『ブルース・ロック・アンソロジー[ブリティッシュ編]』



 白谷潔弘編『ブルース・ロック・アンソロジー[ブリティッシュ編]』(シンコーミュージック/2916円)を、少しずつ読んでいる。
 「ブリティッシュ・ブルース黄金期を築いた代表的アーティストの足跡を詳細なキャリア解説とディスコグラフィ、当事者の証言で総括した究極の一冊!」という触れ込みの音楽ガイド本である。

 B5判の大きなサイズに、貴重な写真や情報がギッシリ。

 ものすごくマニアックな本だ。英国産ブルース・ロックといえば、初期のローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンあたりは欠かせない大物であるわけだが、本書はあえて両者を外して構成されている。

 

 バンドの詳細な歴史を可能な限り掲載するにあたって、単独で本が出版されていたり、特集が組まれて来たローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、バッド・カンパニーは外し、その代わりに通常なら決して触れられることのないバンドやミュージシャンを優先させた。(「前書き」より)



 ……とのことである。

 ただし、クラプトン単独では立項がないものの、彼が在籍したクリームやヤードバーズなどの項目はある。
 ストーンズの項目はないものの、ストーンズのギタリストであったミック・テイラーについての項目はある。 また、「60年代初頭の英国ブルース・シーンとローリング・ストーンズ」という短い論考があって、ストーンズ登場前夜の状況については検証されている。
 バッド・カンパニーの項目はないものの、ポール・ロジャースがバドカンの前に組んでいたフリーについては立項がある。

 で、私が聞いたこともないようなマイナーなアーティストが、驚くほど大きな扱いになっていたりする。

 と、そのようにマニアックなヒネリが随所に加えられた本であり、「ブリティッシュ・ブルース・ロック入門」として読むには内容が高度すぎる。
 これは入門書ではなく、ブルース・ロックをかなり聴き込んできた人が、さらなる深みにハマるためのガイド本なのである。

 

 本書は大量の文字を詰め込んだので、完成まで10年もかかってしまった。(「前書き」)



 ……というだけあって、情報の密度とこだわりはかなりのもの。とくに、取り上げられた各アーティストのバイオグラフィー、ディスコグラフィーの細かさはすごい。

 インタビューもわりとたくさん掲載されていて、その中には読み応えあるものもあるが、昔の『ミュージック・ライフ』誌から転載されたいくつかのインタビューはひどい。

 たとえば、初期フリートウッド・マック在籍中のピーター・グリーンへのインタビュー(『ミュージック・ライフ』1969年7月号)では、インタビュアーが「何かペットを飼っていますか?」とか「初恋について話してください」とか「どんなたべものが好きですか?」とか、クダラナイことばかり聞いていてウンザリする。

 ……と、ケチをつけてしまったが、ブルース・ロックが好きな人なら持っておいてよい労作だ。
 
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宮谷一彦『ライク ア ローリング ストーン』



 宮谷一彦の『ライク ア ローリング ストーン』(フリースタイル/1620円)を購入。
 手塚治虫の虫プロが出していたコミック誌『COM』で1969年に連載されて以来、半世紀近く一度も単行本化されていなかった「伝説の名作」の初単行本化である。

 文春文庫ビジュアル版の『マンガ黄金時代  ’60年代傑作集』というオムニバスに、この作品の第1話が収録されたことがある。私はそれを読んだことがあるのみで、全編を通して読むのは今回が初めて。

 帯に「ひとりの漫画家の1969年3月からの120日間の記録」とあるとおり、作者の宮谷一彦自身(ただし、作中での名は「画村一彦」となっている)のマンガ家としての生活を描いた「私マンガ」である。

 中条省平は、本書の巻末に寄せた解説で次のように言う。

 まず本作の特徴は、日本初の本格的な「私マンガ」であるということです。(中略)作者・宮谷一彦は自分の分身である画村一彦を通じて、自分の思想とマンガ観をストレートに打ちだしています。本作は日本マンガ史上最も真摯な「マンガ家マンガ」なのです。



 私は、本作に先行する永島慎二の『漫画家残酷物語』(の中の数篇)こそ「日本初の本格的な『私マンガ』」であったと思うし、「日本マンガ史上最も真摯な『マンガ家マンガ』」という賛辞も、同作にこそふさわしいと思う。

 が、それはともかく、この『ライク ア ローリング ストーン』も、日本マンガ史上に突出する作品であることは間違いない。
 内容には観念的すぎて難解な部分も多いのだが、機関車や阿修羅像などのすさまじい細密描写を味わうだけでも、本書を買う価値は十分にある。

 この単行本の版元・フリースタイルが発行している季刊誌『フリースタイル』の直近号(36号)でも、宮谷一彦特集が組まれている。これも併せて購入。



 特集のメインは、宮谷一彦に大きな影響を受けた一人である作家の矢作俊彦(かつて「ダディ・グース」名義でマンガ家としても活躍)によるインタビュー。
 インタビューというより対談になっているが、内容は(宮谷と矢作のファンなら)とても面白い。

 なお、フリースタイルは今年、宮谷一彦の初期作品集『俺たちの季節(とき)』と『ジャンピン ジャック フラッシュ』の電子書籍版も刊行している。



 じつをいえば私は、『ライク ア ローリング ストーン』以降、どんどん難解になっていった宮谷作品よりも、この2冊に収録された初期の青春マンガをこそ愛する者である。この時期の宮谷こそ、私にとってはベスト。1971年から72年にかけて、三崎書房から刊行されたこの2冊は、いまでも私の宝物だ。

 収録作全編が傑作とは言わないまでも、6割方はマンガ史に残るレベルの青春マンガであり、マンガ技術的にも当時の最高峰・最先端である。

 たとえば、『ジャンピン ジャック フラッシュ』所収の短編「ラストステージ」は、日本におけるジャズ劇画の最高傑作だと思う。
 『BLUE GIANT』より40年も早く、これほどリアルに絵の中にジャズを刻みつけた作品が、日本にはあったのだ。

 また、同じく『ジャンピン ジャック フラッシュ』所収の短編「逃亡者」は、わずか24ページの作品ながら、日本におけるカーアクション劇画の最高峰の一つだろう。

 余談ながら、この「逃亡者」の中に出てくる、“車で時速200キロから目にも止まらぬ速さでシフトダウンをくり返し、直角に曲がる”という描写は、のちに池沢さとしが『サーキットの狼』でそっくりパクっている。
 
■関連エントリ
岡崎英生『劇画狂時代』
ダディ・グース『少年レボリューション』
 
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岩波明『発達障害』



 岩波明著『発達障害』(文春新書/880円)を、Kindle電子書籍版で読了。
 昭和大学医学部教授で、臨床経験も豊富な著者による発達障害の概説書。仕事の資料として読んだ。

 発達障害の研究史を手際よく辿り、ASD(自閉症スペクトラム障害)とADHD(注意欠如多動性障害)の共通点と相違点を一章を割いて説明し……と、概説書として過不足ない内容である。

 一般読者を引き込むための工夫も、随所に凝らされている。
 たとえば、開巻劈頭、「シャーロック・ホームズはアスペルガー症候群だったのか?」という問いから文章が始まっていたり、アンデルセンやルイス・キャロル、大村益次郎などが発達障害であった可能性を考えたり……。

 過度の論文臭がないのはよいことだが、読者の下世話な興味に迎合しすぎている面もある。
 たとえば、第6章「アスペルガー症候群への誤解はなぜ広がったか」や第7章「発達障害と犯罪」で、著者は犯人の発達障害が関係しているとみなされた著名犯罪を取り上げている。豊川主婦殺人事件や佐世保小6女児同級生殺害事件、深川通り魔殺人事件などである。

 そのうち、豊川の事件については、加害少年が精神鑑定でアスペルガーだと診断されたのは「まったくの誤診であった」と、著者は言う。また、佐世保の事件でも加害少女がアスペルガーだと喧伝されたが、著者はそのことに疑問を投げかける。
 いっぽう、深川通り魔殺人事件については、犯人の子ども時代の行動は「ADHDの診断基準を満たして」おり、そのころに適切な医療介入が行われていれば事件は起こらなかったかもしれない、と述べる。

 そうした主張自体は傾聴に値するのだが、それらの事件内容について、必要以上に詳述しすぎだと思った。煽情的な犯罪読み物みたいな記述が延々と続き、ウンザリ。

 私が編集者なら、そのへんの記述は全部カットして、終章の「発達障害とどう向き合うか」をもっとふくらませる。

■関連エントリ→ 梅永雄二『大人のアスペルガーがわかる』

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戸部けいこ『光とともに…』



 仕事上の必要があって、戸部けいこの『光とともに… ~自閉症児を抱えて~』(秋田書店)全15巻を一気読み。

 2001年から約10年間にわたって『フォアミセス』に連載され、その間に篠原涼子主演でテレビドラマ化されるなどして、大ヒットした作品だ。
 
 副題のとおり、自閉症児を抱えたサラリーマン家庭の物語。
 自閉症と知的な遅れを併せ持つ主人公・東光(あずま・ひかる)が育っていくプロセスを、その誕生から中学生時代まで、つぶさに描いている。

 作者の戸部けいこさんが52歳の若さで病死したことから未完に終わったが、光が成人し、働き始めるところまでを描き切る構想だったという。“一人の自閉症児の成長を描く大河マンガ”なのである。

 自閉症児を持つ親たちや、自閉症児に携わる教育・療育・福祉行政・医療関係者など、多くの当事者に丹念な取材を重ねて作られた物語は、細部に至るまでリアルだ。

 私はタイトルだけは知っていたものの、読んだのは今回が初めて。正直、これほどよくできたマンガだとは思わなかった。

 これは見事な群像劇である。家族4人を中心とした小さな世界が描かれているのに、光に携わる多くの人々のさまざまな人間ドラマが、壮大なタペストリーを織りなす。

 何より、光が年を重ねるごとに次々と眼前に現れる“ハードル”を、光の母・幸子と父・雅人が一つずつ乗り越えていくプロセスが感動的だ。
 2人は時に落ち込み、時に心折れそうになりつつも、その前向きさで周囲の人々も徐々に味方に変えていくのである。

 コミックスの累計発行部数が240万部を超えたというこの作品は、日本に自閉症理解の土壌をつくるうえでも、大きな貢献を果たしたといえるだろう。
 たとえば、「親のしつけが悪いから自閉症になる」などというありがちな誤解は、この作品の大ヒットによってかなり払拭されたのではないか。

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『アポカリプト』



 『アポカリプト』と『ハイ・フィデリティ』を、DVDで観た。まだ風邪が抜けないので、この3日間、家で映画ばかり観ている。
 『ハイ・フィデリティ』は再見。洋楽好きにはマストな「音楽オタク映画」の快作である。

 『アポカリプト』は、2006年のメル・ギブソン監督作品。
 いまごろになって観たのは、少し前に読んだ『ライムスター宇多丸の映画カウンセリング』の中で絶賛されていたから。



 マヤ文明時代のユカタン半島を舞台にしたアクション映画である。

 作り手(具体的にはメル・ギブソン)のオリエンタリズムによってマヤ文明の歴史が歪められている、との批判を呼んだ作品だという。

 しかし、そもそも「マヤ文明を正しく描くこと」が本作の主眼ではないと感じた。
 むしろこれは、単純明快な娯楽映画――具体的にはホラー風味のサバイバル・アクションである。エンタメとして斬新なものにするために、ハリウッド映画ではほとんど扱われてこなかったマヤ文明が素材として選ばれたにすぎないのではないか。

 兵隊アリに噛ませて“傷口を縫う”場面など、狩猟民族の生活のディテールが面白い。
 また、生贄にされそうになった主人公が追っ手から逃がれる緊迫のシークェンスには、“密林の逃走劇”ならではの仕掛けがちりばめられ、とても新鮮だ。たとえば、毒ガエルの毒と木のトゲを用いた即席の吹き矢で敵を倒したり……。

 オリエンタリズムは、狩猟民族の戦士たちが捕虜としてマヤ帝国に連れて行かれ、そこで太陽神に捧げる生贄として殺される場面に、とくに感じた。
 マヤ文明で生贄の儀式が行われていたこと自体は史実だが、その描き方が過度に侮蔑的だと思う。

 そのような歪みはあるにせよ、単純にエンタメとして観れば上出来だろう。
 後半はサバイバル・アクションとして一級。また、平和に暮らしていた部族がマヤ帝国の部隊に襲われ惨殺されていく前半は、身の毛もよだつ一級のホラーだ。
 それはあたかも、私たちの遺伝子に刻み込まれた、“原始時代に蛮族の襲撃を受けたときの恐怖”を思い出させるかのよう。原初的恐怖を感じさせる。
  
■関連エントリ→ 『パッション』

 
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『LOGAN/ローガン』



 『LOGAN/ローガン』を映像配信で観た。



 「X-MEN」シリーズの主要キャラクター「ウルヴァリン」ことローガンの最期を描いた映画。
 同じマーベル・コミックから生まれた作品でありながら、昨日観た『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』とは正反対の、ダークでシリアスなストーリーだ。

 無敵のスーパーヒーローが老いて能力を衰えさせた落魄の姿が、リアルに描かれる。
 ローガンは運転手として働いて細々と生計を立て、認知症になった「プロフェッサーX」を介護しながら暮らしている。

 彼らと同じミュータントは、もう25年も生まれておらず、絶滅の危機に瀕していた。
 そんななか、ローガンは「ローラ」という11歳の少女を守ってノースダコタまで送り届けてほしい、という依頼を受ける。やがて、ローラもローガンと同種のミュータントであることが判明する。
 ローラたち(ほかにもミュータントの子どもたちがいる)を葬り去ろうとする組織から守るため、ローガンはボロボロになった体に鞭打って、最後の闘いに臨むのだった。

 ……と、いうような話。認知症の老人を介護しながら闘うヒーロー! こんなにシリアスでリアルなヒーロー映画は前代未聞であろう。
 最後に残った子どもたちに希望を託そうとするあたりも、少子化社会のメタファーに思えなくもない。世界一の速度で少子高齢化が進む日本に住む我々こそ、いちばんローガンに感情移入しやすいのではないか。

 まあ、そんなふうにこじつけなくても、ローガンのアメコミ・ヒーローらしからぬ悲壮な闘いぶりは、それだけで十分感動的だ。

 ローラ役の、すごく大人びた顔立ちの12歳の美少女、ダフネ・キーンの演技も強烈な印象を残す。

 彼女が死んだローガンを弔うため、聖書の一節の代わりに『シェーン』のセリフを暗誦するラストシーン(なぜ『シェーン』なのかは、観ればわかる)は、感涙必至である。
 ローラたち――最後に残ったミュータントの少年少女が希望の未来を探して旅立つ、余韻嫋々の幕切れ。それは、『スラン』から『地球へ…』に至るまで、あまたあるミュータント・テーマSFの名作の読後感に、勝るとも劣らない。
 
 エンタメではあるが、観る者に娯楽を超えた感動を与える傑作。
 
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コック・ロビン『BEST OF COCK ROBIN』



 1980年代に好きだったコック・ロビンの曲がむしょうに聴きたくなって、『BEST OF COCK ROBIN』を輸入盤で購入。ヘビロ中。

 コック・ロビンは、男女2人からなるアメリカのポップ・ロック・デュオ。本国アメリカではまったく人気が出ず、対照的にフランス、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ各国で人気を得た。

 その理由は、彼らの曲を聴けばわかる。陰影に富む繊細な曲作りが、とてもヨーロッパ的なのだ。
 私も、ずっとイギリスのバンドだとばかり思っていた。なにしろ、英カンタベリー・ロックの大物スティーヴ・ヒレッジが、彼らのファースト・アルバムをプロデュースしていたし。
 それに、コック・ロビン(=クック・ロビン/駒鳥)といえば「マザー・グース」の「誰がこまどり殺したの?/Who killed Cock Robin?」がまず思い浮かび、バンド名からして英国的だし。

 私は、87年のセカンド『ロビンの絆(After Here Through Midland)』を、とくに(アナログ盤で)愛聴していた。



 同作所収のヒット曲「エル・ノーテ」と「ジャスト・アラウンド・ザ・コーナー」は、いま聴いても非の打ち所がない絶品だと思う。
 美しいメロディーに、凝ったアレンジ。聴いていると心の中に見知らぬ風景が広がっていくような、映像喚起力に富む曲だ。





 男女2人が曲によってそれぞれリード・ヴォーカルをとるのだが、どちらもエモーショナルに歌い上げるタイプで、2人の相性が抜群。

 私はとくに女性のアンナ・ラカジオ(Anna LaCazio)の歌声が好きだったのだが、2012年の再々結成後は、彼女は加わっていないという。ニューアルバムも予定されているそうだが、アンナがいないコック・ロビンなんて……。

 アンナ・ラカジオは、イタリア系の父と中国系の母を持つダブルである。そういえば、ちょっと東洋的な顔立ちでもある。

 彼らのベスト・アルバムは何種類か出ているが、曲目を見比べて、この『BEST OF COCK ROBIN』がいちばんよいと思った。



 ほかにも、上に貼った「The Promise You Made」など、いい曲が目白押し。埋もれさせてしまうには惜しい名デュオだ。

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『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』



 「敬老の日」の一昨日は、台風一過の青空の下、大阪の枚方市まで行き、講演(そんな柄じゃないんですけどね)。
 で、今週はやっと仕事が一段落なのだが、一段落したとたんに気が抜けたせいか、昨日は風邪で熱を出してしまった。

 そういえば、一昨日も新幹線の中で本を読む気がせず、行きも帰りもずっと寝ていた。疲れがたまっていたのだろう。
 
 喉も痛くて仕事する気が起きず、一日中寝床ですごす。今朝起きたらかなり体調がましになっていたが、いま私に電話するとガラガラ声が聴けます(笑)。

 昨日寝床で映像配信で観たのが、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』。2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の続編。
 一連のマーベル・コミック原作のスーパーヒーローものの中では、コメディ色が強くて異彩を放つスペースオペラ・シリーズである。



 バカバカしいといえばバカバカしいのだが、けっこう好きである。
 要所要所で使われる(おもに)70年代ポップスの名曲群は、もろに私の思春期の甘酸っぱい記憶直撃だし……。

 
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『ムーンライト』



 『ムーンライト』を映像配信で観た。



 アカデミー賞で8部門にノミネートされ、作品賞・助演男優賞・脚色賞の3部門を制覇した作品。
 たしかに秀作だが、アカデミー作品賞受賞作とは思えないほど、ものすごく地味な映画である。「ミニシアター系」という感じ。

 黒人コミュニティーの内側にも厳然と存在する差別(ゲイ差別や、「より黒い肌を持つ者」への差別など)や、貧困地域に蔓延するドラッグ禍など、米国の社会問題を扱いつつも、その描き方はあくまで個人的、かつ詩的で静謐である。「声高に社会問題を叫ぶ」ような映画ではないのだ。

 ジャンキーである母に、時にはネグレクトされ、時に暴言を吐かれて苦しむ子ども時代を送った主人公が、大人になってから自らもヤクの売人になるしかなかった、という「貧困の連鎖」の描写に、胸を衝かれる思いがした。

 それでも、物語の最後には、主人公の人生に一条の希望の光が差し込む。少年時代にたった一度だけ愛し合ったケヴィンと再会して和解を果たし、母親とも和解するのだ。

 子ども時代・少年時代・成人後と、3つの年代の主人公を演じた3人の俳優もよいが、私は母親役のナオミ・ハリスの演技に強い印象を受けた。彼女は、『マンデラ 自由への長い道』でのウイニー(マンデラの妻)役も素晴らしかった。

■関連エントリ→ 『マンデラ 自由への長い道』

 流麗なカメラワークと、光と色彩の緻密なコントロールも見事だ。

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コンラート・パウル・リースマン『反教養の理論』



 昨日は雨の中、羽田空港まで赴き、ソーシャルワーカーの藤田孝典さん(NPO法人「ほっとプラス」代表理事)を取材。ご多忙のなか、飛行機に乗るまでの時間を割いていただいたのである。
 
 行き帰りの電車で、コンラート・パウル・リースマン著、斎藤成夫、齋藤直樹訳『反教養の理論――大学改革の錯誤』(法政大学出版局/3024円)を読了。書評用読書。

 ウィーン大学哲学科教授の著者が、ヨーロッパの大学改革を痛烈に批判した書。

 原書は2006年に出たもの。11年後のいまになって邦訳が刊行されたのは、日本でいままさに文科省が進めている大学改革への批判の嵐が巻き起こっているからであろう。
 本書が出た7月に、『反「大学改革」論――若手からの問題提起』、『「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する』という類書も刊行された。

 要は、欧米でも日本でも、資本主義の爛熟が大学までも侵し、「すぐ役に立つこと」「すぐお金になること」を目指した経済効率一辺倒のありようになってきたということであろう。
 教養なんて、そもそも実用性とは無縁のものなのだから、大学が実用性偏重になれば「反教養」の場と化していくのは当然だろう。

 “教養とは何か?”を突きつめて考察した書としても、読み応えがある。ヨーロッパの話ではあるが、日本の大学改革にもあてはまる話ばかりだ。

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『酒井家のしあわせ』



 取材した録音データを文章化する作業のことを、私のようなオッサン・ライターは「テープ起こし」と呼ぶが、最近の若いライターや編集者は「文字起こし」と呼ぶ。まぁ、いまはテープ(=カセットテープ)に録音するわけじゃないからな。
 CDショップのことを、オッサンがつい「レコード屋」と呼んでしまうようなものか。

 ……と思ったら、映像業界では文字起こしを「スクリプト」と呼ぶ人が多いことを最近知った。「先日の取材のスクリプトが仕上がりましたので、送ります」とか。
 「えっ? スクリプトって台本のことじゃないの?」と違和感。
 映画の撮影現場で、撮影シーンの様子や内容を記録する人を「スクリプター」と呼ぶそうだから、「取材現場の記録」という意味で「スクリプト」と呼んでいるわけか。


 レンタルDVDで、『酒井家のしあわせ』を観た。呉美保監督の、2006年のデビュー作。
 呉美保の『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』がどちらもよい映画だったので、旧作も観てみようと思ったしだい。

 監督の出身地である三重県伊賀市を舞台にしたホームコメディ。もっとも、コメディ色は強くなくて、笑える場面も微苦笑を誘う感じの淡い笑いだ。

 主演の友近と、助演の濱田マリの「関西のおかん」っぷりがもう最高である。
 とくに友近は、じつに素晴らしい女優でもあると思った。何気ないフツーのセリフをしゃべっても、端々がそこはかとなくおかしい。

 途中までは面白く観ていたのだが、ユースケ・サンタマリア演ずる酒井家の主人が家を出ていったホントの理由が明かされるところで、一気にシラけた。あり得ないでしょ、それは。馬鹿馬鹿しいったらない。

 映画としては傑作になりそこねた失敗作だろうが、呉美保の優れた演出力はこのデビュー作からすでに輝いていると思った。とくに、中学生たちの自然な演技を引き出す手腕は素晴らしい。

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長沼毅『世界の果てに、ぼくは見た』『辺境生物はすごい!』



 昨日は都内某所で、生物学者の長沼毅さん(広島大学大学院教授)を取材。

 長沼さんの著書『世界の果てに、ぼくは見た』(幻冬舎文庫/626円)、『辺境生物はすごい! ――人生で大切なことは、すべて彼らから教わった』(幻冬舎新書/842円)を読んで臨む。

 私は理系の学問は苦手なのに、なぜか科学者を取材する機会がけっこう多い。
 まあ、一般向けの科学啓蒙書のたぐいを読むのは好きだし、科学者の方のお話は新鮮で楽しいのだが。

 『世界の果てに、ぼくは見た』は、ロマンの薫り高いサイエンス・エッセイ。
 極地・深海・砂漠など、極限環境の生物をおもに研究されてきた「辺境生物学者」「科学界のインディ・ジョーンズ」(これは茂木健一郎氏の命名)である長沼さんが、研究がらみの辺境への旅の思い出を主に綴った、“科学紀行エッセイ”ともいうべき内容だ。帯には、「『辺境科学者』と、知の旅に出よう。」という惹句が躍っている。

 科学のみならず、歴史についての該博な知識も駆使して、知的刺激に富むエッセイが展開される。上品なユーモアをちりばめながらも、文章は詩的で格調高い。

 もう一つの『辺境生物はすごい!』は、辺境生物研究から得た知見を人生論にブレイクダウンした内容。



 『世界の果てに、ぼくは見た』が純粋に知的な愉しみとして読むべき本であるのに対し、こちらはやや自己啓発書寄りである。

 とはいえ、凡百の自己啓発書が放つ独特の臭味のようなものはない。“科学者の目線で語られる生き方論”ゆえの説得力があるのだ。

 たとえば、「失敗は成功の元」という教訓を、著者は進化の仕組みをふまえて語る。
 進化(を促す突然変異)は遺伝子のミスコピーから始まるのだから、かりに地球の生物がミスをまったくしなかったら、我々はいまも海の中の単細胞生物のままだったかもしれない。ゆえに「ミスは成功のためのコスト」なのだ、と……。

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藤田孝典『貧困クライシス』『貧困世代』ほか



 藤田孝典著『貧困クライシス―― 国民総「最底辺」社会』(毎日新聞出版/972円)、『貧困世代――社会の監獄に閉じ込められた若者たち』 (講談社現代新書/821円)、『続・下流老人 一億総疲弊社会の到来』 (朝日新書/821円)読了。仕事の資料として。

 生活困窮者支援に取り組んできたソーシャルワーカーの著者(NPO法人「ほっとプラス」代表理事)は、貧困問題を広く知らしめるための啓蒙書を次々と刊行してきた。そのうちの一つ『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』は20万部突破のベストセラーとなり、「下流老人」は流行語大賞にもノミネートされた。

 今回読んだ3冊のうち、『続・下流老人』はタイトルのとおり『下流老人』の続編。今後の過酷な社会で老人たちが生き延びていくための「解決策」にウエートが置かれている。



 『貧困世代』は、若者の貧困に的を絞った概説書・提言書。シングルマザーの貧困や子どもの貧困などと比べ、軽視されがちな若者の貧困が、いまどれほど深刻化しているかを浮き彫りにする。
 書名の「貧困世代」とは、おおむね現在の10代~30代を指し、「一生涯貧困に至るリスクを宿命づけられた状況に置かれた若者たち」であるという。

 高度成長期やバブル時代を経験し、当時の恵まれた状況がいまも頭にある上の世代は、いまの若者たちがそれほど追いつめられている現実を理解しにくい、と著者は言う。

 大人たちには、子どもを産みたくても産んで育てるほどのゆとりがない若者たちの姿が見えていない。子育てはぜいたくというのが、貧困世代のホンネである。



 もう一冊の『貧困クライシス』は、老人の貧困、女性の貧困、若者の貧困、中年の貧困……と、各世代の貧困問題を総花的に扱った概説書。「とりあえず全体像をつかみたい」という人は、これから読むとよいかも。

 3冊とも、貧困の現場を肌で知るゆえの「熱さ」、問題を改善していこうとする社会改革への強い意志に満ちており、好感が持てる。
 「貧困問題」本にありがちな、「こんなにカワイソウな人たちがたくさんいるんですよ~。やっぱ政治が悪いですよね~」で終わってしまう感傷的な内容ではないのだ。

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『ブルース・ギター・ウーマン』



 『ブルース・ギター・ウーマン(Blues Guitar Women)』を輸入盤で購入し、ヘビロ中。
 タイトルのとおり、女性ブルース・ギタリストの曲を集めたコンピレーション・アルバムである。

 女性ブルース・ギタリスト(&シンガー)の草分けであるメンフィス・ミニーの曲が、いちばん最後に収められている。
 メンフィス・ミニーの活躍した時代(おもに戦前)には、ギターを弾きながら歌う女性ブルース・シンガーは非常に珍しい存在だったはず。
 それが近年になって急増し、いまや百花繚乱の趣がある。2005年に発売された本作は、「ブルース・ギター・ウーマンの時代」を一望できる好コンピである。

■関連エントリ→ デボラ・コールマン『I Can't Lose』ほか

 CD2枚組に、全24アーティストの29曲が収められている。ディスク1がエレクトリック・ギター中心のコンテンポラリー・ブルース編、ディスク2がアコースティック・ギターのトラディショナル編に分けられているあたりも、気が利いている。

 収録アーティストのうち、私が知っていたのは、スー・フォーリー、アナ・ポポヴィッチ、デボラ・コールマン、キャロリン・ワンダーランド、マリア・マルダー&ボニー・レイット(共演曲)、それにメンフィス・ミニーのみ。
 まあ、私のお気に入りのデボラ・コールマンも日本盤は1枚も出ていないし、地味なジャンルだから、日本にはあまり情報も入ってきにくいのだ。

 私は前にこのシリーズの『ブルース・ハープ・ウーマン』(女性ブルース・ハーピストのコンピ)を買って愛聴していたのだが、出た順番は逆で、『ブルース・ギター・ウーマン』が米国でヒットしたため、第2弾として『ブルース・ハープ・ウーマン』が出たのだという。

 「女性だからうんぬん」とか、「女ならではのブルース・ギター」などという決めつけた言い方は、当のブルース・ギター・ウーマンたちが嫌がるところだろう。だが、最初から最後まで通して聴くと、「やっぱり男のブルース・ギターとは違うなァ」という感想を抱く。
 女性ブルース・ギタリストたちのほうが、総じて内省的・ストイックな印象であり、ギターのタッチも繊細なのだ。

 ところで、このコンピの日本盤はジャケにブルース・ギター・ウーマンたちの顔写真をちりばめているが(↓)、オリジナルのイラストのみのジャケのほうがずっとカッコイイと思う。



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『怒り』『団地』



 レンタルDVDで『怒り』と『団地』を観た。



 吉田修一の同名小説を映画化した『怒り』は、絶賛している人も多かったので期待して観たのだが、私にはさっぱり面白くなかった。何より、ものすごく後味の悪い、不快きわまる映画だと思った。

 もう少し深みのある人間洞察があるのかと思ったが、どのキャラも薄っぺらい。

 犯人像も、宮崎あおいが演ずる元風俗嬢も、通俗的な紋切り型そのもの。
 「サイコパスの殺人犯って、こんなもんでしょ」「アタマの悪い風俗嬢って、こんなもんでしょ」と、一般的イメージをただなぞっているだけという印象で、キャラに血が通っていない(ただし、宮崎あおいの演技それ自体はよい。体当たりで汚れ役に挑んで、なかなかのもの)。

 終盤のとってつけたような「いい話」調の展開も興醒め。
 とくに、「主要登場人物の1人がじつは心臓に難病を抱えていて……」と最終盤で唐突に明かされる点がひどい。いきなりそっち方面に話を持っていかれても、心の準備ができてないから感動できないのだ。
 もっとも、終盤の展開は原作とは少し違うらしいが(私は原作未読)。

 けなしついでにもう一つ言うと、坂本龍一による音楽も情緒過多で陳腐だと思った。「手クセで書いた曲」ばかりというか、あたかも“2流の作曲家が坂本の作風を真似て作った音楽”みたいなのである。
 かつて『戦場のメリークリスマス』の音楽で見せた独創的な輝きは、まるで感じられなかった。

 「口直しに」と思ってもう一本観てみた阪本順治の『団地』が、これまた輪をかけてクダラナイ映画だった。

 

 「SFコメディ」という触れ込みだが、笑いを狙った箇所の九割方は笑えなかった。主演の藤山直美の演技はいいのだけれど。



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中川淳一郎『ネットは基本、クソメディア』



 中川淳一郎著『ネットは基本、クソメディア』(角川新書/907円)読了。

 この人の本は、専門分野であるネットについて書いている分には面白いが、『バカざんまい』のように社会万般に間口を広げて書くと、たちまち底の浅さが露呈してしまう……という印象を私は持っている。

 本書はタイトルどおり、彼がたくさん出してきた“ネットのおバカ事件観察本”の最新刊。
 ただし、『ウェブはバカと暇人のもの』や『ネットのバカ』がお笑いに傾いていたのに比べ、本書はわりとマジメなメディア論としての色合いが濃い(タイトルの下品さとは裏腹に)。

■関連エントリ
中川淳一郎『ネットのバカ』
中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの』

 DeNAが運営していた医療系キュレーションメデイア「WELQ(ウェルク)」の炎上→サイト休止事件についての考察が、大きなウェートを占めている。事件の顛末をまとめた本としての資料的価値もある。

 WELQに代表される劣悪なキュレーションメディアの氾濫を、「『やりがい搾取』の面も多分に備えた問題」だと、著者は指摘する。

 ライターになりたい人はとにかく「場」を求める。それが傍から見るとクソのようなメディアであろうとも、とにかく「場」がもらえたことで大喜びし、いっぱしのライターになったかのような気持ちになれる。



 ライターの卵たちの「やりがい」につけ入って搾取し、信じられないような安いギャラで「コタツ記事」を量産させていたことが問題なのだ、と……。

 いくら手抜きをした記事であろうが、従来の「1PVは1PV」というネット上の格言によれば等価である。長きにわたる取材を行い、渾身のスクープを取った記事と、コタツで鼻くそほじりながらネット検索だけを駆使して書いた記事が等価に近い形で扱われている現状がある。



 著者はそうした現状を嘆いたうえで、「WELQ」事件が一種のショック療法となって、ネットメディアが改善されつつあるという希望の側面にも言及している。

 とくに、「ネットメディアのギャラが上がってきている」(「WELQ」事件だけが原因ではないが)という話は、私にとっても喜ばしい。
 
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山本鈴美香『エースをねらえ!』



 仕事上の必要があって、山本鈴美香の『エースをねらえ!』を全巻まとめて再読。
 中央公論社の分厚い「愛蔵版」全4巻で読んだのだが、元のコミックスだと全18巻に及ぶ雄編である。

 言わずと知れた、少女マンガにおけるスポ根ものの最高峰であり、マンガ史に残る名作。
 ちなみに、いまのマンガで『エースをねらえ!』のスピリットを正統的に受け継いでいるのは、日本橋ヨヲコの傑作『少女ファイト』(これはバレーボール・マンガだが)だと思う。



 『エースをねらえ!』は1970年代のマンガ(ただし、連載は80年まで続いた)だから、いま読むとマンガ技術的には古臭いし、絵柄も典型的な「昔の少女マンガ」なので、鼻白んでしまう部分もある。
 しかし、そのような細かい瑕疵が気にならないほど、ヒロイン・岡ひろみと宗方仁コーチの「師弟の絆」が感動的な物語である。

 『エースをねらえ!』について、「私は『師弟関係とは何か』について、武道の修行のあり方について、このマンガからすべてを学んだ」とまで言い切ったのは内田樹さんであった(『街場のマンガ論』所収「『エースをねらえ!』に学ぶ」)。
 たしかに、この名作は「マンガの形を借りた師弟論」として読んでも素晴らしい。
 
 そしてまた、『エースをねらえ!』は胸を打つ名言の宝庫でもある。
 以下、全編再読しながら付箋を貼った名言を列挙してみる(句読点は引用者補足)。

 たとえどんな思いをしようと、それはすべてテニスをするための苦しみじゃないの。同情なんかするもんですか。テニスができない苦しみだってあるのに!! (緑川蘭子が岡ひろみに)



 はじめはね、だれでもおそろしくヘタだよ。どんな名人だって生まれながらにテニスができたわけじゃないからね。うまくなるだけの努力をするかしないか、それだけだよ。(藤堂貴之がひろみに)



 なんなのさっきのプレイは! 負けることをこわがるのはおよしなさい! たとえ負けてもあたくしはあなたに責任をおしつけたりはしない。それより力をだしきらないプレイをすることこそをおそれなさい!! (お蝶夫人が、ダブルスを組んだひろみにコートで)



 いいか、勝敗を分けるのはいつでもたった1球だ。だがプレイしているときは、どれがその1球かわからない。だから、さいしょからさいごまでどんな球でもあんいに打つな! (宗方コーチがひろみに)



 やっといったな。おまえのほうからそういってくるのを、おれはもう7ヵ月まった(宗方コーチが、ひろみの「お蘭にお蘭のテニスを教えたように、わたしにもわたしのテニスをおしえてください」という覚悟の一言を受けて)



 おなじあいてに打ちこむ者としていう。男なら、女の成長を妨げるような愛し方はするな! (宗方コーチが、藤堂のひろみに対する想いに気付いて)



 基礎トレーニングはつらいし地味だ。だがな、土台のないところに家が建たないように、体力のない身でスポーツはできない。まして自分のプレイなど見つけられるはずもない。
 絵をこころざす者がいく枚もいく枚もデッサンし、本物の線一本をさがすために万の線をひくように、おまえもコートでの1打のために万のトレーニングをつまねばならないぞ。
 そんな地味でつらいことをやりぬけるほど、テニスを好きになれたおまえはしあわせだ。犠牲を犠牲と思わないその情熱があるかぎり、おまえはあらゆる欠点をテニスでなおすことができる。そしていつか、欠点のないテニスができるようになる。(宗方コーチがひろみに)



 ここまでだと思ったとき、もう1歩ねばれ! それで勝てないような訓練はしてない。(宗方コーチがひろみに)



 意識していようといまいと、おまえはその手で無数の選手を打ちたおし、全員を踏み台にしてここまでのぼってきた。その選手たちひとりひとりの、ふまれるいたみを思ったことがあるか。
 勝者はつねに敗者につぐなわねばならない。10人に勝ったらじぶんとあわせて11人ぶん努力するのが義務だ。100人に勝ったら101人ぶん、無数に勝ったら無数に……。それをおこたったとき、栄光の座からふりおとされる。(宗方コーチがひろみに)



 お嬢さんは、仁を失っていままさに慟哭の時期にあります。が、わたしは思います。大した苦しみもないかわりに大した喜びもなく、大した努力もしないかわりに大した成果もえられず、ぬるま湯につかったように生きて死んでゆく人間が多い中で、慟哭を味わえる人間は幸福なのだと!
 だからその慟哭と真正面から対決しなければ真の人生は生きられないのだと! (宗方コーチの死後、ひろみの新たなコーチ役を宗方から託された親友・桂大悟が、ひろみの父に語りかける言葉)



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石田淳『一〇〇歳時代の人生マネジメント』ほか



 石田淳著『一〇〇歳時代の人生マネジメント――長生きのリスクに備える』(祥伝社新書/842円)、小島貴子著『女50歳からの100歳人生の生き方』(さくら舎/1512円)を読了。仕事の資料として。

 リンダ・グラットンほかの『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)――100年時代の人生戦略』が日本でも18万部突破のベストセラーになったこともあり、「人生100年時代の生き方」をテーマとした書籍が続々と刊行されている。この2冊もその一部である。

 『女50歳からの100歳人生の生き方』は、書名のとおり、女性読者に対象を絞ったもの。著者は東洋大学准教授で、ライフカウンセラー。
 一方の『一〇〇歳時代の人生マネジメント』は、男性のみが対象というわけではないが、どちらかといえば男性向け。取り上げられたエピソード等も男性のものが多い。著者は、「行動科学マネジメント研究所」の所長。

 内容もまったく対照的だ。
 『女50歳から~』が終始ポジティブで「女性のみなさん、100年人生を楽しみましょうね!」という感じなのに対し、『一○○歳時代の人生マネジメント』は、「人生100年時代」の暗い側面、リスク面にもっぱら目を向けている。

 いまや100歳人生が現実に! どう楽しく生きるか! 50歳で生き方をリセット、自分が主役の人生を!(『女50歳からの100歳人生の生き方』の帯の惹句)



 あなたは、自分が長生きするという喜ばしい理由によって、想像を絶する苦しみを味わうことになるかもしれない。すなわち、命は長らえているのに、そこにお金も健康も心のやすらぎもないという、あまりにもつらい日々が待っているのである。(『一〇〇歳時代の人生マネジメント』の帯に引用された「はじめに」の一節)



 同じテーマを扱いながら、これほど対照的な内容になるのも面白い。
 「妻に先立たれた中高年男性は総じて意気消沈し、平均余命5年程度であるのに対し、夫に先立たれた中高年女性はむしろ元気になる」という話を思い出してしまった(笑)。
 2冊併読すると、バランス的にちょうどよいかも。

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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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