしては、素直で好感のもてる作りではあるが、質はけっして高くない。
 たとえば、同傾向の名作『火垂るの墓』のような、原作者・野坂昭如をして「アニメ恐るべし」と言わしめた緻密な描写は、望むべくもない。 
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『ロスト・メモリーズ』

ロスト・メモリーズ 特別版 〈2枚組〉ロスト・メモリーズ 特別版 〈2枚組〉
(2004/08/27)
チャン・ドンゴン仲村トオル

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 『ロスト・メモリーズ』をDVDで観た。

 韓国映画には珍しいSFアクション大作。
 安重根が伊藤博文暗殺に失敗し、朝鮮が日本に併合されたままのパラレル・ワールドを舞台にしている。日本は米国と同盟を組んで第2次大戦の勝者側に立ち、原爆はベルリンに投下され、朝鮮戦争も起こらなかった……そんな世界である。

 P・K・ディックの『高い城の男』(第2次大戦の勝敗が逆転し、世界が日本とドイツに支配されたパラレル・ワールドを描いている)をはじめ、SFの世界には同工異曲の物語が数多くあり、着想は画期的というほどのものではない。

 にしても、面白い映画になりそうな設定ではある。だが、残念ながら設定倒れ。つまらなかった。終盤、「早く終わらないかな~」と思いながら観ていた。
 アクションやSFXにはけっこうお金をかけていそうなのに、全編にどうしようもなく漂うチープなB級テイスト。
 ストーリーも、親子の情愛などの表現がおもいっきりベタで、観ていて鼻白んでしまう。

 近年の洗練された韓国映画ではなく、80年代半ばくらいまでの泥臭い韓国映画の味わい。

 クライマックスは、主人公が「時の壁」を超え、伊藤博文暗殺を成功に導くことによって歴史を“正しい姿”に戻す、というもの。
 だが、そもそも、伊藤博文が暗殺をまぬかれたくらいのことで、その後の日韓の歴史が丸ごと変わってしまうものかね? そんな素朴な疑問を抱いてしまった。
 韓国の人々が、「義士」安重根をそれほど英雄視しているということなのだろうけど……。  
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長野へ

 今日、明日と取材で長野へ。
 松本→木曽福島→塩尻→伊那と移動をつづけて、2日で7人の方を取材する強行軍である。

 取材テーマが共通(=同じ質問でオーケイ)だからこういうこともできるのであって、それぞれ別テーマの取材だったら、2日で7人も取材したら頭の中がパンクしてしまう。

 どうでもいいことだが、私はこのブログに記録している以外にもけっこう取材をしている。ゴースト取材の場合、(道義的な)守秘義務もあるからいちいち書けないし。

 先週は北関東某所で、さるアマチュア・スポーツ界の名士を5時間ぶっつづけで取材した。5時間も取材すると、たいていの場合、途中で「少し休憩しましょうか?」ということになるのだが、このときの取材ではインタビュイーが休憩なしにダーッと語りつづけて、少しも疲れたふうではなかった。むしろ、取材するこちらのほうがあとでドッと疲れたほど。

 肉体をとことん鍛え上げてきたスポーツマンは、さすがにすごいものである。

 業界外の人は、「座ってしゃべっているだけだから、べつに疲れないのでは?」と思うかもしれない。だが、取材というのははする側もされる側もある種の緊張をともなうから、精神的疲労度はかなりのものなのである。友達と長電話するのとはわけがちがうのだ。
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絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』



 絲山秋子著『イッツ・オンリー・トーク』(文藝春秋/1429円)読了。

 文学界新人賞を受賞した表題作(デビュー作)と、短編「第七障害」を収録した第一作品集。

 「処女作にはその作家のもつすべての要素が凝縮されて」うんぬんとよく言うが、たしかに、「イッツ・オンリー・トーク」には、「袋小路の男」などで開花した絲山秋子の個性が原石のままつめこまれている。

 著者自身と重なる部分も多いヒロインが、寝たり酒を飲んだりして4人の男たちとかかわりをもつ様子が、目まぐるしく描かれる。4人はそれぞれ、EDの都議会議員、元ヒモの独身中年男、出会い系サイトで出会った痴漢、鬱病のヤクザ……という、なんとも濃ゆ~いキャラの面々である。

 ある程度キャリアを積んだ作家なら、この4人を一つの短編に詰め込むような無謀な真似はしないだろう。そのぶん個々の人物の掘り下げが甘くなるし、「面白おかしい登場人物を次々と登場させて読者の目を引こうとする、あざとい小説」と見なされやすいから。
 だが私は、あえて4人の濃いキャラを強引に詰め込む荒業に、絲山の「只者ではない」ところを感じてしまった。作品全体のバランスなど考えず、表現衝動の赴くままに書いた、という感じの迫力がある。
 とっちらかって未整理な印象の作品だが、細部には原石の輝きがちりばめられている。

 なお、タイトルの「イッツ・オンリー・トーク」とは、作中にも出てくるキング・クリムゾンの「エレファント・トーク」の一節。この人の小説はいつも、中に登場する曲のセンスが(ひねくれていて)よい。

 今日もクリムゾンだ。ロバート・フリップがつべこべとギターを弾き、イッツ・オンリー・トーク、全てはムダ話だとエイドリアン・ブリューが歌う。



 これがなんと、最後のくだりである。こんなふうにポンと投げ出すような(クリムゾンのことを知らない人には意味不明の)文章で平然と小説を終わらせるあたり、なかなかぶっ飛んだセンスではないか。

 併録作「第七障害」は、著者自身の趣味であるという障害馬術の世界を舞台にした、スポーツ小説ないし青春小説といってもよい作品。
 障害飛越競技で自分の失敗から馬を死に至らしめたヒロインが、そのトラウマを抱えつつ生きていく姿を描いている。『文学界』に掲載されたものだが、『小説すばる』あたりに載ってもおかしくない作品。

 ヒロインがトラウマを克服して競技に復帰するまでを描けば、普通のエンタメになるところ。だが、そこは絲山秋子、そんな「よくある展開」にはしないのである。

 2作とも、わりと面白かった。
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『ミリオンダラー・ベイビー』

 
ミリオンダラー・ベイビーミリオンダラー・ベイビー
(2005/10/28)
クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク 他

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 映画の料金が1000円になる「映画の日」(1日)なので、朝から映画。こういうことができるのがフリーランスのいいところだ。
 前から楽しみにしていた『ミリオンダラー・ベイビー』を観た。

 期待どおりの素晴らしさ。観終わったあとに深い余韻を残す傑作である。

 すでに何人かの論者が指摘しているとおり(→これとか)、『あしたのジョー』によく似た物語。主人公の女性ボクサー(ヒラリー・スワンク)・マギーが矢吹丈の役回りであり、老トレーナー(クリント・イーストウッド)・ダンは丹下段平であると同時に白木葉子でもあるのだ。

 私は以前、『軍鶏』(橋本以蔵・たなか亜希夫の劇画)を「裏返しの『あしたのジョー』」と評したことがあるが、この『ミリオンダラー・ベイビー』もまた、「裏返しの『あしたのジョー』」だ。

 『あしたのジョー』は、矢吹丈と白木葉子のラブストーリーとしても読むことができる。
 「恋の至極は忍恋と見立て候。(中略)一生忍んで思い死にする事こそ恋の本意なれ」(『葉隠』)という日本の伝統にのっとって、丈は最後まで愛の言葉を口にしない。葉子が愛の言葉を口にするのも、最後の闘いに向かう丈を引き止めようとするクライマックスのただ1度のみだ。

 そして、丈はホセ・メンドーサとの死闘で「完全燃焼」した直後、「愛している」というかわりに、血まみれのグラブをリングサイドの葉子に贈る。
 それまで手も握らなかった2人は、最後の一瞬だけ、血まみれのグラブを介して「結ばれる」のである。なんとストイックなラブストーリーであったことか。

 『ミリオンダラー・ベイビー』は、「ラブストーリーとしての『あしたのジョー』」を男女裏返しにした物語なのである。

 丈と葉子と同じく、ダンとマギーも、最後までストレートに愛を言葉にすることがない。
 マギーが「燃え尽きる」最後の一瞬、ダンは「愛している」というかわりに、彼が彼女に与えたゲール語のリングネームの意味を教える。その一言が、『あしたのジョー』における血まみれのグラブと同じ役割を果たすのだ。情感を抑えた演出ながら、このシーンだけは泣ける。

 スポ根マンガとして始まった『あしたのジョー』は、やがて「青春の神話」へと昇華された。同じように、『ミリオンダラー・ベイビー』も、前半はスポ根ドラマのテイストだが、後半は神話的なまでに厳粛だ。「なんのために生きるのか?」という根源的命題に迫っているのである。
 
 前作『ミスティック・リバー』といい、この作品といい、イーストウッドは“現代アメリカ版のギリシア悲劇”を作ろうとしているのだと思う。いや、まったく素晴らしい。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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