『白バラの祈り/ゾフィー・ショル、最期の日々』

白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々-白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々-
(2006/09/22)
ユリア・イェンチアレクサンダー・ヘルト

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  『白バラの祈り/ゾフィー・ショル、最期の日々』を観た。本日封切りのドイツ映画。
 ヒトラー政権に抗して闘った大学生たちのグループ「白バラ」の紅一点、ゾフィー・ショルを主人公にした作品である。

 公式サイト→ http://www.shirobaranoinori.com/

 「忙しい、忙しい」と言ってるわりには映画ばかり観てやがるなコイツ、と思う向きもあろうが、これも仕事のうちなのである。来週、元「白バラ」メンバーであるフランツ・ミュラー氏(来日中)を取材する予定なので、その準備だ。

 ゾフィーは、兄ハンスとともに反ナチのビラをまいて逮捕され、21歳の若さで死刑となった。逮捕から処刑までの間は、わずか5日。映画はその最後の5日間を丹念に描いている。

 逮捕されたゾフィーがゲシュタポに尋問される場面と、その後「人民法廷」で裁かれる場面が、映画の過半を占めている。だから、映像的な派手さはまったくない。
 しかし、その間のゾフィーと相手(尋問官と裁判長)の言葉のやりとりは、静かな火花が散るような迫力に満ちていて、目を釘付けにされる。それらのやりとりは、1990年代に入って初めて公開された詳細な尋問・裁判記録に拠っている。

 ラスト10分ほどは圧巻である。死刑を宣告されても凛とした姿勢を崩さないゾフィーと兄ハンスの姿に胸打たれる。

 間もなく処刑されるゾフィーのもとに、両親が面会に訪れる。
 父はゾフィーに言う。
 「おまえは正しい。誇りに思うよ」
 そして、「もう家には帰ってこないのね」と涙ぐむ母親に、ゾフィーは静かに言う。「天国で会いましょう」と……。
 
 撮り方しだいでいくらでも観客から涙をしぼれたであろうシーンだが、監督は抑制の効いた演出で淡々と撮っている。そのため、悲しみよりはむしろ厳粛さに満ちた名シーンとなった。

 映画の冒頭は、ゾフィーが友人と2人でビリー・ホリデイのラブソングを楽しそうに歌うシーン。ゾフィーは実際にホリデイのファンであったというが、映画全体の厳粛な雰囲気のなかで、このシーンだけが浮いている。
 しかし、これは絶対に必要な場面であったろう。“これほどの勇気を示して信念に殉じていったゾフィーは、けっして特別な存在ではなく、恋もすればおしゃれも楽しむ普通の若い女性であった”と、このファーストシーンは観客に伝えているのだ。

 よい映画だが、よけいな説明は削ぎ落としてあるので、日本人が観る場合にはある程度予備知識がないと内容を理解しにくいだろう。私は、取材準備のため白バラ関連の書籍を3冊読んでから観たので、よくわかったけれど……。

 ちなみに、私が読んだうちでは、関楠生著『白バラ/反ナチ抵抗運動の学生たち』(清水書院)がコンパクトによくまとまっていた。逆に、ゾフィーの姉インゲ・ショルが書いた定番のロングセラー『白バラは散らず』(未来社)は、じつに未整理でわかりにくい本だった。思わずリライトかけたくなった。
 
 なお、現在ハリウッドでも「白バラ」を題材にした映画が作られているそうだ(ゾフィー役はクリスティーナ・リッチ!)。
 ハリウッド版はもっとドラマティックな感動大作になるのだろうけれど、私は、この『白バラの祈り』のストイックな簡潔さがたいへん気に入った。
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『力道山』

力道山 デラックス・コレクターズ・エディション [DVD]力道山 デラックス・コレクターズ・エディション [DVD]
(2006/08/04)
ソル・ギョング中谷美紀

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 築地・聖路加タワーのソニー・ピクチャーズ試写室で、『力道山』 の試写を観た。
 3月4日公開の韓日合作映画。むろん、昭和史最大の英雄の1人であるプロレスラー・力道山の伝記だ。

 公式サイト→ http://www.sonypictures.jp/movies/rikidozan/site/

 あまり期待していなかったのだが、予想よりもずっと面白かった。「韓国が生んだ英雄」をことさら美化し、日本人の朝鮮人差別ばかりを強調するような映画だったらイヤだなあと危惧していたのだが、そんなことはなかったし。

 差別の描写は、相撲部屋時代を描いた序盤に出てくる程度で、あとはサラリと流されている。また、力道山を必要以上に美化することはなく、彼の人間的な弱さもきちんと描かれている。

 ただ、映画全体がかなり劇画チックで泥臭く、格調高さや洗練された感覚はない。また、事実を忠実に描いた伝記映画を期待すると、肩透かしを食うだろう。

 たとえば、力道山の後見人となった興行師の親分(藤竜也が好演)が彼と訣別する際、親分は日本刀を畳に突き立てたりする。そんなふうに、けれん味たっぷりの劇画的シーンが頻出するのだ。

 「だから質の低い映画だ」と言いたいのではない。劇画チックであることこそが、むしろこの映画の魅力だ。ここにあるのは、一言で言えば“梶原一騎的感性で描かれた力道山像”であり、そこが面白い。
 梶原一騎原作の劇画の多くが、インテリから冷笑されようともすこぶる面白いように、この『力道山』も、2時間半近い長尺をまったく飽きさせない。

 世界的に有名なヒーローは数多く存在します。しかし、生涯を通じて、まるで常に殺し合いをしているかのように荒々しい心を持っていた男は、ただ1人です。



 ――ソン・ヘソン監督がプレスシートにそんな言葉を寄せているように、この映画の中の力道山は、老若男女に愛されたヒーローとしてよりも、むしろ、猛々しい闘争心を燃やしつづけ、それゆえに破滅していく「荒ぶる男」として描かれている。

 観る者の胸を打つのは、力道山が徹底して孤独であることだ。下積みのころのみならず、華やかな喝采を浴びた時期にも、彼はつねに異邦人として周囲から屹立している。
 力道山が心を許せた人間は、たった2人きり。そのうちの1人、同胞の親友は北朝鮮帰国事業に参加して日本を去り、もう1人である内縁の妻・綾(*)もやがて彼のもとを去る。

 それと、特筆すべきは、何度か登場するプロレス・シーンの素晴らしい迫力。船木誠勝、橋本真也(これが遺作となった)などの本物のプロレスラーたちを向こうに回して、力道山役のソル・ギョングが吹き替えなしで堂々たる闘いぶりを見せる。

*力道山は死去の10ヶ月前に結婚しているが、その相手は綾(中谷美紀)とは別人だ。
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消えゆく「お蔭様」の心



 『毎日新聞』(1月21日朝刊)で、聞き捨てならない話に出合った。TBSラジオの永六輔の番組に、リスナーから次のような手紙が寄せられたというのだ。

 ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と。



 この手紙に対して番組には数十通の反響があり、多くは申し入れに否定的だったものの、一方ではこうした考え方は珍しくないことを示す経験談も寄せられたという。たとえば、次のようなものだ。

 食堂で「いただきます」「ごちそうさま」と言ったら、隣のおばさん(客)に「なんでそう言うの?」と言われた。「作った人に感謝しているんですよ」と答えたら「お金を払っているんだから、店がお客に感謝すべきでしょ」と言われた。

 こういう話がラジオや新聞のネタになるのは、いまのところはまだ特異な事例であるからこそだろう。しかし、このような考え方をする日本人が急増しつつあるのだとしたら、ちょっと恐ろしい。

 「給食費を払っているのだから『いただきます』を言う必要はない」と考える母親は、宅配便や郵便を届けてくれた人に「ごくろうさまです」と言うこともないだろう。「(送った人が)代金を払っているのだから」と。

 「お金を払っている以上、感謝の意を示す必要はない」という考え方は、ある意味で合理的であり、「間違い」ではない。だが、そうした考え方をする人が多数派になったとしたら、恐ろしくギスギスした社会が現出するにちがいない。

 そういえば、何かのニュース番組で、「同じ電車賃を払っているんだから、年寄りに席を譲る必要なんかない」と言い放った女子高生を見たこともある。
 2つの事例は同根であろう。悪しき個人主義、行き過ぎた合理主義、肥大した権利意識という、共通の根から生まれた病葉(わくらば)なのだ。

 「お蔭様」という美しい日本語がある。
 これは、もともとは仏教用語であるらしい。仏教が生まれたインドで、強い陽射しの中を歩きつづけた旅人が、大きな樹の陰で一休みしたとき、その樹に感謝する――それが「お蔭様」の原義なのである。

 もとより、樹は陽射しをさえぎるために生えていたわけではない。それでも、旅人が涼しいひとときをすごせたのは、樹がそこにあったからにほかならない。だからこそ、心を持たない一本の樹に対してさえ、感謝の念を抱く。それが仏教的心性なのである。

 仏教の中核を成す概念に、「縁起」がある。いまでは「縁起がよい・悪い」という使い方が一般的となっているが、もともとの意味は「縁(よ)りて起こる」ということ。この世界にあるすべてのものは互いにつながりをもち、相互に依存し合っているという意味である。
 法華経の漢訳者として知られる鳩摩羅什(くまらじゅう)は、「縁起」を「衆縁和合(しゅえんわごう)」と漢訳した。これなら、本来のニュアンスが伝わりやすいだろう。

 誰しも、自分1人の力で生きているわけではなく、世界中の人々や動物や草木などによって「生かされている」。仏教ではそうとらえる。ゆえに、一本の樹に対してさえ感謝の念を抱くのだ。

 「お蔭様」とは、そのような感謝の念をさらに強調した言葉である。緑陰に象徴される“自分への見えない助力”に対して、「お」と「様」までつけていっそうの感謝を示したのは、日本人の独創なのだ。

 我々日本人は、物理的・金銭的な助力を受けていない相手に対しても、「お蔭様」をよく使う。

「ご主人、入院なさったんですってねえ。その後いかがですか?」
「お蔭様で先日退院しまして」

 そんなやりとりをかわすとき、相手は病気快復になんら物理的な貢献をしていない。それでも「お蔭様で」と言う。それは、相手が夫の容態を気遣ってくれたこと、ひいては「病気からの快復を邪魔せずにいてくれたこと」への感謝である。
 なにげなく用いている「お蔭様」という言葉の底には、「縁起」を重んじる仏教的心性があるのだ。

 「給食費を払っているのだから、『いただきます』を言う必要はない」と考える母親は、ふだん「お蔭様」という言葉を使っているだろうか? おそらく使ってはいまい。彼女はきっと、「何もしてもらっていないのだから、感謝する必要はない」と合理的に考えるはずだ。

 「お蔭様」が死語になったとき、日本はいまよりもずっと冷たい社会になるにちがいない。
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高木ブーさんを取材

第5の男の画像


 東京は初雪。下の子だけが喜んでいる。

 昨日は、タレントの高木ブーさんを取材。ブーさんが経営する麻布十番のお店「Boo’s Bar HALONA」(ブーさんも週3回ここでウクレレのライヴを披露している)にて。

 取材準備として、ブーさんの著書『第5の男』(朝日新聞社)と『高木ブーの楽しくウクレレ』(岩波アクティブ新書)を読み、さらにブーさんのソロアルバム『レット・イット・ブー』『ヴィンテージ ~ブーのハワイアン・ソングス~』を聴いていった。

 『第5の男』は、ブーさんの自伝。子どものころに『8時だヨ! 全員集合』を見て育った人間としては、ドリフターズの舞台裏をつづった部分がすこぶる面白い。
 
【引用始まり】 ---
 僕らが楽器を持たなくなっていった理由は、一言で言えばメンバーチェンジによるものである。つまり志村が楽器が苦手だったからということに尽きる。
【引用終わり】 ---

 などという一節に、「なるほど」と思う。そもそも、ドリフターズがバンドであるという認識は、私の世代が子どものころにはもうなかった気がする。ドリフがかつてビートルズと(来日時に)共演したということをあとから知って、ビックリしたものだ。

 『レット・イット・ブー』『ヴィンテージ』は、いずれもブーさんのウクレレとヴォーカルがメインのカヴァー集。
 『レット・イット・ブー』は、タイトルからもわかるとおり、ビートルズの名曲の数々をハワイアンにアレンジしたもの。これが、じつになごむ。

LET IT BOOの画像


 ブーさん本人とはまったく関係ない話なのだが、『第5の男』のアマゾン・カスタマーレビューを読んでいたら、そのうちの1つに次のような一節が……。

「なお本書は古書店で入手した。手紙がはさんであり、これを書いたライターから某有名落語家宛の献呈本であることがわかった。止めてあったゼムクリップを外した形跡さえない。開きもせずに売り払ったのではないか、と思う。ライターの好意が気の毒であった」

 ううむ…。
 ゴーストライターをすることも多い私としては身につまされる。「某有名落語家」って誰や? 
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芝山幹郎『映画一日一本』


 芝山幹郎著『映画一日一本/DVDで楽しむ見逃し映画365』(朝日文庫/780円)読了。

 タイトルどおりのシネマガイド本。文庫オリジナルだ。
 この手の本は山ほどあるが、本書は、芝山氏の映画評をまとめて読めるという一点で、類書とは異なる価値をもつ。氏は、町山智浩氏らと並んで、私が信頼する映画評論家(ただし本業は翻訳家)なのである。

 なにより、芝山氏は私と好きな映画の傾向が似ており、ゆえに私にとっては得がたい“面白い映画センサー”となっている。芝山氏は『週刊文春』の「シネマ・チャート」で選考役の1人を長年つとめているが、氏が高評価をつける作品はたいてい私にも面白いのだ(余談だが、おすぎは「シネマ・チャート」から外してほしい。あの人の評価はときどきすごくトンチンカン)。

 本書は、『日本経済新聞』などいくつかの媒体に芝山氏が寄せた映画コラムをまとめたもの。なので、「映画史に残る名作を上から365本選んだ」という性格の本ではない。むろん、問答無用の名作も取り上げられているが、隠れた傑作や毛色の変わった楽しい小品のほうがむしろ多い。まさに「見逃し映画」ガイドなのだ。

 1作品につき1ページの映評(600字程度か)が、365本。ごく短い文章のなかにピリッとスパイスをきかせ、ときには映画ファンを唸らす卓見をちりばめて、作品の魅力を鮮やかな一閃で切り取っている。「コラム芸」が愉しめる一冊。

 重箱の隅つつきを1つ。『下妻物語』について、「原作漫画を描いた嶽本野ばら」とあるが(110ページ)、周知のとおり、この作品の原作はマンガではなく小説である。1948年生まれの芝山氏が嶽本野ばらを知らないのはまあ無理もなく、これは担当編集者が気づいて指摘してあげるべきミスだと思う。
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芥川/直木賞「受賞の言葉」コレクション

 最近ひいきの作家の1人、絲山秋子がついに芥川賞受賞。めでたい。
 絲山は、受賞に際して「のどの小骨が取れたよう」と語ったのだそうだ。4回目のノミネート(直木賞も1回候補になった)でようやく受賞し、うれしさよりも安堵が先立つ気持ちが伝わってくる。巧まざる名言といえよう。

 この受賞を寿いで、前にメインサイトで書いた「芥川/直木賞『受賞の言葉』コレクション」を、以下にコピペしておこう。
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 長じてから小説家になるような人は、たいてい、10代前半のころから小説家を目指しているものだ。そして彼らは、そのころから「私の小説が映画化されたら、主演女優は誰がいいか?」とか、「芥川賞を取ったら受賞の言葉はこんなふうにしよう」などと、やくたいもないことを夢想しては、貴重な青春の日々を浪費していたりする。そんなわけで、女流作家の「受賞の言葉」には名言が多い。

 たとえば、山田詠美が87年に直木賞を受賞した際の、こんな言葉――。

「これからも、自堕落な私生活とストイックな執筆生活を両立させていきたい」

 山田詠美といえばスキャンダラスな話題の多い作家だが(昔SMモデルをやっていたとか、当時のヌード写真を「撮り下ろし」と偽って掲載した雑誌の編集部に殴り込んだとか……)、スキャンダルをむしろ“養分”として成長を続けるしたたかさを持った作家でもある。
 直木賞授賞式のあいさつで述べたこの言葉には、そんな彼女の個性が十全に表現されていて、じつにカッコイイ。芥川/直木賞をめぐる女流作家の受賞の辞の、ベストワンだと思う。

 ついでにワーストワンも紹介しておこう。荻野アンナが91年に芥川賞を受けたとき、受賞を知らせる電話に対して答えたという、この言葉だ。

「あっ、ショウ(賞)」

 彼女はかねてより、「受賞の知らせを受けたときはギャグで答えようと思って」いたのだそうだ。満を持して放ったギャグがこれだというのだからコワイ。電話の向こうで、受賞を知らせた文藝春秋の社員はどう反応したのだろう? 御祝儀がわりに笑ってあげたのか? それとも椅子からずり落ちたのか?

 この「あ、ショウ」発言をめぐっては、荻野とコラムニストの中野翠との間でちょっとした“論争”も起きた。

 荻野同様、笑いについても一家言ある中野は、雑誌の連載コラムで「あ、ショウ」を「目まいしそうな、純文学界の低レベル『ギャグ』」とおちょくり、「『ギャグ』って言葉をそう簡単に使わないでいただきたい」と荻野に釘をさしてみせた。すると、荻野も別の雑誌の自分の連載コラムで反論、「ギャグ」の定義をめぐる世にも奇妙な“論争”に発展したのだ。

 もっとも、荻野はコラムの中で「東中野黄緑」を名乗るなど、いかにも“座興です”という雰囲気を漂わせての「反論」であったし、対する中野も、コラムの格好のネタとして使っていただけではあろうが……。

 次は、我々の日常生活にも応用できる無難な名言。小川洋子が、4回連続で芥川賞候補にのぼったのち、91年にようやく受賞したときの言葉だ。

「過去4回の選後評は、私にとってかけがえのない道しるべになると思います」

 選考委員の評を「かけがえのない道しるべ」と言うあたり、いささか優等生的ではあるが、じつによい。読者諸氏も、何かの賞をもらった際には、ぜひこの言い回しを使ってみていただきたい。

 次に、80年代に直木賞を受賞した3人の女性の、味わい深い受賞の言葉を並べてみよう。いずれも正統派の名スピーチという印象である。

「50歳を過ぎて新しい分野のスタートラインに立ててうれしいし、スリルもあります。健康に不安もありますが、耳元でピストルが鳴った以上走らざるを得ない。今日からは直木賞を夫とも思い、といっても10年間世話になったテレビともうまく折り合って、楽しい作品を書いていきたい」向田邦子(80年)

「今日は太陽がいっぱい降り注いでいるような気がします。生まれて初めての経験です。酒場をやっているときに見た人間のギリギリの姿や、作詞をやって身につけた省略法など、いろいろなものがプラスして今回の受賞になったと思います」山口洋子(85年)

「直木賞の受賞者が入っている『文芸手帳』を見て、最後の空白の部分に林真理子と書くといかにもそぐわなくて笑ってしまう感じでした。私は直木賞について、一生そんなチグハグさを抱くことでしょうが、とまどいながらも、いつまでも新人の気持ちで精進していきたい」林真理子(86年)

 ――いずれも、言葉の中に歩んできた人生が凝縮されているという印象。そこがよい。

 最後に、芥川賞の受賞の言葉から名言を2つ。授賞式でのスピーチではなく、『文藝春秋』誌上に掲載された「受賞のことば」の抜粋である。

「受賞の夜、このまま眠ると、朝になって夢だったということになるのではないか、という不安で寝つけませんでした。いまもって、ただ思いがけなかったという以外の実感が湧いて来ません」津村節子(65年)

「東大を出てからよほどになるのに、なおその学歴を意識しているような人に有能な人はすくない、卒業以来ほとんど進歩していないからだ、という意味のことを、きくか、読むかした記憶があります。このたび芥川賞をいただいて、私はこの思いがけない栄誉にそのようなすがり方をするような気になってはならないと、考えています。受賞を意識しなくなる日がくるように、私は自分のささやかな文学が自分なりにわずかずつでもよくなるよう精一杯勉強していきたく思います。芥川賞受賞をもっぱら、初心を忘れぬための灯としてゆくつもりでおります」河野多恵子(63年)

  ――2つとも、どんな分野の「受賞の言葉」にも応用可能な、普遍性を感じさせる名句といえそうだ。さすがは言葉のプロたち。 
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J・H・ブルック『科学と宗教』

科学と宗教科学と宗教
(2005/12)
J.H. ブルック

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 J・H・ブルック著、田中靖夫訳『科学と宗教/合理的自然観のパラドクス』(工作舎/3800円)読了。

 著者は英オックスフォード大学教授で、科学と宗教の相互関係の史的分析にかけては世界的権威である。本書は著者の代表作で、「宗教分野のノーベル賞」といわれる「テンプルトン賞」などを受賞している。

 一般に、科学と宗教は相容れないものとして捉えられてきた。とりわけ、西洋社会においてはそうであったろう。
 だが、歴史をつぶさに検証してみれば、科学と宗教を対立的にみる捉え方は皮相にすぎることがわかる。両者の関係は実は互恵的なものであり、そこには多様な相互作用が存在したのだ。

 端的な例を挙げれば、古典力学の礎を築いたニュートンは敬虔なキリスト教徒で、重力の原因を「神の遍在」に求めようとしていた。彼の研究の根底には、宗教的情熱があったのだ。

 本書は、16世紀の「コペルニクス革命」から現代に至るまで、数百年にわたる科学と宗教の歴史を概観し、両者の互恵関係をさまざまなエピソードから浮き彫りにするものである。その作業を通して著者は、 いまなお根強い“科学・宗教対立史観”が誤謬であることを、鮮やかに立証していく。

 16~17世紀の「科学革命期」を扱った章では、“宗教に隷属してきた科学が、この時期に宗教と袂を分かった”とする誤解が正される。科学革命を担った著名な科学者たちの心にも、じつは強い宗教的信念が息づいていたのだという。
 たとえば、「ガリレオ裁判」はローマ・カトリックと科学の対決という図式で捉えられがちだが、ガリレオ自身もカトリック教徒だった。

 ヨーロッパの思想史を「科学と宗教」という切り口で鳥瞰する、壮大な試み。その底流には、“科学と宗教はいずれも人間にとって重要であり、どちらかに偏するのではなく両者の長所を活かすことこそ、人類の未来にとって肝要だ”という著者のメッセージが読み取れる。

 なお、終章でイスラム教と科学の関係に言及していることを除けば、本書はキリスト教と科学の関係に絞った内容である。ほかの宗教と科学の関係については、別個の考察に拠ることが必要となろう。


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『ロード・オブ・ウォー』

ロード・オブ・ウォー ロード・オブ・ウォー
ニコラス・ケイジ (2006/06/09)
日活

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  『ロード・オブ・ウォー』を、公開最終日にやっと観ることができた。最近ひいきの監督、アンドリュー・ニコルの最新作である。 
 
 監督デビュー作『ガタカ』、脚本のみを手がけた『トゥルーマン・ショー』、監督第2作『シモーヌ』と、アンドリュー・ニコルはこれまで一度も私の期待を裏切っていない。そして、監督第3作のこの『ロード・オブ・ウォー』も、期待どおりの快作であった。いつもどおり、面白くて深い映画だった。

 アンドリューは、監督としても脚本家としても一級だと思う。彼の作る映画はつねに、娯楽性と社会性(ないしは批評性)を高いレベルで兼備している。
 世界を股にかける武器商人を主人公にした、この『ロード・オブ・ウォー』もしかり。シリアスで重々しい社会派映画が作れそうな題材を選びながら、ギャグ満載のブラック・コメディになっている。かつてキューブリックが、『博士の異常な愛情』で全面核戦争の恐怖をブラック・コメディ仕立てで描いたように……。

 たとえば、主人公ユーリ(ニコラス・ケイジ)は冷戦終結直後のロシアに赴き、だぶついた武器を買い叩くのだが、その際、道に倒されたレーニン像に無造作に腰かけて電卓を叩く。そんな皮肉な笑いが随所にちりばめられているのだ。
「私は、救世軍以外ならどの軍隊にでも武器を売る。偏見なき『死の商人』だ」などという、思わずニヤリとするシャレの効いたセリフも多い。

 ただし、笑いの底には鋭い文明批評が秘められている。この点も、アンドリュー・ニコルの映画ではいつものことだ。

 ユーリは、「死の商人」であることに微塵も良心の呵責を感じない、「ゴルゴ13」のような男として設定されている。彼の姿だけを描いたなら、100%ブラック・コメディになったであろう。
 だが、アンドリューはそうしない。ユーリとは違って明確な倫理観をもって「武器商人は悪だ」と考える3人の人間を対比的に描くことで、両者のぶつかりあいの中に文明批評を盛り込むのだ。
 
 3人とは、ユーリの弟(兄の仕事のパートナーとなったことで良心の呵責に苦しみ、コカインに溺れて破滅していく)、妻(結婚後にユーリの真の仕事を知り、そのことで悩み苦しむ)、そしてユーリを追うインターポールの捜査官である。

 イーサン・ホーク演ずる捜査官に、ユーリが言うセリフが印象的だ。
「世界最大の武器商人は、君たちのボス、合衆国大統領だ」

 アンドリュー・ニコルはニュージーランド出身である。そのためか、ハリウッドで映画を作りながらも、彼の作品はいつも米国への批評を孕んでいる。アメリカ社会を一歩退いた位置から冷ややかな眼で観察している趣があるのだ。

 この映画は、前2作と比べてエンタテインメントとしての切れ味が上がっている。それでいて、優れたノンフィクションのように、世界の一断面をまざまざと見せつけられる重苦しい感動もある。
 じっさい、この映画に出てくる武器商人の世界のエピソードは、その多くが取材で得た事実に基づいているという。


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大平光代さんを取材

あなたはひとりじゃない―悩める母たちへ子供たちへあなたはひとりじゃない―悩める母たちへ子供たちへ
(2001/05)
大平 光代

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 昨日は、日帰りで大阪へ。ミリオンセラー『だから、あなたも生きぬいて』の大平光代さんを取材した。

 大阪市助役辞任後のあれこれでいままさに「時の人」となっているが、私の取材はそっちとはまったく関係ないテーマである。

 取材準備として、『だから、あなたも生きぬいて』を再読したほか、大平さんのほかの著作『あなたはひとりじゃない』(光文社)、『応援します、あなたの旅立ち/大平流「独学」のすすめ』(講談社)を読んでいった。前者は『女性自身』に連載された人生相談をまとめたもので、後者は大平さん独自の勉強法をくわしく紹介した本。

 大平さんは、中学時代に激しいいじめに遭い、割腹自殺未遂のすえにグレて「極道の妻」に。その後立ち直り、一念発起して宅建、司法書士試験、司法試験に次々と合格。現在は弁護士をなさっている方である。

 落ちこぼれ高校生が東大を目指す『ドラゴン桜』はフィクションだが、中卒で司法試験に一発合格した大平さんのライフストーリーはまぎれもない実話である。
 『だから、あなたも生きぬいて』が累計236万部の超ベストセラーとなったのは、彼女が見事に立ち直ったその経緯が、人々に勇気と希望を与えたからだろう。「人はどこからでも生き直せる、立ち直れる」という熱いメッセージに満ちた本であった。

 いじめや不登校、家庭内暴力などさまざまな問題に悩む母親や少年少女の相談に答えた『あなたはひとりじゃない』も、感動的な本である。大平さん自身がいじめ被害も非行も家庭内暴力も体験してきた方だからこそ、そのアドバイスには重い説得力がある。たとえば、こんな一節がある。
 

 孤独な時というのは、この世の中で自分がひとりぼっちというだけでなく、“これから先もずっとひとりぼっち”だと思って、それに耐えられなくなるのですが、そうじゃないことを、わかってもらえたらと思います。



 これは、「“これから先もずっとひとりぼっち”だと思って、それに耐えられなくなる」日々を乗り越えた人にしか言えないことだろう。
 
 実際にお会いしてみると、大平さんは小柄できゃしゃで、とてもかわいらしい印象の女性であった。大阪の街を歩くと、見知らぬおばちゃんからも「みっちゃん、がんばってや」と声をかけられるのだとか(大阪やなあ)。





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『ミュンヘン』

映画「ミュンヘン」オリジナル・サウンドトラックの画像


 昨日は、「さわやか福祉財団」理事長の堀田力さんを取材。

 堀田さんを取材するのはこれで3度目である。お会いするたび、また著作を読むたび、「立派な方だなあ」と思う。
 堀田さんは、91年に法務省官房長の地位をなげうって早期退職され、「日本にボランティアを広めるためのボランティア」を始められた。定年までつとめられたほうが、また退職後に「ヤメ検弁護士」となったほうが経済的にははるかに恵まれていたはずなのに、あえてゼロから新しい分野を切り開いていく困難な道を選ばれたのである。「世のため人のため」に……。

 高潔な人格。しかも、特捜検事時代にロッキード事件の捜査を陣頭指揮した方とは思えない、なんともいえない温和さをもっておられる。堀田さんのような方が上司なら、会社勤めも悪くないと思える。「理想の上司像」そのものである。


 今日は、銀座の松竹試写室でスピルバーグの新作 『ミュンヘン』 を観た。
 信頼してやまない映画評論家・町山智浩氏が2005年のベストワンに挙げて絶賛していたので、絶対に観たいと思っていた作品。

 公式サイト→ http://munich.jp/

 1972年の「ミュンヘン事件」(ミュンヘン五輪で、イスラエル選手団の11人がパレスチナ・ゲリラに殺された)に際し、イスラエル側が報復のためパレスチナ側の指導者11人の暗殺を計画した実話の映画化である。

 諜報機関モサドの5人が実行メンバーに選ばれ、ヨーロッパの非共産圏に住むパレスチナの要人が標的として選ばれる。

 モサドの精鋭対パレスチナ・ゲリラの死闘――と一言でまとめれば、けれん味たっぷりのアクション映画になりそうな題材である。じっさい、同傾向の映画『ブラック・サンデー』(トマス・ハリスの小説の映画化)は、手に汗握る娯楽アクションであったし。

 だが、この映画は少しも娯楽的ではない。リアルな銃撃シーンや爆破シーンは山ほど出てくるが、それらはまったく観客にカタルシスを与えない。

 また、暗殺チームに選ばれる5人も、『ゴルゴ13』的な「殺しのプロ」ではない。みな、子どもを愛し、隣人を愛するふつうの人間なのである。
 チームのリーダーとなる主人公アヴナーら5人は、標的を1人殺すごとに迷いを深めていく。冷酷非情なキリング・マシーンとしてではなく、一個の人間としての彼らの苦悩をこそ、スピルバーグは丹念に描いていくのだ。

 アヴナーは、暗殺を命じたイラスエルの上官とこんなやりとりをかわす。

【引用始まり】 ---
「11人全員を殺せばすべては終わるのですか?」
「そうだ」
「終わりはしません。彼らの後任が同じ立場にすわるだけです」
「ならば、終わるまで殺しつづければいいさ」
【引用終わり】 ---

 「報復は何も生まず、ただ憎悪を増幅させるだけだ」という重いメッセージが、この映画の通奏低音である。いうまでもなく、2001年の同時多発テロから始まった「報復と憎悪の連鎖」が、スピルバーグの念頭にはあるのだろう。
 
 荒涼たるラストシーンは、手塚治虫晩年の傑作『アドルフに告ぐ』のラスト(幼なじみの2人がイスラエル軍とパレスチナ解放戦線に分かれて殺し合い、あとには何も残らない)を彷彿とさせる。
 これは、スピルバーグ作品のうち、最も後味の悪い1本かもしれない。あまりにもヘビー。だが、まぎれもない傑作だ。

 なお、ユダヤ系のスピルバーグがイスラエル側を主人公にして描いたことで、その「偏向」を批判する声があるようだ。しかし、私はこの映画に偏向は感じなかった。
 スピルバーグは、「イスラエル側に正義がある」などという描き方をけっしてしていない。また、標的となるパレスチナの要人たちも、娘を愛し、アヴナーに(彼が暗殺者とも知らず)人なつっこく話しかけてくるふつうの人間として描かれている。 
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千野信浩『図書館を使い倒す!』



 千野信浩著『図書館を使い倒す!/ネットではできない資料探しの「技」と「コツ」』(新潮新書/680円)読了。

 経済誌『週刊ダイヤモンド』の現役記者が、仕事での豊富な体験をふまえて書いた実践的図書館利用ガイド。実用書としてコンパクトによくまとまっている良書だ。

 以前、類書の井上真琴著『図書館に訊け!』(ちくま新書)を読んだ際、私は次のような感想を書いた。 
 

 難を言えば、記述のウエイトがアカデミックな分野の情報検索に偏りすぎている。
 あたりまえの話だが、図書館での調べものは、何も学術論文を書くためにだけなされるわけではない。もっと下世話な調べもの、たとえば我々ライターが雑誌記事を書く場合の調べものには、また別の作法とコツがある。そのへんが、本書にはスッポリ抜け落ちていると感じた。



 この『図書館を使い倒す!』は、『図書館に訊け!』に私が感じたそんな不満をすべて払拭してくれる内容だ。雑誌記者が書いているだけに、我々ライターにも使える資料探しのテクが満載なのである。表向きは“ビジネスマンのための図書館利用ガイド”という体裁をとっているが、実質的には「ライター/記者のための図書館利用ガイド」といえる。

 なお、書名の「~倒す」は、動作を強調する関西弁的表現である。
 たとえば、関西弁ではさわることを「いらう」と言うが、「いらい倒す」と言うと「思いっきりさわりまくる」というニュアンスになる。

 本書には書名のとおり、図書館を皿までなめるように利用しつくすノウハウが明かされている。ライター、編集者、およびその卵のみなさんにオススメ。
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『カナリア』

カナリア カナリア
石田法嗣 (2005/10/28)
バンダイビジュアル

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 『カナリア』をDVDで観た。
 『害虫』『黄泉がえり』『月光の囁き』の塩田明彦監督が、オウム真理教事件をモチーフに作った映画。作中のカルト教団はオウムならぬ「ニルヴァーナ」だが、名前が変わっているだけで、細部に至るまでオウムそっくりだ。
 
 地下鉄サリン事件によって日本中がオウム一色に染まった1995年に、レディースコミックの売り上げが激減したと聞いたことがある。連日ワイドショーを騒がせたオウム事件のほうが、レディコミよりもはるかにどぎつくて「面白かった」のである。

 つい10年前にはそれほど日本中がオウム漬けになっていたのだから、いまさらオウム事件を真正面から映画化したところで、昔のワイドショーをダイジェストするみたいなもので、面白くないのは目に見えている。いまあえてオウムを描くには、なんらかの斬新な切り口が不可欠なのである。

 塩田明彦(脚本も)がこの映画で示した切り口は、「オウム事件を、信者の少年の視点から、しかもロードムービー仕立てで描く」というものだった。なかなか卓抜な着想である。

 主人公は、「ニルヴァーナ」の出家信者の少年・光一。母親に連れられて出家させられた彼には、ともに出家した幼い妹がいた。
 教団がテロ事件を起こしたのを契機に、子どもたちは児童相談所に保護され、妹は祖父に引き取られる。が、祖父は反抗的な光一の引き取りを拒否し、兄妹は引き裂かれる。

 そして光一は、妹を祖父から取り戻すために児童相談所を脱走するのだった。彼は途中で、同い年(12歳)の孤独な少女・由希と出会う。
 ロリコン男相手に援交をくり返す由希には、同じく援交の果てに高速を走る車から落ちて亡くなった、あの哀しい少女の姿が投影されている。彼女も、たしか12歳だった。
 由希は、車内で突然豹変した援交相手の暴力から逃れようとしていたとき、そこを通りかかった光一に助けられ、彼の旅の道連れとなる。その旅を描いた、風変わりで哀切な「ロードムービー」なのである。それでいて、オウム事件に対する監督の批評も十分に織り込まれている。

 塩田監督の作品はほかに『害虫』しか観たことがないが、「ヒリヒリと痛い映画を撮る人だなあ」という印象を受けた。この『カナリア』も、十二分にヒリヒリと痛い。

 これは“もう1つの『害虫』”であり、また、“塩田監督にとっての『誰も知らない』”でもあろう。主人公・光一は、『害虫』の宮崎あおいや、『誰も知らない』の柳楽優弥と二重写しになる。

 光一役の石田法嗣と由希役の谷村美月が、素晴らしい演技をみせる。2人とも「目ヂカラ系」の凛とした美少年・美少女だが、まだ芸能界ズレしていないピュアな感じをみなぎらせている(石田クンはどこかで見たことがあると思ったら、佳編『バーバー吉野』で「カッコイイ転校生」を演じた子だった)。

 教団幹部となり、テロ事件にかかわっていく光一の母を演じた甲田益也子も、強烈な印象を残す。
 あの「ディップ・イン・ザ・プール」の甲田である。この役は、彼女以外には考えられないハマリ役だ。善意に満ち、母としての愛情も十分に持ちながら、カルト教団に入ったがゆえに破滅していく“狂信の聖母”――そんな複雑な難役を、見事に演じ切っている。オウム幹部の女性と同じ「目」になっているところがすごい。

 『害虫』は傑作ではあったが、あまりにも救いのない荒涼たる物語だった。対して、この『カナリア』にはあたたかさと救いがあり、明るい希望の余韻も残して終わる。その分だけ、私は『カナリア』のほうが好きだ。小さな瑕疵はあっても、それを補って余りある美点をもつ映画である。

 カナリアは、一度も映画の中に出てこない。だからこそ、『カナリア』というタイトルについて深読みしたくなる。
 それはもちろん、オウムに対する強制捜査の際、先頭の警官が手にもって入った鳥かごの中のカナリア(毒ガスをいち早く察知するから)のことだろう。しかし同時に、主人公2人のことでもあると思う。

 詩人や小説家は、社会にとって「炭鉱のカナリア」の役割をもっていると言われる。社会が危険な方向に向かい始めたとき、詩人や作家は鋭敏な感受性でいち早くそのことに気づき、世の人々に警鐘を鳴らす。ゆえに「炭鉱のカナリア」に喩えられるのである。
 光一も由希も、鳥かごに入れられ、毒に満ちた社会の先頭を歩くことを強いられたカナリアのようだ。
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いまさらアジカン

ソルファ ソルファ
ASIAN KUNG-FU GENERATION (2004/10/20)
KRE

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 年内いっぱいで仕上げる予定だった単行本のリライト仕事に、けっきょく今日までかかってしまった。もっとも、30日から元日まで郷里に帰ったので、その間は仕事をしなかったのだけれど…。

 で、一息ついて1月の仕事予定を見直してみたところ、もう月末までギッシリで休みがとれないことが判明(泣)。
 ま、こういうときには、一日のうちの数時間とか半日とか、こじあけるようにして休息の時間をとるしかない。
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 ここ2、3日、 アジアン・カンフー・ジェネレーション、いわゆる「アジカン」をヘビロ中。恥ずかしながら、つい最近までちゃんと聴いたことがなかった。オジサンだから若者音楽にはうといのだ。

 よいですな。ナンバーガールとくるりの間をつなぐような音、と感じた。轟音ギターと絶叫ヴォーカルの下に隠された端整なアンサンブルと美メロが心地よい。
 詞の質もかなり高い。「リライト」とか「Re:Re:」なんてタイトルが象徴するように、メールやネットやケータイがコミュニケーションの手段として物心ついたころにはもうあった世代の感性をうまくとらえている。

「『今の若い人』を書くのにケータイを出したとしたら、ケータイというツールによってもたらされた内面の変化のほうをまず考えておかなければならない」

 これは保坂和志が小説について言った言葉だが、アジカンの詞はたんに道具立てが今風であるだけでなく、「内面の変化」までとらえたうえで書かれていると感じた。

 最新マキシ・シングル「ブルートレイン」からさかのぼって、『ソルファ』『君繋ファイブエム』『崩壊アンプリファー』とリリース順とは逆に聴いていったのだが、私は最近のものほどよいと感じた。

 パンク的な初期衝動をひたすら叩きつける最初の『崩壊アンプリファー』は、40過ぎた耳にはちとしんどい。
 逆に、「ブルートレイン」(くるりの「赤い電車」を意識したタイトル?)に収録された4曲は、すべて私のツボにはまった。4曲とも傑作。
 ポップなヒット曲「ブルートレイン」の陰に隠れて目立たないけれど、後半の2曲「飛べない魚」と「月光」がなかなかすごい。2曲とも、分厚いギターと重いドラムスを核としたごつい音の塊が聴く者に迫るハードなナンバーなのだが、それでいて少しも耳ざわりではなく、むしろ美しいのだ。この2曲はちょっとレディオヘッドっぽいかな。
 

絶え間なく羽ばたいたら
 いつかは飛べるかな


 ――そう歌い出される歌詞に、「飛べない魚」とタイトルをつける。そんなセンスにもまいった。

 ま、「アジカン初心者」の言うことだから聞き流してください。
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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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