『メアリーの総て』



 『メアリーの総て』をDVDで観た。



 ゴシック・ホラー小説の原点にして、SF小説の原点とも評される『フランケンシュタイン』。この名作を生み出したメアリー・シェリーの物語。

 『フランケンシュタイン』の誕生を描いた映画には、過去にケン・ラッセルの『ゴシック』などがあるが、本作は監督も女性(サウジアラビア初の女性映画監督ハイファ・アル=マンスール)であり、フェミニズム的観点から描かれた女性映画になっているのが特徴。

 フェミニズムの先駆者メアリー・ウルストンクラフトを母に、アナキズムの先駆者ウィリアム・ゴドウィンを父に持つメアリーは、物書きとしての才能に恵まれたサラブレッドとも言える。

 だが、生後すぐに生母を喪い、継母との折合いが悪かった彼女の少女時代は孤独であった。
 メアリーはロマン派の若手詩人シェリーと恋に落ちるのだが、シェリーには妻と幼い娘がいた。シェリーとの日々も、彼女を孤独から救いはしなかったのだ。

 きわめて独創的な傑作『フランケンシュタイン』を書き上げて才能を開花させたとき、メアリーはまだ18歳の若さ。いまなら、美貌と才能を兼備した若き女流作家として、時代の寵児になるだろう。

 だが、19世紀のイギリスでは、「若い女が書いた怪物の物語など、誰も読まない」と、多くの出版社が刊行を拒否。その果てに、作者を匿名とし、人気詩人である夫シェリーの序文をつけることを条件に、初版わずか500部で『フランケンシュタイン』は刊行される。

 メアリーは、18歳で迎えたデビューの日までに、一般の女性3人分くらいの波乱万丈な人生を経験していた。その波乱の数々が描かれた本作は、静謐な雰囲気ながらもドラマティックだ。

 一人の作家、一つの名作の誕生プロセスを描いた物語。
 そしてメアリーは、作家としての誕生と同時に、女性としての精神的自立をも果たす。それまでに味わった深い孤独をエネルギーに昇華して……。

 メアリー役のエル・ファニング(ダコタ・ファニングの妹)が、儚いなかにも凛とした美しさを表現して、出色の熱演。

 シェリーや詩人バイロンなど、彼女の周囲の男たちは遊び呆けてばかりいて、身勝手でろくでもない。
 まあ、当時の英国の詩人たちはおおむねこのような存在だったのかもしれないが。

『ボヘミアン・ラプソディ』



 立川シネマシティの「極上音響上映」で、『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。



 「極上音響上映」とは、ミキシング・コンソール(音響調整卓)が組み込まれた映画館であるシネマシティで、プロの音響家がその映画に最適な音響に調整を施して上映するもの。
 やっぱり、こういう音楽映画は音響のよい映画館で観たい。

 評判どおり、素晴らしい映画であった(以下、ネタバレ注意)。
 優れた音楽映画/バンド・ストーリーであり、フレディ・マーキュリーという不世出のロック・スターの軌跡を描いた伝記映画としても一級品だ。

 映画のサントラを流しながらこの文章を書いているのだが、サントラとしてもじつによくできている。

 20世紀フォックス映画のオープニングでおなじみのあのファンファーレも、クイーンが演奏するバージョンになっている。ブライアン・メイの特徴的なギターで、すぐにそれとわかるのだ。 
 アルバム『オペラ座の夜』のラストに置かれた、英国国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」のクイーン・バージョンを思い出す。隅々まで作り込まれていることを象徴するオープニングだ。

 私自身にとってのリアルタイムなクイーンは、1978年のアルバム『ジャズ』までである。それ以降、急速に興味を失った。が、そんな私にとっても十分感動的な映画であった。

 「映画『ボヘミアン・ラプソディ』のストーリーは、ここが事実と異なる」と、無粋にも検証した『ローリング・ストーン』の記事があった。
 だが、ドキュメンタリー映画ではないのだから、事実を脚色するのは当然ではないか。

 小さな脚色は、随所にある。
 一例を挙げれば、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が誕生したのが80年代の話になっているが、同曲は77年のアルバム『世界に捧ぐ』の収録曲なのだから、時系列が事実と異なっている。
 だが、その程度の脚色・潤色は、どうということはない。映画として感動できればそれでよいのだ。

 1985年に開催された〝20世紀最大のチャリティーコンサート〟「ライヴ・エイド」でのクイーンの出番を、そっくりそのまま映画のクライマックスに据えている。

 そこで演奏する数曲の歌詞が、フレディの人生にオーバーラップするという、構成の妙。
 たとえば、「ボヘミアン・ラプソディ」の「死にたくない」が、自身のエイズ罹患をすでに知っていた(ここにも脚色があるのだが、それはさておき)フレディの心境と重なる、という具合。この「ライヴ・エイド」のシークェンスは、泣ける。

 クイーンの4人を演ずる俳優は、それぞれ再現度が高い。
 とくに、ロジャー・テイラー役の俳優は、若い頃のやせて美しかった彼に瓜二つだ。
 フレディ役のラミ・マレックは、顔立ちはあまり似ていないものの、ステージでのアクションや表情は完コピという感じ。

 全編を通じて、フレディ・マーキュリーの深い孤独が心に刺さる映画だ。常に衆目を浴び、多くの人に愛されるスターでありながら、彼はどこにいても孤独なのだ。
 「私はステージで2万5千人とメイク・ラヴして、一人さびしく家に帰るのよ」という、ジャニス・ジョプリンの有名な言葉を思い出した。

 映画の最後に字幕で説明される、「フレディの最後の恋人ジム・ハットンは、彼がエイズで亡くなるまでの日々を共に過ごした……若き日の恋人メアリー・オースティンは、最後までフレディのよき友人だった」という事実に、救われる思いがする。

 2人の存在が、そして何よりもクイーンというバンドそのものが、フレディの孤独な生涯に射し込む一条の光だったのだ。

 

『ダンケルク』



 『ダンケルク』を映像配信で観た。



 クリストファー・ノーラン初の戦争映画で、第2次大戦・西部戦線の戦闘の一つ――「ダンケルクの戦い」における兵士救出作戦を描いている。

 戦闘描写のリアリティは、『プライベート・ライアン』に匹敵する。
 戦争映画の戦闘シーンというものは、悲惨な戦いを描いてもある種のカタルシスを感じさせるものだが、本作のそれはカタルシス絶無。
 むしろ、水に飲まれたときの息苦しさ、砲弾が落ちてくるときの恐怖など、戦場の苦しさと恐怖を観る者にリアルに体感させる。

 そして、わかりやすいヒーローもいなければ、泣かせのヒューマン・ドラマもない。
 おまけに、時間軸の異なる陸・海・空3つのドラマを並行して描くトリッキーな構成ゆえ、かなりわかりにくい。つまり、「わかりやすさ」もない。

 娯楽性・通俗性に背を向けた、ある意味で実験的な戦争映画。

『SHAME−シェイム−』



 『SHAME−シェイム−』をDVDで観た。

 2011年のイギリス映画。監督は、『それでも夜は明ける』などで知られるスティーヴ・マックイーン(もちろん、俳優とは同名異人)。
 キャリー・マリガンがヌードになっていると聞いて、観てみた(笑)。



 一部で評価も高いようだが、私にはさっぱり面白くなかった。
 ニューヨークでバリバリ働くエリート・ビジネスマンの主人公がじつはセックス依存症で、それは少年期の悲惨な経験に起因しているらしい、という話。

 キャリー・マリガンは主人公(マイケル・ファスベンダー)の妹役で、かつて2人が近親相姦関係にあったことがほのめかされる。

 「そういう話」に対する嫌悪感を私はとくに持っていないが、「もっとマシな描き方があるんじゃないか」とは思った。
 たぶん、この手の話(兄妹の近親相姦話)は日本の作家のほうが得意で、たとえば中山可穂とかに書かせたら、同じテーマと同じ骨子を使ってもっと面白くできたと思う。

 何より、この映画におけるキャリー・マリガンは、せっかくヌードまで披露していながら、少しも魅力的ではない(メンヘラ女の役だから、あえて美しく撮らなかったのだろう)。そこが残念。

『T2 トレインスポッティング』



 『T2 トレインスポッティング』をDVDで観た。



 1990年代を代表する青春映画『トレインスポッティング』(1996年)の続編。
 『トレインスポッティング』は封切り当時に一度観たきりで、内容をほとんど覚えていなかったので、まずそちらを再見(アマゾンのプライムビデオに入っている)。

 正編は、仲間たちとヤクの取り引きで手に入れた大金を主人公マーク・レントン(ユアン・マクレガー)が1人で持ち逃げするところで終わった。この続編は、マークが20年ぶりに街に舞い戻るところから始まる。

 正編の主要キャラたちの20年後を同じキャストで描くという、ある意味でとても残酷な続編だ。
 日本の代表的な青春映画――たとえば『祭りの準備』や『サード』の20年後を描く作品が、同じキャストでもし作られていたとしたら? 青春の無残な残骸を見せつけられるような、ひたすら暗く哀しい映画になったに違いない(※)。

※『トレインスポッティング』と同年に作られた青春映画である『キッズ・リターン』を例に挙げようと思ったのだが、『キッズ・リターン』は主人公たちの10年後を描く続編(『キッズ・リターン 再会の時』)が作られていた。私は未見だし、こちらは「同じキャスト」ではないけど。

 が、本作は意外に楽しめた。
 『トレインスポッティング』は、ヘロインに耽溺する無軌道な若者たちのデスペレートな青春を、ポップかつスタイリッシュに描いたところが新鮮だった。悲しい歌詞を楽しいメロディーに乗せたねじれた歌のような味わいがあったのだ。

 同様に、この続編に描かれる主要キャラたちの20年後は悲惨なのだが(ベグビーは刑務所に服役中だし、シック・ボーイは売春と恐喝をなりわいにしているし)、その悲惨な中年ぶりが、ポップかつスタイリッシュに描かれているのだ。


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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。56歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴32年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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