中田潤『愚直列伝』

愚直列伝―地上最強の生き方愚直列伝―地上最強の生き方
(1996/02)
中田 潤

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 中田潤著『愚直列伝/地上最強の生き方』(マガジンハウス)読了。
 中田氏の文章の面白さをふと思い出して、図書館で借りてきて読んだ。1996年刊行で、『ブルータス』の連載コラムをまとめたもの。

 著者が取材で出会った、世間の常識の枠組みから逸脱して己が生き方をつらぬく人々の横顔を綴ったもの。
 登場するのは、ミスター珍などのプロレスラー、競輪場の予想屋、AV男優、大阪・西成の真剣師(賭け将棋師)、見せ物小屋の「牛娘」、「現代版仕置き人」などなど……。

 テイストとしては、根本敬の人物ものエッセイに近い。
 私はプロレスにも競馬・競輪にも興味がないから、プロレス・ネタ、ギャンブル・ネタが多いこのコラム集の面白さは、半分くらいしか理解できていないと思う。それでも面白かった。「人間性ゼロメートル地帯」などという卓抜な命名センスと、下品でキワドイ世界の底に「人生の真実」を見出す視点がよい。

 たとえば、「V&Rプランニング」のAV撮影現場取材から生まれたコラムの一節――。

 

 まさに人権なき暴走。最低最悪の撮影現場である。しかし、そんな場所にいると、どうしてだか心の底から和んでしまうのだった。女優さんが入れ墨を見せながら着替えをしているわきに寝転んでいると、「後ろ向きの元気」とでも呼びたくなるような妙な活力が湧いてくる。
 今、何も持っていなくて、明日の約束が何もないのだとしたら、裸の体ひとつ、世界に向けて投げ出すしかないではないか。



 最近の中田氏はもっぱらスポーツ・ノンフィクションの世界で活躍されているが、こういう感じのコラム集もまた出してほしいところ。

 ちなみに言うと、氏の文章で私がとくに好きだったのは、一時期の『別冊宝島』に寄稿していた一連の笑えるエッセイ。
 『闘う男!』(別冊宝島136)所収の傑作「とれたてのタンカです」など、何度も何度も読み返したものだ。
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『松ヶ根乱射事件』

松ヶ根乱射事件松ヶ根乱射事件
(2007/08/22)
新井浩文山中崇

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 ケーブルテレビで録っておいた『松ヶ根乱射事件』を観た。山下淳弘監督の2006年作品。

 タイトルやDVDジャケットの印象から、「日本版『ファーゴ』」って感じの映画かな、と見当をつけて観始めたのだが、肩透かし。コーエン兄弟の傑作『ファーゴ』より、ずっとショボくてかったるい。

 ……と、途中までは悪印象だったのだが、中盤から俄然面白くなってきて、映画の中に没入。そして、観終わったときには、やはりこれは「日本版『ファーゴ』」だ、と改めて思った。

 『ファーゴ』がアメリカのド田舎(ノースダコタ州だったか) の風土と分かちがたく結びついたクライム・サスペンスであったように、この『松ヶ根乱射事件』も、日本のド田舎の風土と一体不二の映画だ。
 『ファーゴ』を日本の風土に正確に移植すると、まさにこういう映画になるのだ。ショボさもかったるさも日本の風土の反映で、いわば「緻密な計算に基づくショボさ」「意図的なかったるさ」なのである。

 「松ヶ根」というのは架空の町であるようだ。ロケは長野県で行なわれているが、長野というより、「どこにでもある、何もない日本の田舎町」が舞台といえる。

 「何もない田舎」とは、北海道の辺境とか沖縄の離島のような場所のことではない。そういう土地には、雄大で美しい自然が「ある」。
 美しい自然もなく、誇るべき名所旧跡もなく、ただただ寂れているだけの田舎。松ヶ根はそういう土地として描かれている。

 私も「何もない田舎」で生まれ育ったから、この映画の中にすこぶるリアルに表現された「田舎の空気」は、身にしみてよくわかる。
 どんより淀んだ閉塞感、叫びたくなるほどの退屈さ、かったるさ。そして、住民の恥や失敗について誰もが知り尽くしている、監視されているような気持ち悪さ……。それらを思い知って自分の住む田舎を呪詛した経験がないと、この映画は理解しにくいと思う。

 そうした「田舎の気持ち悪さ」を、山下淳弘はむしろ笑いの駆動力として活かし、風変わりなダークコメディに仕上げている。
 好悪が激しく分かれる映画だと思うが、私は好きだ。

 キャスティングも絶妙。
 たとえば、「キレ演技」をさせたらバツグンの新井浩文を主役の真面目な巡査に据えることで、「真面目だけど、いつキレるかわからない」不穏さを常時漂わせている。
 また、だらしない父親役にあえて三浦友和を据え、壊れた感じのヤクザの情婦役にあえて元・清純派アイドル川越美和を据えているが、そうした意外性のあるキャスティングがいずれも成功している。

 エンディング・テーマはボアダムズのノイジーな傑作「モレシコ」で、これもベスト・マッチ。

 ←ジャケもオマージュ。
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オアシス『ディグ・アウト・ユア・ソウル』

ディグ・アウト・ユア・ソウル(初回生産限定盤)(DVD付)ディグ・アウト・ユア・ソウル(初回生産限定盤)(DVD付)
(2008/10/01)
オアシス

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 オアシスのニュー・アルバム『ディグ・アウト・ユア・ソウル』(ソニーミュージック/DVD付き初回限定盤2940円)を、サンプル盤を送ってもらって聴いた。10月1日発売予定の、3年ぶり7枚目。
 
 キャッチーで美しいメロディと、後期ビートルズをより骨太にしたような壮大なサウンドは、いつもどおり健在。
 ただ、過去のアルバムと比べ、サイケデリックな色合いと疾走感がいっそう強まっている。中心メンバーのノエル・ギャラガーが次のように言うように……。

「従来のAメロ、Bメロ、サビというパターンではなく、もっとトランス状態を駆り立てるような、より疾走感を持ったグルーヴ感のある音楽を作りたかった」



 先行シングルにもなった「ショック・オブ・ザ・ライトニング」は「これぞオアシス!」という感じの多幸感に満ちたロックンロールだが、「一瞬で書き上げられ、一発録りされた」曲なのだという。
 そのことが象徴するように、アルバム全体に、ひらめきの一閃のまま突っ走るような若々しい勢いがみなぎっている。

 メイン・ソングライターのノエルのみならず、メンバー四人が各々曲を寄せている点も、本作の特長である。とくに、リアムのペンになるスロー・ナンバー「アイム・アウタ・タイム」は美しい傑作だ。
 
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五十嵐大介『海獣の子供』

海獣の子供 3 (3) (IKKI COMIX)海獣の子供 3 (3) (IKKI COMIX)
(2008/07/30)
五十嵐 大介

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 五十嵐大介作『海獣の子供』の、既刊1~3巻を読んだ。『リトル・フォレスト』や『魔女』などで知られる五十嵐の、初の長編である。

 過日、テレビの『王様のブランチ』でも本作が紹介されていた。かねてよりクロウト筋の評価が高かった五十嵐が、ごく一般的なマンガ・ファンにも人気を得つつあるということか。

 この作品は今回初めて読んだが、ストーリーははっきり言って私にはよくわからない。
 「ジュゴンに育てられた」という出生の秘密をもつ、謎めいた2人の少年「海」と「空」。そして、彼らとの出会いによって不思議な世界に足を踏みいれていく少女・琉花の冒険譚――という感じなのだが、SFなのかファンタジーなのかすら判然としない。

 ただ、絵はすごい。抜きん出た画力とセンス。とくに海中の描写は、モノクロなのに読む者にはっきりと「色」を感じさせるほど。

 10年ほど前、本庄敬が絵を担当した『SEED』という「エコロジー・マンガ」があった(原作はラデック・鯨井=勝鹿北星)。
 このマンガは、人間のキャラを描くとパッとしない無個性な絵なのに、イルカなどの動物が出る場面になると急に絵がいきいきとするのが特長であった。「ああ、このマンガ家は心底動物が好きなんだなあ」と思ったものだ。

 この『海獣の子供』も、海の描写、海の生き物の描写が水際立っている(ただし、五十嵐は人物を描いてもうまいが)。
 これは、ストーリーを楽しむというより、絵と雰囲気を味わう作品かもしれない。映画の中には「映像詩」と呼ばれる一群の作品があるが、それになぞらえれば、「マンガ詩」といおうか「絵による映像詩」といおうか……(どちらの呼び方も座りが悪いですな)。

 そして、かつての『SEED』が「エコロジー・マンガ」なら、この『海獣の子供』は「エコロジカル・ファンタジー」ともいうべき作品である。

 セリフにも、詩のような味わいがあってよい。
 「虫だって動物だって光るものは、見つけてほしいから光るんでしょ」(海のセリフ)とか――。

※追記/その後、作品は単行本5巻で完結。「最後までよくわからない話だったなあ」というのが正直な感想である。ただ、印象に残ったセリフは多い。そのいくつかを、下にピックアップ。

「あんたは海の世界がわたしたちの世界とは違う事を知ってるね。すぐ隣にありながら互いに呼吸すらできないものが棲む別の世界。
 海は“彼岸”なんだよ。そして、女の体は彼岸と繋がっている。
 あんたは知ってるはずだ。女の体は彼岸からこっち岸へと生命をひっぱり出す通路なんだから。
 本当は海の事は女(わたしたち)が専門家なのさ」(4巻84~85ページ/デデのセリフ)



「言語は性能の悪い受像機みたいなもので、世界の姿を短すぎたりゆがめたりボヤかして見えにくくしてしまう。
 “言語で考える”って事は決められた型に無理に押し込めて、はみ出した部分を捨ててしまうという事なんだ。
 鯨のうたや鳥の囀りアザラシの泳ぐ姿のほうが、ずっと豊かに世界を表現している。
 きっと昔は人類も同じだったはずだよ。鯨たち…海の生物たちと同じ……」(4巻321~322ページ/アングラードのセリフ)



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『麦の穂をゆらす風』

麦の穂をゆらす風 プレミアム・エディション麦の穂をゆらす風 プレミアム・エディション
(2007/04/25)
キリアン・マーフィーポードリック・ディレーニー

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 ケーブルテレビで録画しておいた『麦の穂をゆらす風』を観た。英国の名匠ケン・ローチが、アイルランド独立戦争とその後のアイルランド内戦を描いた大作。2006年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを得た作品。

 労働者階級、庶民の視点から英国社会を描きつづけてきたケン・ローチのことだから、この映画にもヒーローはいない。独立を目指し闘う庶民群像の中に、戦争の悲劇を描いているのだ。歴史を鳥瞰するのではなく、地を這うような目線で「虫瞰」する作品。

 ハリウッド映画なら波瀾万丈の戦争スペクタクルとして描いたであろう素材を、ケン・ローチはドキュメンタリー・タッチでごく淡々と描く。
 密告者に堕してしまった幼なじみの同志を主人公が射殺するシーンがあって、そこが中盤のクライマックスなのだが、そのシーンでさえ演出はそっけない。そんなふうに、淡々とした渋さが好ましい映画。

 ていねいに作られた素晴らしい映画だが、しかし「もう一度観たい」とは思えなかった。あまりにも重苦しい物語なのである。
 とくに後半、独立を目指してともに闘った者たち――幼なじみや兄弟まで――が内戦に引き裂かれて殺し合う展開は、観ていてつらかった。 

 暴力と悲しみが全編に満ち、どこにも救いがない映画。
 とってつけたような「救い」を物語の中に用意しなかったところが、ケン・ローチらしいとも言えるけれど……。
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ステッグマイヤー名倉『ナグラる』

ナグラるナグラる
(2008/09)
ステッグマイヤー名倉

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 超人気ウェブ日記「プチ日記」のステッグマイヤー名倉さんより、初の単著『ナグラる』(スカイキュープ/800円+税)を献呈いただいた。
 つねづね「プチ日記」を愛読している1人としては、「ワーイ!」という感じである。届いたその日にさっそく読了。たいへん面白かった。

 「プチ日記」の人気のほどを示す数字として、たとえば「はてなアンテナ」の被アンテナ数を見てみれば、今日現在で2084(!)。
 ちなみに当ブログの被アンテナ数は、今日現在で25。「プチ日記」は当ブログの80倍以上もの定期的読者を得ているわけだ。
 当然、アクセス数もハンパない。「プチ日記」はかたくなにブログ化しないままだから厳密には「ブロガー」ではないが、人気からいったらヘタなアルファブロガー顔負けなのである。

 この『ナグラる』は、「プチ日記」の過去ログから厳選した「ベスト・オブ・プチ日記」にあたる部分が全体の約半分。あとは、約4分の1が長めの書き下ろしコラム、もう4分の1が「Go Smoking」に連載中の喫煙ネタ・コラムからのセレクト――という構成になっている。

 猫も杓子も活字を大きくする傾向にある昨今の出版界にあって、本書は文庫本並みの小さな活字でぎっしりとコラムがつまっている。それでいて、デザインは窮屈な感じではない。これで800円は安い(新刊でも帯がついていないのだが、たぶんそれも価格を抑える工夫の一環だろう)。

 「『プチ日記』は過去ログもネットで読めるし、買わなくてもいいや」などとケチくさいことは言わず、愛読者なら買うべき。てゆーか、愛読者なら買って損はない一冊といえる。
 
 「プチ日記」について、多くの読者は「自虐系お笑いウェブ日記」として認識していることだろう。私も以前、「ヘタレを芸にまで高めた日記」と評したことがある。

 本書の半ばを占める「プチ日記」からのセレクト部分は、当然、笑いに的を絞ったものになっている。
 ほかにも面白い文章がたくさんあった気がするが、10年にわたって書きためられた膨大な日記から厳選したものなのだから、多少の“抜け落ち感”は仕方あるまい。
 好きなアーティストのベスト・アルバムに必ず感じる、「なんであの曲が入っていないんだ!」という不満と同じで、こういう本には全読者が満足するセレクトなどあり得ないのだ。

 どの日記もウェブで一度は読んでいるはずだが(私は途中からの読者だけれど、過去ログもさかのぼって全部読んだ)、再読しても十分に面白い。
 私がとくに好きなのは、下ネタがバシッと決まったときの日記。「プチ日記」の下ネタは、作者の知性と品のよさに裏打ちされているので、読んでいて不快ではないのだ。

 では、「プチ日記」セレクションの前後に置かれた、書き下ろしと喫煙ネタ・コラムの章についてはどうか? これは、評価が分かれるところだろう。というのも、「プチ日記」とはちがって、意外なほど真面目な内容のコラムが多いからだ。

 書き下ろしコラム4本のうち2本は、「死生観のこと」「心の問題のこと」と題されている。ううむ、真面目だ。しかも、思いきり「自分語り」。
 もちろん、「プチ日記」だって「自分語り」なわけだが、あちらは「自分を笑い飛ばす」のが基本スタンス。それに対し、書き下ろしコラムのほうは自らの弱さをさらけ出すような内容で、かなりシリアスだ。

 喫煙ネタ・コラムは、笑いとアイロニーのオブラートに包まれてはいるものの、喫煙者の1人として昨今の「禁煙ファシズム」に物申すスタンスが根底にある(小谷野敦に読ませたい)。
 しかも、中にはかなりシリアスなコラムもある。なにしろ、本文の最後の一文は次のようなものなのだ。

 ニーチェに「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」という言葉があるけれど、我々多くの凡人はただ快楽原則のために生きているのだから。



 「プチ日記」の作者の本が、ニーチェの引用でしめくくられるとは思わなかった。

 「プチ日記」ファンの中には、この2つの章を読んで「名倉に期待しているのは笑いなんだから、シリアスな文章なんていらない」と思う向きもあろう。しかし、私は2章ともたいへん面白く読んだ。名倉氏の心理学の素養(氏は心理学系大学院博士課程満期中退)が活かされた部分もあったりして、風変わりな文明論・社会批評・人生論としても「読ませる」内容なのである。

 ただ、かすかな違和感を覚えたところがある。それは、著者が自らについて、プロのライターや作家ではないことを過剰に謙遜している点だ。たとえば、「あとがき」には次のような一節がある。

 (この本は)つまるところ特筆すべき知識も能力もない一個人の身辺雑記にすぎず、プロ作家の高邁な文章と比べれば遠く及ばないのは火を見るよりも明らかである。



 そんなに卑下することはないのになー、と思う。「プロ作家」とかプロのライターの文章力や知識なんて、そう大したものではないからである。
 私はむしろ、「プチ日記」やいまはなき「スレッジハンマーウェブ」を読むにつけ、「作家やライターではない一般人がこんなに面白い文章をタダでバンバン公開するとは、ウェブ畏るべし。これからの時代、コラムニストやエッセイストはもう食っていけないのではないか」と思ってきたものだ。

 私の脳内分類では、名倉氏は「面白い文章を書くプロ」たち――たとえば、小田嶋隆、穂村弘、岸本佐知子、中田潤、呉智英、ゲッツ板谷など――と同列の存在であって、けっして「プロ作家」より一段下などではない。もっと自信をもってよい。

 まあ、その「自信なさげな風情」もまた、氏の愉しいキャラの一端をなしているのだろうが……。
 
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長田弘『読むことは旅をすること』

読むことは旅をすること―私の20世紀読書紀行読むことは旅をすること―私の20世紀読書紀行
(2008/05)
長田 弘

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 長田弘著『読むことは旅をすること/私の20世紀読書紀行』(平凡社/3990円)読了。

 『深呼吸の必要』などの詩集で知られる著者は、紀行文や読書に関するエッセイなど、散文でも多くの名著をものしてきた。
 本書は、著者のいくつかの旧著から、「読書紀行」の名編を一冊に集めて編んだもの(単行本初収録のものも数編)。500ページ近い大冊だ。

 「読書紀行」とは、読書にまつわる紀行文の謂。著者が敬愛する海外の詩人や文学者などにゆかりの地を、その生涯に思いを馳せながら訪ね歩いた旅の記録の集大成なのである。
  といっても、観光名所のたぐいはほとんど登場しない。著者が赴くのはもっぱら、人気のない小さな村など、異国からの観光客が訪れることはめったにない場所だ。

 しかも、本書で俎上に載る文学者の多くは、直接・間接に戦争や革命の犠牲となった人々である。スペイン市民戦争で虐殺された詩人ガルシア・ロルカ、ナチス・ドイツの秘密警察に射殺されたブルーノ・シュルツ(ポーランドのユダヤ系作家)など……。
 本書には、彼らの墓を探し訪ねる旅を綴った文章も多数収められている。

 そのことが示すとおり、ここにあるのは心浮き立つ旅の記録ではない。「戦争と革命の世紀」と呼ばれた20世紀に生き、国家の暴力に抗して言葉の力で闘った人々の足跡をたどる旅なのだ。
 著者にとってそれは、鎮魂の旅であると同時に、“詩人は国家や時代とどう向き合うべきか?”を改めて自問する旅でもあったろう。

 生きた地域も思想も多様な人々が登場するが、彼らに通底するのは、ナショナリズムの嵐が吹き荒れた時代にあって、パトリオティズム(愛郷主義)の側に立ちつづけた生のありようと創作姿勢である。

 たとえば、著者も引用している、ロシアの詩人・小説家ボリス・パステルナークの「詩はいつだって足もとの草のあいだにある」という言葉。それは、スターリン時代のソ連にあって困難な創作活動をつづけた彼が、パトリオティズムに拠って立っていたことを象徴している。

 パトリオティズムは、しばしば混同されるナショナリズムとは異なり、国家ではなく故郷としての国を愛する心だ。「詩はそもそもパトリオティズムに深く根ざした言葉なのである」と著者は言い、登場する文学者たちの姿勢に静かな喝采を送っている。

 一つひとつの文章が、詩のような香気を放っているのはさすがである。
 たとえば、本書のなかで私がいちばんシビレた一編「W・H・オーデンの遺言」の、次のような一節――。

 そのときオーデンの詩集を読んだことは、あれははじめて煙草を覚えたようなものだった、と思う。気がつくと、いつのまにかその言葉を深く吸いこんでいた。手になければ、手にないその言葉が鋭く意識された。一本の煙草のめくるめく感覚のなか、一筋の煙の上に、騒がしい世界は一瞬そこに鎮まる。それはまた、指先にゆれる密かな励ましでもあった。そのような詩の言葉として、オーデンの言葉は、以来わたしの肺をつねに侵しつづけてきた言葉だったのだ。


 
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天野月子、活動休止

ZEROZERO
(2008/09/03)
天野月子

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 天野月子が今年いっぱいで歌手活動を休止するという。
 ほかのアーティストへの楽曲提供は継続するそうだが、ソロアーティスト・天野月子は最新アルバム『ZERO』で終焉を迎えることになる。

 Coccoが活動を休止したときに近い、軽いショックを覚えた。Coccoは数年を経て復活したが、天野月子は果たして戻ってくるだろうか。

 公式ブログ「爆音生活」での、活動休止発表のエントリ(8月1日付)には次のような一節がある。

今回はね、
ある意味、
天野月子が完成しちゃったような気がした。

だからここで、
わたしは一度「天野月子」に幕を下ろそうと思います。

そう決めました。

表の活動を完全に停止し、音楽作家活動などをしていきます。
いつか、自分の心に新しい花が咲いて、
誰かに届けたくなるまで。

わたしはゼロになりたいのです。
ゼロは「無」かもしれないけど、わたしはそこに無限性を感じるの。
ゼロになって、もう一度そこから歩いてみたい。



 渾身の最新作『ZERO』で、表現したいことは表現し尽くしてしまった――それももちろん一面の真実ではあろう。しかし、背景にセールス上の不振というもう一つの理由があることは、容易に推察できる。

 天野月子の不運は、キャラが思いきりかぶる椎名林檎と同時期に活動してきたことだったろう。しかも、天野のほうがデビューが遅かったため、「椎名林檎のフォロワー」というイメージがずっとつきまとった。

 もっとも、椎名林檎との類似は表面的なもので、ちゃんと聴き込めばワン・アンド・オンリーの「天野月子の世界」が広がっていることを、ファンはみな知っているのだが……。

 天野月子という才能が表舞台から消えてしまうことを、深く惜しむ。
 新しいファンが一人でも増えることを願って、以下、私の好きな曲をピックアップ。



↑「烏」。これなんかはやっぱり椎名林檎風


↑世にも美しく哀切なバラード「月」


↑「月」の透明感とエモーショナルな昂揚感をあわせもつ「ウタカタ」


↑「HONEY?」。ヘヴィーなのに美しいイントロが鳥肌もの


↑「イデア」。天野のポップな面とロックな面が理想のバランスで同居した曲


↑「Howling」。歌詞が強烈なバラード。「あたしの無惨な穴へ 君の光が射し込み続けて 正しい呼吸をしていれる」(!)


↑隠れた名曲「stone」(これのみPVではない)
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楊逸『時が滲む朝』

時が滲む朝時が滲む朝
(2008/07)
楊 逸

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 楊逸(ヤン・イー)著『時が滲む朝』(文藝春秋/1300円)読了。初の中国人受賞で話題をまいた、本年上半期の芥川賞受賞作。

 やたらと評判の悪い作品である。が、私はそれほどひどいとは思わなかった。ところどころ不自然な日本語がある?  それは当然あるけれど、許容範囲だと思う。少なくとも、Yoshiのケータイ小説よりはるかにまともな日本語だ。

 面白い場面だって少なくない。政治スローガンをプリントしたTシャツを作る際のやりとりとか。
 ただ、惜しむらくはそれが、小説としての面白さというより、ノンフィクションの本や映画で意外な事実を知ったときの「へーえ」という面白さにとどまっているのだが……。

 私が読んでいてひっかかったのはむしろ、登場人物の話す言葉の「クサさ」だ。昔の日本の青春映画やテレビのホームドラマみたいなセリフの連打なのである。
 「母さんの鼻は高々だよ」とか、「お前も大学生か。道理で父さんも年だ」なんて紋切り型の言葉づかい、いまどきアニメの『サザエさん』でしか使わないぞ。

 きわめつけは、主人公2人が湖に向かって叫ぶ場面。

「何か、俺、今、凄く叫びたい気持ちだけど」志強はいきなり、光る眼で浩遠を見た。
「ん、お、おれも、同じような」
「明日朝早く、湖に向かって叫びに来ようか」



 ……なんてやりとりがあって、翌朝、2人はホントに叫びに行くのである。「国に役立つ人材になるぞぉ」とかなんとか。
 これはギャグか? ギャグとして書いているのか?
 作者は来日して20年以上経つ人だから、ギャグのニュアンスをこめたことも考えられるが、それにしてもスゴイ。

 そのように鼻白む場面も少なくないし、粗もいろいろ目につく。
 たとえば、いちばん力を入れて書くべき天安門事件の衝撃をサラっと流してしまっているのは、極上の素材を皮だけ残して実を捨てているようなもので、もったいないことこのうえない。
 そもそも、この長さの中編に、天安門事件の前後20年間の出来事を詰め込むのは無理がある。事件までと、来日後の生活、それぞれを独立した中編として描くべきだったと思う。

 ……と、いろいろケチをつけてしまったが、全体としては(世間が言うほど)悪くない。
 何より、選評で池澤夏樹が言うように、「書きたいことがある」という内面のマグマ――表現意欲のたぎりを感じさせる。芥川賞は作品の完成度より作者の原石としての輝きにウエイトを置く賞なわけだから、私はこの作品の受賞は順当だと思う。
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押井守『他力本願』

他力本願―仕事で負けない7つの力他力本願―仕事で負けない7つの力
(2008/07)
押井 守

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 押井守著『他力本願/仕事で負けない7つの力』(幻冬舎/1680円)読了。

 ジャパニメーションの雄が、最新監督作『スカイ・クロラ』を作り上げるまでのプロセスを振り返ることを通して、自らの映画作法を明かした書である。
 また、長いエピローグ「『痛み』だらけの人生だった」は、押井守が自らの生い立ちから現在までを振り返った、語り下ろしのミニ自伝になっている。

 サブタイトルから察するに、版元は本書を、アニメにかぎらない「仕事術」の書、あるいは一種の自己啓発書として売りたがっているようだ。
 そういうふうに読める部分も、ないわけではない。だが、全体としてはあくまで「映画監督・押井守」の自己解題書であって、押井作品に興味のない人が読んでも、一般の仕事の参考になどならないと思う(それにしても、タイトル/サブタイトルとも、もう少しどうにかならなかったものか。これではなんの本かさっぱりわからないし、内容を誤解されやすいと思う)。

 しかし、押井守ファンが読めばじつに面白い本である。とくに、押井について論じようとする人(商業メディアにかぎらず)にとっては必読書といってよい。
 『スカイ・クロラ』の宣伝の一環として作られた本ではあろうが、『スカイ・クロラ』を観ないまま読んでもまったく問題ない。じっさい、私は現時点で未見だが、それでも最後まで面白く読めた。
 また、押井ファンでなくても、何かを表現するクリエイティヴな仕事に就いている人、目指している人にとっては、参考になる部分が多々あるだろう。 

 以前このブログにも書いたが、私は10年以上前に一度押井氏を取材したことがある。そのとき、こちらの質問に対する氏の答えの素晴らしさに目を瞠った。自作について語る言葉の一つひとつに深みがあり、「とことん考え抜いて作品を作っている人」という印象を受けたのである。

 本書もしかり。『スカイ・クロラ』という作品の隅々にまで、緻密な計算が秘められていることに驚かされる。本書の94ページで押井氏も言うとおり、「全てのシーンには意味があり、すべてのカットには根拠がある」のだ。

 思わずメモしておきたくなるようないい言葉がちりばめられており、押井流アニメ論・映画論・演出論・芸術論として読みごたえがある。
 以下、私が強い印象を受けた一節をいくつかピックアップしてみよう――。

 

 「映画とは何か」という一見簡単そうに見える定義を、本質にまで切り込んで考えていくことは、実はそれほど簡単なことではない。世に映画監督と呼ばれている人でも、そこをきちんと理解しないまま、何となく映画を撮っている人が多いように僕には思える。
(中略)
 それはきっと映画の仕事だけではなく、どんな仕事にも当てはまることだろう。世の中では多くの人が実に様々な仕事をしているが、結局は本質を見極めながら仕事をする人と、そうでない人の二種類に分けられる。そして、本質を見極めた人だけが仕事にイノベーションをもたらすことができる。なぜなら本質を知らない人には、革新すべき点を見出せるはずがないからだ。



 実写映画であれば、生身の役者の顔を作り変えるわけにはいかないが、アニメーションならヒロインの少女の瞳の中まで、気が済むまで練り上げ、作り上げることもできる。監督にとって、この世界を作り上げたという全能感を抱けるのはアニメーションをおいてほかはない。



 どうも映画界は「製作費何億円」などと、使われた金額ばかりが話題になることが多いが、実際はそのカネをどう使ったかが問われるべきなのである。たった一人の有名俳優のギャラに消えてしまったのでは、大作といえども中身は乏しい作品と言わざるをえないだろう。



 ここまで読んだ読者には、演出というものはほとんどがテクニックの積み重ねなのだと分かってもらえたのではないだろうか。センスや感性などというものは最後ににじみ出るもので、基本は技術の蓄積である。



 世の巨匠たちが晩年になって駄作を発表するようになるのは、才能が枯渇したからではないと僕は思う。偉くなって、人の意見を聞けなくなったからなのだ。誰も意見をしてくれなくなるからなのだ。



 
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河合克敏『とめはねっ!』

とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)
(2007/05/02)
河合 克敏

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 河合克敏著『とめはねっ! 鈴里高校書道部』の既刊1~3巻(小学館)を買ってきて読む。
 『ヤングサンデー』に連載していたマンガなのだが、ヤンサンの休刊にともなって今週から『ビッグコミックスピリッツ』に引っ越してきたため、初めて私の視界に入った(スピリッツは『闇金ウシジマくん』目当てで最近毎週読んでいるのだ)。

 で、読んでみたらやたらと面白いので、あわててコミックスを買ってきたしだい。

 河合克敏といえば、昔『少年サンデー』でやっていた柔道マンガ『帯をギュッとね!』は、私の大好きな作品だった。
 この『とめはねっ!』は、タイトルのとおり高校の書道部を舞台にした「文化系青春コメディー」。舞台が文化系部活動に変わっても、掲載誌が少年誌から青年誌に変わっても、河合作品のさわやかで明るいテイストはまったく変わっていない。

 てゆーか、書道部を舞台にしても、作品のノリはほとんど体育会系である。「書道甲子園」を目指してがんばる、という展開があったり、ライバル同士の熱い闘いがあったり……。つまり河合は、『帯をギュッとね!』で柔道部を描いたときに用いた方法論を、文化系部活動を描くにあたっても強引にそのまま援用したわけだ。
 「書道部などという地味な部活が、こんなに波瀾万丈で熱いはずがない」(偏見)とは思うのだが、面白いので許す。

 この『とめはねっ!』、ストーリーの展開やキャラ設定はものすごくベタだ。

 たとえば、「廃部寸前の書道部を存続させるため、ひょんなことから入部させられた初心者が主人公。でも、書道をやってみたらその面白さと奥深さにどんどん魅せられていって……」という展開は、映画『シコふんじゃった。』などの先行諸作で何度もくり返されたパターンである。

 ほかにも、「不良にからまれているヒロインを救おうとしたら、じつは彼女は柔道の達人で……」などというベタベタな展開があったりする。「遅刻しそうでトーストくわえて走るヒロインが曲がり角でイケメンとぶつかって」という出会いパターンとどっこいのステレオタイプ。しかし、「ありがちだなあ」と苦笑しつつも、その王道展開が非常に心地よいのだ。

 キャラの立ち具合もバツグン。
 書道部員の4人の女生徒がそれぞれタイプの異なる美少女で、主人公・大江縁(ゆかり)は唯一の男子部員でハレム状態――という設定も、あざといけれど愉しい。しかも、大江を「書道の才能は秘めているが冴えない男子」に設定することで、読者が感情移入しやすくしているところがうまい。
 青年誌掲載を意識してか、河合は女子部員の入浴シーンとかパンチラとかの読者サービス(笑)を随所にちりばめているが、すっきりとしたキレイな絵柄なのでイヤらしさは皆無。

 このマンガを、ストーリーはそっくりそのままでテレビドラマ化してほしいと思う。4人の美少女役はそれぞれ誰がよいか、などと脳内キャスティングするのも楽しい。

 私は書道にはまったくの門外漢だが、それでも十分面白い。書道の心得がある人ならなおさら面白いだろう。
 作品の書道監修にあたっている書道家・武田双雲も言うとおり、書道とラブコメとスポ根が「美しく混ざりあう」快作だ。

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硯を探す

中国の名硯―現代から宋代まで中国の名硯―現代から宋代まで
(2005/03)
楠 文夫

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 たいせつな方に贈るために、あれこれ硯(すずり)を探す。
 「どうせ贈るなら物書きらしい品物を」と考えて硯にしたのである。

 硯について一日がかりであれこれ調べたので、かなりくわしくなった。気分は硯通(笑)。

 「硯の中の硯」といわれるのが、中国の「端渓硯」である。

 

 中国広東省広州の西方100㎞ほどのところに、肇慶(ちょうけい)という町がある。この町は西江という河に臨んでいて、東に斧柯山(ふかざん)がそびえる。この岩山の間を曲がりくねって流れ、西江に注ぐ谷川を端溪(たんけい)という。深山幽谷と形容される美しいこの場所で端溪硯の原石が掘り出される。
 端溪の石が硯に使われるようになったのは唐代からで、宋代に量産されるようになって一躍有名になった。紫色を基調にした美しい石で、石の中の淡緑色の斑点を「眼(がん)」という。鳥の眼のようなこの模様は虫の化石であり、実用には関係ないものだが大変珍重される。
 端溪の石は細かい彫刻にも向き、様々な意匠の彫刻を施した硯が多く見られる。端溪硯の価値は、眼の有無、彫刻の精巧さ、色合い、模様などによるもので、いずれも骨董的な価値である(「ウィキペディア」より)



 端渓硯の中にはビックリするほど高価なものもある。当然、私には高価なものは買えないので、手頃な値段の古硯を購入。
 ほんとうは獅子の彫刻が入った端渓硯がよかったのだが、そう都合よくは見つからなかった。けっきょく、鳳凰の彫刻が施されたものにした。

 「硯一つでも、奥が深いものだなあ」と感じ入ったしだい。
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中本千晶『ひとり仕事術』

ひとり仕事術ひとり仕事術
(2005/10/07)
中本 千晶

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 中本千晶著『ひとり仕事術』(バジリコ/1575円)読了。
 図書館で借りて読んでみたらたいへんよい本だったので、アマゾンで購入。

 著者は東大法学部卒の高学歴女性ライター。ただし、本書はよくあるフリーライター入門ではなく、フリーランサー全般の入門書である。ライター、イラストレーターなどのカタカナ職業からお堅い「士業」に至るまで、フリーランスで仕事をしていくための心構えとノウハウがひととおり網羅されている(ただし、「フリーになってから」の話に的が絞られていて、「いかにしてフリーになるか」は扱っていない)。
 こういう本は、ありそうでなかった。

 そもそも、なぜ世に「フリーライター入門」のたぐいが多いかといえば、ライターにとっては取材・調査の労がほとんどなく書けるし、しかも本の中で「自分語り」ができて自己顕示欲も満たすことができる――という2つの理由があるからにすぎない。需要があるから多いわけではないのだ。

 著者はそのへんをよくわきまえていて、「自分語り」は抑制し、さまざまな分野のフリーランサーの声を丹念に集め、手間ひまをかけてこの本を作っている。しかもバランスの取れた内容で、じつによくできた本である。

 フリーになりたて、もしくはフリーを目指している人を主要ターゲットにした本だから、私のようにフリー歴20年超の人間から見ると、書いてあることには「あたりまえのこと」も多い。それでも、ベテラン・フリーランサーにとっても得るものが多い本である。

 とくに、ほかのフリーランサーの仕事に対する心構えが多数紹介されているので、それがたいへん参考になる。「ホントにそうだよなあ」と激しく同意する点と、「へえ、そんな考え方もあるんだ」と目からウロコの点が、それぞれ随所にちりばめられているのだ。

 激しく同意したフリーランサーの声を、一つ引用。
 

「安定的な収入が得られる仕事の割合は7割以下にするほうがいい。7割を超えると、逆にその仕事に支配されてしまうから」
「毎月決まった金額が入るレギュラーの仕事は、『やりたいこと』ではなくても、『安心代』として引き受ける。逆に、単発の仕事は『やりたいこと』しか受けない」


 
 何より、フリーランサーの楽しさとやりがいを改めて思い知らされて、元気が出る本なのである。

 望蜀の嘆を承知で一つ難を言えば、本書には「勝ち組フリーランサー」の声ばかりが集められているので、その点にやや偏りが感じられる。
 現状食うや食わずの「負け組フリーランサー」(仕事を選ぶ余裕など当然ない)が読んだら、「ゼイタク言ってんじゃねえよ!」とムカツク点も少なくないだろう。


 
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江戸川乱歩『貼雑年譜』

貼雑年譜 (江戸川乱歩推理文庫)貼雑年譜 (江戸川乱歩推理文庫)
(1989/07)
江戸川 乱歩

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 江戸川乱歩の『貼雑(はりまぜ)年譜』(講談社)を、図書館で借りてきて読んだ。
 「貼雑年譜」とは、乱歩が自らの半生や作家としての生活についてまとめたスクラップ・ブックのことである。

 戦時中、その作風から軍部ににらまれた乱歩(たとえば、短編「芋虫」は検閲により全編削除)は、「時局のため文筆生活が殆ど不可能となったので暫く休養する事にした」。そのため、時間に余裕ができ、「その徒然にふとこの貼雑帖を拵えて置くことを思い立った」のだという。

 乱歩自身に関する新聞・雑誌記事、乱歩作品の広告、書簡、写真、名刺、スケッチなど、雑多なものが貼り込まれているのだが、たんなるスクラップ・ブックの域を超えた自伝的資料の集成となっている。貼られた資料の一つひとつに、乱歩自身が手書きで解説コメントを加えているからである。
 そのコメントはときに長文となり、『貼雑年譜』全体が“スクラップ・ブックの形を借りた自伝”の趣をなしている。

 かれこれ十数年前、私は立教大学そばにある旧・乱歩邸を訪ね、『貼雑年譜』の本物を見せていただいたことがある。それは、乱歩の子息である平井隆太郎さん(元立教大教授・心理学者)に、「父の思い出」をうかがう取材でのことだった。
 
 「ほぼ日刊イトイ新聞」の「おじさん少年探偵団、江戸川乱歩の家をゆく。」なる企画の中に、「乱歩のスクラップ・ブック」という項目があったので、その日のことを思い出して本書を読んでみたしだい。

 私はそのとき『貼雑年譜』に感銘を受け、「自分もこういうものが作りたい」と思った。思っただけでけっきょく作らなかったが、考えてみれば自分のサイトやブログは、「ネット上の『貼雑年譜』」みたいなものだ。

 たとえば、乱歩は『貼雑年譜』に自作に対する書評を貼り込み、その書評についての感想を横に書き込んでいたりする。いまどきの物書きがブログでやっていることと同じである。
 もしも乱歩が21世紀の作家だったとしたら、間違いなく熱心なブロガーになっていたことだろう。いわば、乱歩は「元祖ブロガー」なのである。

 この『貼雑年譜』で目を瞠るのは、乱歩の恐るべき整理魔ぶりだ。
 たとえば乱歩は、生まれてから自分が暮らしてきた家々について、記憶をたどって方眼紙に間取りを書き、それを貼り込んでいる。そして、その家にまつわる思い出なども書き込んでいる。そうしたパラノイアックなまでの几帳面さの中に、乱歩の創作力の一端もあるのだろう。

 「自分史」のたぐいをブログや本で作りたいと考えている人は、一度この『貼雑年譜』を見てみるとよいと思う。最高のお手本になるはずだ。

 ちなみに、この講談社版は、全65巻におよぶ「江戸川乱歩推理文庫」の「補巻」として刊行されたもの。原本そのものの完全複製ではなく、縮小・モノクロ印刷し、収録ページも取捨選択がなされている。それでも、見ているだけで面白くて興趣尽きない内容である。

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ラッシュ『スネークス&アローズ』

スネークス&アローズスネークス&アローズ
(2007/05/02)
ラッシュ

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 ラッシュの『スネークス&アローズ』(ワーナー)を輸入盤で購入。現時点での最新アルバムだが、発売されたのは昨年だ。

 カナダが誇る最強のロック・トリオ、ラッシュ。デビュー以来34年の歴史をもつベテランだけに、そのサウンドは時期によって微妙に色合いが異なる。ゆえに、一口にラッシュのファンといっても、どの時期の彼らを好むかは一様ではない。

 私は、アルバム『シグナルズ』から『ホールド・ユア・ファイアー』に至る、きらびやかでハードだった1980年代のラッシュの音が好みである。

 その好みからすると、この『スネークス&アローズ』はちょっと地味すぎるかな。よく作り込まれているし、聴きこむほどによさがわかる良作ではあるのだが……。

 私がラッシュに何を期待しているかというと、じつは、子どものころに聴いた、テレビのヒーローものの番組の主題歌の「進化形」であったりする。
 『ゲッターロボ』とか『マジンガーZ』とか『マッハバロン』とか、アニメでも特撮でもよいのだが、巨大ロボットが縦横無尽に活躍するような番組。その手の番組には、水木一郎アニキやささきいさおらが歌うカッコイイ主題歌がそれぞれあった。


↑「ヒーローもの番組の主題歌」の一例。この『マッハバロン』の主題歌はじつに名作。作詞は阿久悠だったのだな。

 それらの曲は、子ども心にはカッコよかったけれど、いま聴くとさすがにショボいわけだ。
 その点、1980年代のラッシュは、「ヒーローもの番組の主題歌を、大人の鑑賞に堪えるロックに置き換えたようなサウンド」で、じつによかったのである。

 超人的な演奏テクニックと、変拍子を多用する複雑な曲構成。それでいて、メロディーはあくまでポップで、ロック的ダイナミズムに満ちている……ラッシュがくり広げるスペイシーで知的なプログレッシヴ・ハード・ロックは、聴いていると、巨大ロボットが宇宙空間で華麗なバトルをする映像が浮かんでくる。

 とくに、1985年のアルバム『パワー・ウインドウズ』は、全編、“巨大ロボット乱れ飛びサウンド”の連打で、非の打ち所がない。私にとっては『パワー・ウインドウズ』こそラッシュの最高傑作である。

 ヒーローもの番組の主題歌の「進化形」――そんなものを求めるのは、ラッシュのファンとしては邪道だろうか? だが、もともと彼らのサウンドはしばしば「スペースオペラ」と評されてきたし、作詞を担当するドラムスのニール・パートは筋金入りのSFマニアなのだから、私同様、巨大ロボットが乱れ飛ぶ光景を思い浮かべながら聴いているファンは少なくないはずだ。

 この『スネークス&アローズ』でも、オープニングの「ファー・クライ」などはじつにスペース・オペラ的でよい。

 
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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