谷口ジロー『千年の翼、百年の夢』



 谷口ジローの『千年の翼、百年の夢』(ビッグコミックススペシャル/596円)を読んだ。

 ルーヴル美術館と『ビッグコミックオリジナル』のコラボ企画、なのだそうだ。
 内容は、主人公の日本人男性がルーヴル美術館を訪ねると、「サモトラケのニケ」の化身が現れて幻想の世界に誘う、というもの。
 彼はそこで、最晩年のゴッホと出会ったり、ナチの略奪から収蔵品を守ったルーヴル職員たちの命がけの奮闘に立ち会ったりするのである。

 谷口ジローは、「バンドデシネ」の国・フランスでも評価が高い。「フランス文化芸術勲章(シュヴァリエ)」も受章しているほどだ。
 だから、この企画で彼に白羽の矢が立ったのは納得だが、絵はともかく、ストーリーがどうしようもなく陳腐。優秀な原作者を立てるべきだったと思う。

 谷口ジローの作品のうち、私が抜きん出た傑作だと思うものを挙げると……。
 絵のすごさでいえば、関川夏央と組んだ連作『海景酒店 HOTEL HARBOUR-VIEW』。
 エンタメとしての完成度の高さでいえば、古山寛と組んだ『風の抄――柳生秘帖』(新装版では『柳生秘帖』がメインタイトルになっている)と、夢枕獏の小説を劇画化した『餓狼伝』。
 娯楽性と芸術性のバランスのよさでいえば、関川夏央と組んだ『「坊ちゃん」の時代』シリーズ……というところ。

 つまり、谷口のスゴイ作品はおおむね「原作つき」なのである。
 日本が世界に誇る「絵師」の一人である谷口だが、「天は二物を与えず」で、ストーリー作りの才にはあまり恵まれていないのだ。そのことを改めて感じさせる、残念な失敗作だと思う。

 作品のタイプは違えど、同じ美術界を舞台にした『ギャラリーフェイク』(細野不二彦)のエンタメとしての質の高さと比べると、「月とすっぽん」(死語)だ。

 もっとも、この作品にはほかに価格の高いオールカラーの「豪華版」もあるので、そっちで読んでいたら感想も少しは違ったかもしれない。ケチって普及版を買うべきではなかった。

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校條剛『作家という病』



 スマホを「iPhone6」に替えた。
 私は、iPhoneを使うのはこれが初めて。使いやすいのでビックリ。これまで使っていた「AQUOS PHONE」がいかに使いにくい代物であったのかを、改めて認識した。
 最新のAQUOS PHONEはどうか知らないが、私が2年前から使っていた機種(102SHⅡ)はマジでクソであった。もっと早く替えればよかった。 


 校條(めんじょう)剛著『作家という病』(講談社現代新書/950円)読了。

 『小説新潮』編集部に29年間在籍し、そのうち9年間は編集長を務めたベテラン文芸編集者が、つきあった21人の作家たちとの間に生まれたエピソードを綴った本である。

 この手の本では、文藝春秋の文芸編集者だった高橋一清の『編集者魂』が出色であった。あの本が14人の物故作家の思い出を綴ったものであったように、本書で取り上げられているのも物故作家ばかりだ(まあ、まだ生きている作家のことは書きにくいのだろう)。

 よく似た成り立ちのこの2冊は、甲乙付け難い面白さである。
 ただ、『編集者魂』が上品で格調高い本だったのに比べ、本書はもっと下世話で、暴露本的な色合いもないではない。たとえば、作家と愛人の関係にも踏み込んでいたり、取り上げた作家の負の側面も容赦なく暴いていたりする。
 私は本書を読んで、「遠藤周作って嫌なヤツだったんだなァ」と思った。

 21編のポルトレ(人物素描)は玉石混交だが、著者が対象への愛情とリスペクトをもって書いたと思われる章は、総じて面白い。たんなるエピソード集ではなく、その作家の「核」を巧みにつかみとった作家論としても読める。
 私はとくに、山口洋子、吉村昭、北原亞以子、黒岩重吾の章に感銘を受けた。

 それと、通読してしみじみ感じるのは、本書は「小説家という職業の黄金時代の話」だということ。いまよりもずっと本が売れ、人気作家が社会的に強い力をもっていた時代ならではの逸話ばかりが並んでいるのだ。
 たとえば、こんな一節がある。

 原稿の催促は文芸編集者が一番に緊張するときで、誰でも怒鳴られた経験が一度や二度はあるはずだ。



 〆切までに原稿を仕上げないのは作家の落ち度なのに、催促すると怒鳴られるというのだから、なんとも理不尽な話だ。
 〆切など守らなくて当たり前、作家は編集者に威張って当たり前だった時代なのである。
 いまのように本が売れない時代はそんなわけにはいかず、最近の若手作家は総じて〆切をきちんと守るし、腰が低いらしい。

 小説を書くことを人生の中心に据え、そこにあまりにも力を注ぐゆえに、人間としてどこかが破綻し、欠落している……本書に登場する作家の大半は、そのような人々である。
 作家たちがよくも悪くもサラリーマン化し、優等生的になったいまではあまりお目にかかれない、「作家という病」(業といってもよい)にかかった人々の味わい深いドラマ集。

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呉智英・宮崎哲弥『知的唯仏論』



 呉智英・宮崎哲弥著『知的唯仏論』(サンガ/1728円)読了。
 発刊されてすぐに購入し、ずっと積ん読しておいたもの。読んでみたら大変面白かった。

 呉智英は、評論家として宮崎哲弥の師匠筋にあたる。師弟対談集である。
 2人は1999年にも、『放談の王道』という対談集を編んでいる。これは非常に充実した素晴らしい対談集で、私はいまでもたまに引っ張り出してきて拾い読みする。
 
 『放談の王道』が広範なテーマを扱っていたのに対し、本書はずばり仏教がテーマだ。
 呉が好著『つぎはぎ仏教入門』(2011年)を上梓したことが、本書のきっかけになったのだろう。「まえがき」に言うとおり、「仏教の外部にいて、しかも仏教を高く評価する非信者」(呉)と、「仏教の内部にいながら特定の宗派・教団に属していない仏教徒」(宮崎)の対談なのだ。
 この組み合わせならではの、他に類を見ない独創的な仏教対談になっている。

 呉の専門分野であるマンガ(手塚治虫の『ブッダ』を筆頭とした宗教マンガ)の話から始まる前半は、たいへん読みやすい。後半はやや難解になるが、それでも、重要な問題提起と卓見が随所にあり、最後まで面白く読める。

 ただ、仏教については宮崎のほうが圧倒的にくわしいため、後半は宮崎の独演に呉が短く感想を述べるだけの箇所が多い。丁々発止の応酬が心地よかった『放談の王道』に比べ、本書には“言葉のラリー”の醍醐味が乏しいのだ。
 それでも、質の高い対談集には違いない。『つぎはぎ仏教入門』の内容を一段掘り下げた仏教入門としても読める。

■関連エントリ→ 呉智英『つぎはぎ仏教入門』

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デボラ・コールマン『I Can't Lose』ほか



 一昔前まで、女性のブルース・ギタリストは珍しい存在だったと思うのだが、1990年代あたりから増え始め、いまや女性のほうが目立っているくらいだ。
 
 とくに最近は、白人の若い女性ブルース・ギタリストも多い。
 しかも、ソロアルバムを何枚も出しているような人はみんな美人で色っぽく、まさに「百花繚乱」の趣がある。


 ジョアン・ショウ・テイラーとか、


 サマンサ・フィッシュとか、


 アナ・ポポヴィッチとか、


 ダニー・ワイルドとか、

 で、もう少し上の世代だとスーザン・テデスキ、キャロリン・ワンダーランド、スー・フォーリーなどがいる。目立っているのは総じて白人ギタリストで、黒人女性のほうが少ないという逆転現象が起きているのだ。

 でも、一連のブルース・ウーマンの中で私がいちばん気に入っているのは、黒人のデボラ・コールマンだ。

 私はまだ『I Can't Lose』『Soft Place to Fall』『Livin' on Love』という3枚のアルバムを聴いただけのにわかファンだが、この人はスゴイと思う。
 彼女の音楽は、クールで都会的なモダン・ブルース。一般ロック・ファンにも十分受け入れられるであろう、ブルース・ロック色の濃い音だ。

 そして何より、日本人受けするブルースだと思う。
 彼女の代表曲の一つ「My Heart Bleeds Blue」など、日本語に訳して日本の歌手に歌わせたら絶対ハマるはず。「泣きのメロディー」に「泣きのギター」なのである。



 この「Memory Lane」↓も、よい意味でニューミュージック的で、日本人好みの曲だ。



 もちろん、もっと本格的なブルースを演らせてもバツグンだ。ギターもヴォーカルも素晴らしい。
 まだ日本での知名度は低いが、もっと売れてしかるべきアーティストだろう。

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松下竜一『底ぬけビンボー暮らし』



 松下竜一著『松下竜一 その仕事〈10〉底ぬけビンボー暮らし』(筑摩書房)読了。

 先日柳美里さんの『貧乏の神様』を読んだとき、「そういえば、松下竜一が売れない物書きとしての困窮ぶりを綴ったエッセイ集があったな」と本書のことを思い出し、手を伸ばしてみたしだい。

 自らが発行人であった月刊ミニコミ誌「草の根通信」に連載したエッセイの、1990年代前半分をまとめたもの。
 『ルイズ―― 父に貰いし名は』で講談社ノンフィクション賞を受賞し、テレビドラマ化された作品(『豆腐屋の四季』)もある有名作家でありながら、年収は200万円前後という困窮ぶりが明かされている。その点でも、「芥川賞作家困窮生活記」と副題された『貧乏の神様』に近い。

 印象的なビンボー・エピソードがちりばめられている。
 たとえば、日本文藝家協会から入会の勧誘がきたとき、入会金5万円・初年度会費2万円の計7万円がとても払えないと、松下は断ってしまう。
 また、次のような赤裸々な記述も随所にある。

 昨年末に受け取った『母よ、生きるべし』の印税八◯万円を一応今年の収入として、それ以外に当てにできる大きな収入はまったくないということだ。
 というのも、今年中に出版できそうな本が一冊もないのだから当然のなりゆきというしかない。これまでに何も書けてないし、これから書けたとしても今年の出版ということにはなるまい。



 それでも、「貧乏」ならぬ「ビンボー」というタイトルが示すように、悲愴感はまったくない。あたたかく、ユーモラスなビンボー生活。次のような、微苦笑を誘う一節も多い。

 ちかごろ「清貧の思想」なるものがもてはやされているそうだが、それにしては現に貧しく生きている松下センセがなんの脚光も浴びないのはいったいどうしたことだろうか。(中略)思想としての清貧はもてはやすが、現実に貧しく生きている作家には眼が向かないらしい。



 貧乏を少しも苦にしない糟糠の妻と毎日散歩し、海岸でカモメにパンを与えることが何よりの楽しみだという生活は、「お金のかからない幸せ」のお手本のようだ。

 何より、ビンボーしていても作家としての矜持を失わないところが、読んでいてすがすがしい。

 不安や焦りがないといえば嘘になるが、もとより作家などという稼業は、“書けないときにも耐えうる精神”がなければやっていけるものではないのだ。たとえ実態は失業者であろうとも、散歩を愉しむ精神を喪わぬ限り松下センセは作家なのである。



 反権力の作家でありながら、声高に社会正義を訴えるようなサヨ的気負いが感じられない点も好ましい。

 それに、本書の解説で山口泉が言うとおり、松下竜一はビンボー作家ではあっても、「『作家』としては、稀に見る厚遇を受け続けてきた存在」でもあるのだ。このような、全30巻もの立派な全集まで編んでもらえたのだから……。 

■関連エントリ→ 松下竜一『暗闇に耐える思想』

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四方田犬彦『犬たちの肖像』



 昨日は、取材で京都へ――。

 帰途、東京駅に着いてから銀座まで足を伸ばし、知り合いの写真家・宍戸清孝さんの写真展「21世紀への帰還 第6弾」 (「ニコンサロン」で25日まで開催中)を観た。

 それにしても、京都も銀座も道行く人が外国人だらけで驚かされる。体感的には、日本語よりも中国語などのほうがたくさん飛び交っている感じなのだ。


 行き帰りの新幹線で、四方田犬彦著『犬たちの肖像』(集英社/1944円)を読了。

 博覧強記の比較文学者であり、無類の犬好きでもある著者が、古今の文学(および映画・マンガ・写真)に描かれた犬たちについて、縦横無尽に綴った薫り高い連作エッセイ。

 馬琴の『南総里見八犬伝』における犬を論じ、川端康成と谷崎潤一郎という愛犬家の文豪2人(谷崎が愛犬家でもあったとは意外)の犬との向き合い方の差異を論ずる(※)。
 シートンとジャック・ロンドンという2人の動物物語作家の、犬の描き方の違いを比較する。
 かと思えば、『のらくろ』と『タンタン』(に出てくる犬のミルー)を比較した、「東西名犬対決」という息抜きの章があったりする。

※川端康成の犬に対する愛玩ぶりは、かなり不気味。彼は「犬を飼ふにも、処女性は尊ぶべきものである」と書いている。つまり、他人が飼っていた犬を譲り受けるのではなく、生まれたときから飼うのでなければイヤだ、というのだ。飼い犬の「処女性」って……。さすが、横綱級ヘンタイ小説「眠れる美女」を書いた人だけのことはある(笑)。

 各章に趣向が凝らされ、著者の多分野にわたる該博な知識が随所にあふれ、読者を圧倒する。

 作家などによる、亡き愛犬についての作品を集めて論じた「文学的ジャンルとしての、犬の追悼」の章は、涙なしに読めない。
 ほかの章は泣けるという感じではないが、犬好きならたまらなく面白い本である。

 人が犬を飼い、人生の友とすることの意味を、さまざまな角度から深堀りした珠玉の名文集。表現論(文学論・詩論・写真論・映画論等)としても、ただならぬクオリティを備えている。

 印象に残った一節を引く。

 犬に名前を与えるという行為は、犬を人間の側に近づけ、人間化を施すことである。ペットとして飼われるようになったとき、犬は純粋な動物であることをやめ、動物と人間との混合物へと姿を変える(「犬をどう名付けるか」)



 あまたの動物たちのなかで、犬こそがもっとも聡明で、もっとも哲学的であるという考えは、洋の東西を問わず、古代から広く知られていた。プラトンの『国家』は、犬を社会の理想的な守護者として賞賛している。犬の忠実さと謙虚さへの信頼は、カトリックのドミニコ修道院が、ラテン語のdomin canis、つまり「神の犬」という語に基づいて命名されたと、中世に信じられてきたことからもわかる(「密談ピカレスク――セルバンテスとホフマン」)



 他に類を見ない、犬たちへの“文学的讃歌”である。

■関連エントリ→ 四方田犬彦『人間を守る読書』

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船橋洋一ほか『検証 日本の「失われた20年」』



 船橋洋一編著『検証 日本の「失われた20年」――日本はなぜ停滞から抜け出せなかったのか』(東洋経済新報社/3024円)読了。書評用読書。

 日本を代表するジャーナリスト・船橋洋一氏を中心に、日米欧の識者が集い、日本の「失われた20年」を検証した重厚なリポートである。

 経済と政治を中心に、人口問題、教育、歴史認識、安全保障など多彩な分野の15のテーマが掲げられ、それぞれの分野の専門家が「失われた20年」を分析していく。

 失われた20年を、「失われた30年」にしないための書でもある。現在もつづく停滞と先送りに終止符を打つための処方箋も、随所にちりばめられているのだ。

 何より、詰め込まれた情報量が豊富で、1990年代初頭から現在までの日本社会の鳥瞰図として読み応えがある。

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金森重樹『100%得をするふるさと納税生活 完全ガイド』


 
 金森重樹著『100%得をするふるさと納税生活 完全ガイド 2015年改訂版』(扶桑社/972円)読了。

 我が家でも昨年から「ふるさと納税」をしている。
 宮城県石巻市の鮭丸ごと、大阪府泉佐野市の「特選牛たんセット」、鳥取県倉吉市の「季節の野菜セット」、長崎県平戸市の殻付き岩牡蠣2・5キロなどをもらった。
 
 で、今年はもっと上手にふるさと納税を活用しようと思い、ハウツー本を読んでみた。著者は年間数百件のふるさと納税をし、自宅での食生活をほぼすべて返礼品でまかなっている(!)という、「ふるさと納税の達人」だ。

 著者は企業グループのオーナーで、年間2億円超の納税をしているという高額納税者。だからこそ、最高2000万円分も「ふるさと納税」をしても損をしないのである。したがって、著者のやり方を私たち庶民がそのまま見習うことはできない。

 それでも、著者は「日本一ふるさと納税制度を活用している人」には違いないわけで、そこから編み出されたノウハウには参考になる点が多い。

 たとえば著者は、あまたある返礼品のうち、「ふるさと納税のメリットを一番感じられるのが米だ」という。「米は主食であり、必ず消費するものなので」、返礼品のセレクトは米を最優先にすべきだ、と……。

 なるほど、と思った。
 返礼品を選ぶ際、ふるさと納税初心者はどうしても海の幸や肉、果物などに目が向きがちで、米をもらおうとはなかなか思わない。
 本書を読んで、1万円の寄付で20キロもの新米がもらえる自治体があることを知り、私もさっそくその中の一つに寄付をしてみた。11月に新米が20キロ届くのが楽しみだ。

 ふるさと納税がいくらまでなら損にならないかの計算についても、本書は我々フリーランサーのケースも視野に入れて説明してくれており、そこがうれしい。ネット上のふるさと納税関連サイトでは、サラリーマンのケースのみが取り上げられていることが多く、自由業者の目安が知りたかったからである。

 ふるさと納税もずいぶん普及してきて、ありがちな誤解(「自分の生まれ故郷にしか寄付できない」など)はかなり解消されてきた。
 私も昨年までいろいろ誤解していた面があって、実際にやってみて初めて「ああ、そういう仕組みなのか」と理解できた。

「ふるさとチョイス」などの関連サイトを使えば、5分程度で納税(てゆーか、実質は寄付であり、その分が翌年の税金から控除されるということ)が完了する。少しも面倒ではない。

 まだやっていない人は、本書(など)を参考にトライしてみるとよいと思う。

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柳美里『貧乏の神様』



 柳美里著『貧乏の神様――芥川賞作家困窮生活記』(双葉社/1512円)読了。

 2部構成である。前半の「Ⅰ-日々是貧乏」は、雑誌『創』に連載された身辺雑記エッセイの中から、とくに困窮ぶりがあらわれた回をセレクトしたもの。
 いっぽう、後半の「Ⅱ-原稿料を払ってください」は、『創』の原稿料未払い騒動の顛末を、ブログの抜粋とインタビューでたどっている。

 「やはり、芥川賞まで受賞した著名な作家が食うや食わずであるはずがない、という先入観を持っている方が多いのです」と、「はじめに」にはある。「芥川賞作家困窮生活記」という副題は、そうした先入観を逆手にとったアイキャッチとして秀逸だ。

 まあ、芥川賞を受賞しながらホームレス同然の暮らしをしていた作家だっているわけで、「芥川賞を取れば生活は安泰」などというのは、業界を知らない人の幻想にすぎない。
 柳さんも書いているように、「小説家が、筆一本で食べていくのは奇跡みたいなもの」なのだ。

 もっとも、本書前半に収められたエッセイは、困窮をテーマにしたものばかりではなく、多彩な内容である。ただ、そのディテールに困窮ぶりがにじみ出ているのだ。たとえば――。

 わたしは、相変わらず貧乏暇なしの日々を送っています。
 特に9月は史上何番目かの経済危機で、料金未払いのために固定電話とインターネットの回線を切られ、あと2日で携帯電話も切られるという段になって、わたしは10年近く集めていた記念切手を売ることにしました。



 貧乏話ではあるものの、筆致には飄々としたユーモアがある。それに、不遇を嘆く暗さよりも、「武士は食わねど高楊枝」的な潔さが全編に満ちていて、読後感はむしろ爽快だ。

 書くことを仕事に選んだ18歳の時から、金銭的や時間的には無理をしても、自分の性分や生き方には無理のない仕事をしよう、とわたしは決めたのです。(「はじめに」)



 困窮ぶりの中から、著者の志の高さが伝わってくる一冊。

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マイク・ブルームフィールド『永遠のフィルモア・ウェスト』



 土・日は取材で長崎へ――。
 作家の柳美里さんと、爆心地から500メートルの位置にある城山小学校(東由多加氏の母校)で行われた慰霊式典などに参加。
 70年目の「8・9」を現地・長崎ですごすことができて、感慨深かった。


 マイク・ブルームフィールドの『永遠のフィルモア・ウェスト』を、デジタル・リマスター盤で聴いた。

 白人ブルース・ギタリストの最高峰といってよいマイク・ブルームフィールド(エリック・クラプトンも、「彼以上の白人ブルース・ギタリストはいない」と絶賛した)。彼の遺した作品というと、アル・クーパーと組んだ『フィルモアの奇蹟』や『スーパー・セッション』ばかりが名盤としてよく知られていて、その分このアルバムは目立たない。しかし、私は3作のうちならこれがいちばん好きだ。
 1969年、フィルモア・ウェストでのライヴを収めたアルバムで、マイク・ブルームフィールド絶頂期の演奏が堪能できる。



 花村萬月はマイクのギターについて、「流麗といおうか、絶妙の愛撫を思わせる指使いなのだ。黒人はともかく、白人でこんな巧みで繊細なギタリストが存在することに目を瞠らされた」と書いた(『俺のロック・ステディ』)。
 花村の言うとおり、じつに艶っぽく音色の美しいギターで、聴き飽きない。

 ヴォーカルのニック・グレイヴナイツなど、気心の知れたほかのメンバーとのアンサンブルも抜群。名ライヴ・アルバムの一つだと思う。

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樺沢紫苑『読んだら忘れない読書術』



 樺沢紫苑(かばさわ・しおん)著『読んだら忘れない読書術』(サンマーク出版/1620円)読了。

 この著者の本は、『メールの超プロが教えるGmail仕事術』というのを読んだことがある。ペンネーム(?)は宝塚風だが、五十がらみのオジサンである。

 本書は、月に20~30冊の本を読み、年に3冊程度の著作を上梓している著者が、自らの読書術を開陳したもの。

 目からウロコが落ちるような記述はほとんどなく、“読書道初級向け”という趣だが、首肯できる記述も多い。
 たとえば、「私が考える『本を読んだ』の定義は、『内容を説明できること』、そして『内容について議論できること』です。感想や自分の意見を述べられなければ、本を読んでいる意味がないのです」という一節は、ほんとうにそのとおりだと思う。

 私がこのブログに読書感想を書きつづけているのも、そうやって記録しておかないと、読書して学んだこと、感じたことをたちまち忘れてしまうからなのだ。

 本書の美点を一つ挙げるなら、読書のコツに名前をつけるネーミング・センスの妙。

 たとえば、「ウルトラマン読書術」なる項目がある。
 ウルトラマンは地球上で3分間しか戦えないが、だからこそ効率的に自分の強さを発揮することができる。同じように、わずかなスキマ時間に「このページまで読もう」と決めて読むことで、集中力を高め、脳のパフォーマンスを上げることができるのだ、と……。
 スキマ時間を有効活用せよ、ということは読書術の本によく書いてある平凡なアドバイスだが、それに「ウルトラマン読書術」という突飛なネーミングを施すことで、著者独自のノウハウとして提示しているのだ。

 ただ、読書の効用を強調するあまり、「それはちょっと言いすぎでは?」と苦笑してしまう部分もある。たとえば――。

 本を上手に活用できる人は、ストレスが緩和され、「悩み事」でクヨクヨすることから解放されます。しかし、この事実は、ほとんどの人が知りません。
 なぜなら、読書家は問題や悩み事に直面しても、「本」を参考にして、早期のうちに解決してしまうので、大きなストレスや厄介な悩み事に煩わされること自体がないからです。



 “真の読書家は悩んだりしない!”というのだから、スゴイ(笑)。

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柳美里 『命』『魂』 『生』『声』



 柳美里著 『命』『魂』 『生(いきる)』『声』(新潮文庫)読了。

 いわゆる『命』四部作である。
 著者が不倫相手の子を身ごもったとき、元恋人で「作家・柳美里」の生みの親・育ての親でもある東由多加(劇作家・演出家)のガンが発覚する。東と過ごす最後の日々と、私生児を産み、育てていく過程が並行して進行する。死にゆく命と生まれいずる命が交錯する物語。
  『命』『魂』 『生』で東の闘病と死までが描かれ、最後の『声』は彼の葬儀と四十九日までが描かれる。

 大ベストセラーになった作品ゆえ、これまで敬して遠ざけてきたのだが、仕事上の必要があって読んだ。
 想像していたよりもずっとよい作品だった。特異な愛の物語としても、ガン闘病記としても、一人の作家の内面をつぶさに描いた作品としても優れている。
 意外なほど読みやすく、四部作を一気に読ませる。一冊読んだら次に手を伸ばさずにいられない。柳美里の筆力はやはり大したものだと思う。

 すべてをさらけ出し、血を流すようにして書かれた、“究極の私小説”ともいうべき作品。
 最終作『声』のあとがきには、次のような印象的な一節がある。

 空白を、文字と〈物語〉で埋め立てたのではない。空白は空白のままで、不在は不在のままだ。それでもわたしは書かずにはいられなかった。止血するためではなく血を流すために、解放されるためではなく囚われるために、語るためではなく沈黙するために。



 いちばん胸打たれたのは、柳と東の表現者同士としての深い絆が示されるくだり。たとえば、東の葬儀で読まれた柳の弔辞には、次のような一節がある。

 あなたを失ったわたしは不幸です。けれど、役者を目指していた十代のわたしに、不幸から逃げるな、不幸のなかに身を置いて、書くことによって、その不幸を直視しろ、といったのはあなたです。
 もう現実のなかであなたと逢うことはできませんが、さよならはいいません。
 書くことによって、あなたと再会できると、わたしは信じています。



 「感動の実話」の文脈で捉えられがちな四部作(じっさい、私はそういうイメージで食わず嫌いしていた)だが、じつは「感動もの」とかラブストーリーの域を超え、文学として正当に評価されてしかるべき作品だと思った。

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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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