高橋佳哉・村上力『サーバント・リーダーシップ論』

サーバント リーダーシップ論サーバント リーダーシップ論
(2004/02)
高橋 佳哉村上 力

商品詳細を見る


 高橋佳哉・村上力著『サーバント・リーダーシップ論』(宝島社/1575円)読了。

 私自身にはリーダーたる資質が欠落しているし、べつに欲しいとも思わないのだが、仕事の資料として読んだ。

 「サーバント・リーダーシップ」とは、1970年代にロバート・K・グリーンリーフが提唱した概念で、「リーダーはフォロワー(部下など)に奉仕する立場である」との考えに立つ「奉仕型リーダーシップ」のこと。本書によれば、「サーバント・リーダーシップの特徴を一言で言うと、『部下が主役』ということ」なのだという。
 旧来的な「おれについてこい!」という「命令型リーダーシップ」が「ハード・パワー」だとすれば、「サーバント・リーダーシップ」は「ソフト・パワー」を用いた、フォロワーの自主性を重んじるリーダーシップといえよう。

 本書は、その「サーバント・リーダーシップ」の概念に基づいた経営指南書。
 著者たちのリーダーシップ観の大きな特長は、「リーダーにはカリスマは必要ない」という考え方にある。「『カリスマ』」がなければ『リーダー』になれないという懸念は、百害あって一利なし」だと、著者は言う。
 つまり、「リーダーシップは開発できる」という考え方に立っているのだ。この点は、過日読んだジョセフ・ナイ著『リーダー・パワー』の「リーダーシップは学習可能だ」という主張と一致している。

 経営者ならずとも、リーダー論、組織論として示唆に富む本である。メモしておきたいようなフレーズも随所にある。たとえば――。

 優秀なリーダーは、自分が出した提案でも、メンバーに我々が決めたことだと思わせるリーダーである(119ページ)

 組織は凡人が集まって非凡なことをやるためのものである(120ページ)



 ただ、『リーダー・パワー』という中身の濃いリーダー論を読んだあとなので、本書は割を食って見劣りがする。「単行本にするほどの内容ではなく、小冊子レベルだなあ」と感じてしまった。

 それと、本書にかぎったことではないが、この手のビジネス書を読んでいつもウンザリするのは、本文の内容を図で表わした、一見意味ありげでじつは意味のない図の多用。
 文章を読めばわかることをなぜわざわざ図にするのか、さっぱりわからない。図があることで文章が理解しやすくなっているわけでもないし、図だけを見て意味がわかるというわけでもない。

 要するに、書店でパラパラとページをめくったときに文章ギッシリだと多忙なビジネスマンに敬遠されがちだから、「図も多用してますよ」というアピールとして入れてあるだけなのだと思う。

■関連エントリ→ ジョセフ・S・ナイ著『リーダー・パワー』書評

関連記事

越智道雄・町山智浩『オバマ・ショック』

オバマ・ショック (集英社新書 477A)オバマ・ショック (集英社新書 477A)
(2009/01/16)
越智 道雄町山 智浩

商品詳細を見る


 越智道雄・町山智浩著『オバマ・ショック』(集英社新書/735円)読了。

 オバマ大統領就任に合わせて今年初頭に出た本。やっと読めた。
 米国在米の映画評論家と、米国の文化・歴史について多くの著作をもつ英文学者(明治大学名誉教授)の対談集である。

 全6章中、オバマの話がメインになるのは最後の5、6章のみ。そこまでの4章では、米国史を鳥瞰し、オバマ登場の歴史的背景を探っている。とくに、ブッシュ(息子)政権の8年間については、1章を割いて“ブッシュがいかに米国をメチャメチャにしたか”が振り返られる。

 オバマの話がなかなか出てこないことをもって「羊頭狗肉」と難じる向きもあろうが、私は気にならなかった。1~4章もすごく面白いし、ここを読んでこそ、なぜ米国民がオバマを熱狂的に支持し、大きな期待をかけたかがよくわかるからだ。

 大統領就任に間に合わせるため突貫工事で作った本だろうが、そのわりには中身が濃く、上出来の対談集になっている。

 なにより、対談者のキャスティングが絶妙だ。
 在米10年超の町山は生活者としての実体験と豊富な取材経験から“自分の目で見たアメリカのいま”を語り、越智は研究者としての目で、町山の言葉に歴史的な裏付けを与える。そうした役割分担がうまくいっているのだ。

 たとえば、第三章「アメリカン・ドリームという博打」で、町山は自らが「サブプライムローン」を利用して米国に家を買った実体験を披露している。
 むろん町山は低所得者ではないが、米国籍もグリーンカードももたず、会社勤めしていないという意味で定職もないから信用度は低く、従来ならローンで家を買うなど無理な立場であった。なのに「家が買える」と言われてビックリしたのだそうだ。

 自らの体験を通して語る「サブプライムローン問題」はすこぶるわかりやすく、私は本書を読んで初めて、この問題が実感として理解できた。

 両対談者はそこから、米国が「投機国家」と化してしまったその淵源を、歴史の中に探っていく。ここがたいへん面白い。たとえば――。

町山 歴史を振り返ると、ゴールドラッシュの時代がありましたよね。そもそもは、カンザスから幌馬車隊で大西部を東から西に渡って、西海岸のオレゴンで土地を耕して生きていこうとしていた人たちが、旅の途中でカリフォルニアで金が出たと聞いて、幌馬車の方向を変えてしまった。
越智 そうそう。カリフォルニア・ロードというのができてしまうんですね。
町山 あれが今日の「投機国家」の原型なのかも、という気もします。地道な農民になるはずがいきなり山師ですから。



 両対談者の26歳の年齢差も、対談に異なる視点を与え、より重層的な内容にするための力として作用している。よい化学反応が起きているのだ。町山、越智どちらかの単著として本書が書かれていたなら、こんなに面白い本にはならなかっただろう。

 その他、読みながら付箋をつけた箇所を引いておく。

町山 過去にもアメリカは、ユダヤや南欧、東欧など後発移民の力によって何度も再生してきました。困ったときには異人やマレビトに頼むという歴史があるわけです。オバマの登場も、そういう流れとリンクしている。いわば、彼は一企業ではなく国家単位で招聘された異人、マレビトなんですよ。
越智 それにひきかえ、日本には異人やマレビトを呼びこむような回路がない。そこに、深刻な問題があるんです。



越智 オバマをひと言で表現するなら「絶対的アウトサイダー」ということになると思うんです。人種、階級、宗教、コミュニティ、家族関係などあらゆる側面で、どこにも帰属してこなかった。あるいは帰属できなかった人ですね。
町山 逆に言えば、どこにでも帰属するとも言えます。演説でもそのことを強調しています。さまざまなアメリカを内包する自分は、バラバラになったアメリカ再統合の象徴だと。



「人間が昔より強欲になったわけではない。強欲さをむき出しにできる回路が途方もなく拡大されただけなのだ」(越智が話の中で引用しているアラン・グリーンスパンの言葉)



関連記事

佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして』

「劇画の星」をめざして―誰も書かなかった「劇画内幕史」「劇画の星」をめざして―誰も書かなかった「劇画内幕史」
(1996/10)
佐藤 まさあき

商品詳細を見る


 佐藤まさあき著『「劇画の星」をめざして/誰も書かなかった「劇画内幕史」』(文藝春秋)読了。

 1960年代から70年代にかけて劇画界の大スターであった著者が、波瀾万丈の劇画家人生を綴った自叙伝である。

 昨日読んだ桜井昌一著『ぼくは劇画の仕掛人だった』と時代も舞台も重なるため、前半で振り返られる貸本劇画時代についてはエピソードの重複も多い。とはいえ、桜井(本書にも重要な役割で登場)とは異なる視点からの回顧だから、本書は本書で十分楽しめる。

 貸本劇画が急激に衰亡していく過程をつぶさにたどるあたりは、なにやらいまのマンガ界の状況とオーバーラップする。
 貸本劇画が週・月刊マンガ誌に取って代わられたように、いまはマンガ誌そのものが急激に衰亡していく時代。栄枯盛衰の歴史はこうしてくり返されていくわけだ。

 いっぽう、佐藤まさあきという「劇画の星」の栄光と転落の歴史は、小室哲哉のそれを彷彿とさせる。
 佐藤は、人気絶頂期には「佐藤プロ」のオフィス兼仕事場となる自社ビルを都心に建て、クルーザーを所有し、江ノ島の海を見下ろす鎌倉の高台に「家の中に滝のある」(!)豪邸を建てる。そして、スタッフの給与やビルのローンなどで、「最低一ヵ月に五百万円の収入がないことには過ごせない」という状態にはまりこみ、馬車馬のように多数の連載をこなしていくのである。

 だが、劇画ブームが終わると、時代に合わない古臭い作風となっていた佐藤は連載を次々と切られていく。引退を考えた佐藤は、「第二の人生」としてレストラン経営に乗り出す。新宿歌舞伎町の一等地に、「権利金だけで四千万円もした」という店舗をオープンさせるのである。

 だが、シロウト商売のレストランは大赤字を出して4ヵ月で閉店に追い込まれ、ビルも豪邸も手放す羽目になる。それでもなお、夫人のほかに4人もの若い愛人をもちつづけたというのだから、すさまじい。
 小室とちがって犯罪には手を染めなかったのが救いだが、呆れるほど破天荒な人生である。
「羽振りのいいときに、もっと地道に暮らして貯金しておけばよいのに」と我々凡人は思うわけだが、地道な暮らしができるようなタイプには、そもそもこのような極端な栄光はけっして訪れないのかもしれない。

 家計の内幕や女性関係、編集者などとのドロドロの人間関係、失敗談など、ふつうなら人には言いたくない事柄まで、包み隠さず書かれている。露悪的なまでの赤裸々さが、本書の魅力である。

関連記事

桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』

ぼくは劇画の仕掛人だったぼくは劇画の仕掛人だった (1978年)
(1978/11)
桜井 昌一

商品詳細を見る


 桜井昌一著『ぼくは劇画の仕掛人だった』(エイプリル出版)読了。

 昨日読んだ『ゲゲゲの女房』に、著者の桜井昌一が印象的な形で登場してくる。

 桜井さんとはお互いお金のない時代に惨めさを分かち合った同士ということもあり、水木にとっても私にとっても、最も親しみを感じる人物です。



 と……。
 それで興味を抱いて、タイトルだけは知っていた本書を図書館の保存庫から出してきてもらって読んだというしだい。1978年に発刊されたもので、いまは入手困難であるようだ(古書では高値がついている)。 
 著者はマンガ家・辰巳ヨシヒロの実兄で、自らも元マンガ家。そして、小出版社・東考社の社主として、マンガを出版する側でもあった人物(故人)。

 本書は、前半が著者と辰巳ヨシヒロが貸本マンガの世界で名を成すまでの奮闘記。後半は、貸本時代からなじみのある大物マンガ家たちの思い出を綴った「列伝」となっている。
 辰巳ヨシヒロは、「劇画」という言葉の提唱者である。その実兄が「劇画」誕生前後をつぶさに振り返った本書は、マンガ史の史料としても価値の高いものだ。
 さきごろ手塚治虫文化賞を受賞した辰巳ヨシヒロの『劇画漂流』は、本書の劇画版ともいえる(のだそうだ。私は現時点では『劇画漂流』は未読)。

 それにしても、水木しげるの自伝などを読んでも思うことだが、当時の貸本マンガ家というのは、たとえ売れっ子であっても一人残らず「ワーキングプア」である。のちに一流マンガ家となっていく人たちが、よくまあこんな劣悪な条件で必死にマンガを描いていたものだと思う。
 とはいえ、本書でいちばん面白いのは、貸本マンガ時代のビンボー話なのだが……。

 後半の列伝の、水木しげるの章から一節を引く。

 昭和三十九年から四十年は貸本業界の構造的な不況がどんづまりまでいって、貸本マンガにたずさわる作者たちの大量失業の時代であった。(中略)
 有能な多くの人たちが筆を折り、他の職業を求めて姿を消していった。退職金も貯金もなく、はじめから出なおそうとした人たち。それまでのめりこんで身につけた修練の腕は特殊なもので、世間的な判断ではその価値は皆無に等しい。ぼくと水木は確かに半分はマンガに絶望していたかもしれないが、おなじ悪い闘いをするにしても、この状況の中でマンガにたずさわっていられただけで、しかたなくほかの仕事をしなければならなかった人たちと較べれば、まだ幸運だったといわなければならないだろう。



 列伝には水木以外に、永島慎二、つげ義春、さいとうたかを、白土三平、佐藤まさあき、水島新司、山上たつひこらが登場し、それぞれ面白い。とくに、水島新司がマンガ家としてデビューするまでの苦労話はすさまじく、強烈な印象を残す。たとえば――。

 水島の話によれば、中学時代は家庭の貧しさのために、自分の教科書を買い入れることすらできなかったそうだ。水島は学年の各クラスの授業時間割を調べて、自分のクラスの時間割と対比し、他の学級の友人の空いている教科書を借り出して授業を受けなければならなかった。



 マンガが「ハングリー・アート」と呼ばれた時代の息吹を伝える好読み物。絶版のまま埋もれさせるには惜しい。

関連記事

武良布枝『ゲゲゲの女房』

ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房
(2008/03/07)
武良布枝

商品詳細を見る


 武良布枝(むら・ぬのえ)著『ゲゲゲの女房/人生は……終わりよければすべてよし!!』(実業之日本社/1250円)読了。

 タイトルからわかるとおり、水木しげる夫人の自叙伝である。
 水木しげるには何種類もの自伝があり、私はそのうち『ねぼけ人生』と『のんのんばあとオレ』をすでに読んでいる(とくに、『のんのんばあとオレ』は奔放なユーモアに満ちた少年記として出色で、中学生のころに読んで以来、折に触れ読み返している)。
 なので、「この本は読まなくてもいいかな」と思っていたのだが、来春のNHK朝ドラ(連続テレビ小説)になることが決まったと聞いて、手を伸ばしてみた。

 この手の本のあとがきに、「ライターの○○さんに資料収集をお手伝いいただいた」と書いてあったり、奥付に「編集協力」としてライターの名がクレジットされるのは、そのライターが「著者」を取材して談話をまとめたものであることを示している(ホントに資料集めや編集協力をしただけという場合も、例外的にはあるだろうが)。
 本書の場合、「あとがきにかえて」でライターの名を挙げて「執筆にあたっていろいろアドバイスをいただきました」と書かれているので、このライターが構成(=取材して談話をまとめる)を担当したのだろう。

 もちろん、私自身がそういう仕事を山ほどやっているので、そのことが悪いなどというつもりは毛頭ない。むしろ私は、「ゴーストライターを使っている」というだけで、著者自身が文章を書いた本より一段落ちるかのようなイメージが一般的にあることが、不思議で仕方ない。

 「ゴースト」という言葉の語感がよくないのであって、「文章化のアウトソーシング」と言えばよいのだ。文章化のアウトソーシングによって、著者が文章を書くよりもよい本になるなら(あるいは、著者が書くより効率的に作業が進むなら)、それを選択するのはビジネスとして当然なのである。うしろめたいことなど何もない。
 もっとも、小説などの芸術作品のゴーストだけは、さすがに「うしろめたい」と私も思うけど……。

 おっと、話がズレた。
 本書の場合、ライターがそつなくまとめてはいるのだが、文章が平板で滋味に乏しい。文章自体に深い味わいがあった『のんのんばあとオレ』などと比べてしまうと、はるかに見劣りがする。しかしそれでも、登場するエピソード自体が面白いので、楽しく読み通せる本だ。

 夫人の少女時代・独身時代を振り返った第一章は、正直言って退屈。水木と出会う第二章以降、俄然面白くなる。

 まず、当然のことながら夫婦愛の物語として感動的だ。いい場面がたくさんある。たとえば、結婚式を描いたくだりの、こんな一節――。

 三三九度をすませると、みんなで記念写真をとりました。水木と私が寄り添うように座らされたのですが、そのとき、水木の左にはめた義手に私の体があたり、「コツッ」と小さな音がしました。その音を聞いたとき、ああ、私はこれからこの音を何度も聞くのだろうと思いました。
 実は水木は義手をはめるのが大嫌いで、「結婚式だから絶対にはずすな」と母親からいいわたされていたために嫌々はめていたのだということを、私はまったく知りませんでした。結婚式のあと、水木はもう二度と、義手をはめませんでした。コツッという音を聞いたのは、それが最初で最後となりました。



 また、次に引く箇所などは、来年の朝ドラで全編のラストシーンにしてもよいくらい、印象的な一節である。

「私じゃない人と結婚してたら、どうだったのかなあ」
 以前、富士山の小屋に行ったときに、水木に聞いたことがありました。水木は小首をかしげた後に、空を見上げ、ポツリといいました。
「よかったんじゃないか、おまえで。いつもぼんやりしていて」
「ぼんやり? 私、ぼんやりしてる?」
「とんでもなく、ぼんやりだ」
「そうかなぁ」
「ああ。横を見ると、いつもおまえがぼんやりと立ってたな」



 そしてまた、水木のマンガ家としての歩みを夫人の目から振り返ったことで、本書はマンガ史研究の資料としても価値あるものとなっている。貸本マンガ時代の貧窮→『少年マガジン』への連載開始→『ゲゲゲの鬼太郎』アニメ化による大ブームなど、水木の歩みは戦後マンガ史そのものなのである。

 水木の自伝マンガの中の夫人はいかにも水木キャラらしいヘンな顔に描かれているが、本書に掲載された若き日からの写真を見ると、なかなかの美人である。それも、女優っぽい美人ではなく、水木しげるワールドにふさわしい不思議な雰囲気の美人なのだ。

関連記事

『スラムドッグ$ミリオネア』


スラムドッグ$ミリオネア [DVD]スラムドッグ$ミリオネア [DVD]
(2009/10/23)
デーブ・パテル、アニール・カプール 他

商品詳細を見る


 立川シネマシティで『スラムドッグ$ミリオネア』を観た。
 言わずと知れた、今年度アカデミー賞最多8部門(作品賞、監督賞含む)受賞作である。

 公式サイト→ http://slumdog.gyao.jp/site/

 じつによかった。ストーリーがまるで一本の太い動脈のよう。少しも脇道にそれず、ラストシーンに向かって一直線に熱い血潮を運んでいく感じなのだ。
 観る者を気持ちよくだましてくれる、大人のためのおとぎ話――。

 社会性と娯楽性がハイレベルでせめぎ合い、両者のちょうど真ん中でピタリと針が止まっている。
 主人公たち――ムンバイのスラムの子供たちの人生は、この映画に描かれている程度には過酷なのだと思う。つい数日前にも、こんなニュースが飛び込んできた。

[ムンバイ 20日 ロイター] インドの警察当局は、映画「スラムドッグ$ミリオネア」に出演した女児を、父親が20万ポンド(約2800万円)で売ろうとしたと疑いで捜査をしている。
 同映画でヒロインの幼少時代を演じたルビーナ・アリちゃん(9)は、父親と義母とともにスラム街で生活しており、家族に高額の養子縁組を持ちかけた英タブロイド誌ニューズ・オブ・ザ・ワールドのおとり取材は、インドでも大々的に報じられた。この報道を知った母親が19日、警察に届け出たという。



 インドの超・下層社会の現実を直視しつつ、ダニー・ボイル監督は持ち前のポップなセンスで、物語を極上のおとぎ話として織り上げていく。映像自体が心地よい音楽のようで、うずたかく積み上がるスラム街のゴミの山すら、スクリーンの中ではいきいきと美しい。

 ストーリーについては、すでにさんざん各メディアで紹介されているので、ここでは触れない。
 誰もが知る人気テレビ番組(日本版は、みのもんたの司会で知られた『クイズ・ミリオネア』)を、こんなふうにストーリーに織り込むアイデアがすごい(原作はヴィカス・スワラップの小説『ぼくと1ルピーの神様』)。
 「あんなに都合よく、主人公の人生に重なる問題ばかりが出るわけがない」と誰もが思うだろうが、思うだけにとどめよう。口に出すのは野暮というものだ。これはおとぎ話なのだから……。

 何より素晴らしいのは、観る者に希望と勇気を与えるおとぎ話である、という点だ。こんなふうにシンプルで力強い映画こそが、数十年後に古典として残るのだろう。

 
関連記事

高橋呉郎『週刊誌風雲録』

週刊誌風雲録 (文春新書)週刊誌風雲録 (文春新書)
(2006/01)
高橋 呉郎

商品詳細を見る


 高橋呉郎著『週刊誌風雲録』(文春新書/798円)読了。

 1933年生まれの超ベテラン・フリーライターが、自らが肌で知る週刊誌の歴史を活写するノンフィクションである。
 先日読んだ大下英治著『トップ屋魂』の類書だが、『トップ屋魂』よりもさらに古い時代を扱っている。本書でおもに描かれるのは、戦後間もない昭和20年代から30年代にかけての週刊誌黎明期なのだ。昭和40年代以降のことについては、サラリと触れる程度。

 黎明期の編集者やライターたちが、何もないところから暗中模索して現在の週刊誌ジャーナリズムのスタイルを築くまでの道筋を、印象的なエピソードの積み重ねでたどっている。
 中心となるのは、著者が深く親交を結び、私淑した2人の大物――草柳大蔵と梶山季之の思い出。いまでは草柳は評論家として、梶山は小説家として知られているだろうが、2人はかつて、週刊誌草創期を代表する腕利きライターであった。

 本書は、草柳と梶山の2人を主人公としたドラマのようでもある。ダンディで切れ者の草柳、シャイで人情家の梶山――タイプとしては対照的だが、ともにライターとしての能力は圧倒的で、余人の追随を許さぬスタイルを作り上げていた。そんな2人の人間像それ自体が、じつに魅力的だ。

 そして、2人に伍するほど大きな存在感をもって本書に登場するのが、『週刊新潮』の“陰の編集長”とも呼ばれた斎藤十一である。
 出版社系週刊誌の草分け・『週刊新潮』を成功させた斎藤は、辣腕編集者ではあったが冷酷な一面をもっていた。著者は本書で、その辣腕ぶりと冷酷さの両方を活写している。

 その他、戦後間もなく『週刊朝日』を100万部雑誌に押し上げた当時の編集長・扇谷正造の奮闘、『女性自身』の登場など、「週刊誌の戦後史」の節目節目が、エピソードから浮き彫りにされていく。

 著者は「エピローグ」で、スクープ合戦に血道を上げるばかりで洒落っ気を失った昨今の週刊誌に、苦言を呈する。

 そのころ(昭和40年代半ば/引用者補足)から、私は、週刊誌は変わったなと思いはじめた。(中略)
 スクープ第一主義は立派な編集方針である。が、それが習性になると、準々スクープの類を大スクープのごとくに謳い上げる。勢い、声が大きくなる。ひとひねりしたタイトルより、そのほうが読者に与えるインパクトが強い。戦国時代に勝ち残るには、これが最強最善の策とわかれば、いよいよ声を大きくせざるを得ない。



 なりふりかまわぬスクープ合戦の果てに、起きるべくして起きたのが、先日の『週刊新潮』「赤報隊」実行犯手記捏造事件(『週刊新潮』は誤報を認めたあとも「騙された」被害者ヅラを決め込んでいるが)である。「準々スクープ」どころか、スクープでさえないただのウソを大スクープと称して売る――週刊誌ジャーナリズムの「極北」といえよう。
 本書に描かれているのは、そんなふうに荒廃する前の、週刊誌ジャーナリズムの古き佳き「牧歌時代」である。

 『週刊誌風雲録』のタイトルにふさわしい面白さ、中身の濃さで、資料的価値も高い一冊。週刊誌ジャーナリズムに関心のある人、とくにライターと編集者は必読だ。

 ライター時代の草柳大蔵が、「草柳グループ」の若手に説いていたという「ライター心得」を引く。

 ライターは、いい仕事をしても、切られるときは切られる。そのとき、蓄えがないと、つい、どんな仕事にも飛びついてしまう。いちど、そこにはまったら、なかなか脱け出せない。だから、最低三ヵ月は食えるだけの蓄えをしておかなければならない。三ヵ月の余裕があれば、仕事を選ぶことができる



関連記事

『正午なり』

正午なり (1968年)正午なり (1968年)
(1968)
丸山 健二

商品詳細を見る


 ケーブルテレビで録画しておいた『正午(まひる)なり』を観た。
 丸山健二の初期中編を忠実に映画化した、1978年のATG作品。

 いやー、なんともイタイ感じの青春映画であった。ATG映画の悪いところばかりが出てしまった感じ。丸山健二の小説は乾いたタッチが魅力なのに、この映画は終始ジメジメしている。原作との相性が悪い。
 一言で言うと、立松和平の小説を根岸吉太郎が映画化した『遠雷』の根暗ヴァージョンという感じ(もっとも、作られたのは『遠雷』のほうがあと)。似たようなテーマを扱いつつも、『遠雷』よりはるかにつまらない。

 東京で挫折して帰郷した青年の鬱屈した心情とか、逆にその親友が「東京に行けばバラ色の未来が開ける」かのように幻想を抱いている点とか、主人公と両親の葛藤などの描き方が、ひどく図式的で凡庸。

 「カネやん」の息子・金田賢一の主演デビュー作なのだが、セリフは棒読みだし、最初から最後までブスっとした仏頂面がうっとおしい(まあ、仏頂面は彼のせいではなく、そういう役柄だからだが)。
 「お前が抱えた鬱屈なんて、彼女ができれば即消える程度のありふれたつまらないものなんだから、“世界中でオレだけが深い悩みを抱えてる”みたいな顔してんじゃねーよ」と、画面の中の主人公に説教したくなる。

 同じケンジでも中上健次の小説を映画化した作品が傑作揃い(『青春の殺人者』『十九歳の地図』『赫い髪の女』など)なのに対し、丸山健二は映画化に恵まれてないなあ。わりといいのは、森田芳光が監督した『ときめきに死す』くらいか。

 もっとも、この『正午なり』は原作も大した小説ではなく、丸山作品では「中の下」といったところだから、映画がつまらないのは監督や脚本家(なぜかマンガ家の福地泡介が執筆)のせいばかりではないが……。

 ほとんど唯一の美点は、主人公にとってファム・ファタール(運命の女)の役割を果たすホステスを演じた結城しのぶの、匂い立つような色香。
 このころの彼女は、掛け値なしにいい女だ。『遠雷』におけるファム・ファタール――若き日の石田えりのような健康的な色気ではなく、もっと生活感のある暗い色気を全身から発散している。

関連記事

上田知華+KARYOBIN『MUSIC SOUP』 

樋口康雄作品集
(2003/11/15)
上田知華+KARYOBIN

商品詳細を見る

   ↑これは『MUSIC SOUP』のジャケにあらず。

 上田知華+KARYOBINは、1970年代末から80年代初頭にかけて活躍した、クラシックをベースにしたJ-POP(なんて言葉は当時なかったけれど)グループ。弦楽四重奏をバックにピアノ弾き語りをするという、他に類を見ないユニークなスタイルが特長であった。
 その弦楽四重奏団の名が「KARYOBIN」(=かりょうびん。雅楽の演目「迦陵頻」や、その元となった仏教経典に登場する美声の鳥「迦陵頻伽」に由来するのだろう)で、メンバーの中にはいまをときめく金子飛鳥(ヴァイオリン)や溝口肇(チェロ)もいた。

 少年時代の私は、レンタルレコード屋で借りた彼女たちのLPをカセットテープに入れて(時代を感じますね)愛聴していたものだ。が、そのカセットもとうにどこかへ行ってしまった。

 もう一度聴きたくなってCDを買おうと思ったら、一連のアルバムは一度CD化されているものの廃盤になっていて、中古市場で1万数千円の高値を呼んでいる。うーん、そこまで出すほど思い入れはないなあ。

 で、地元の図書館の在庫を検索してみたら、『MUSIC SOUP』というベスト・アルバムがあったので、借りてきた(公共図書館の視聴覚資料には思わぬ掘り出し物があって、あなどれない。私は、ソフト・マシーンの『ソフツ』とか、トミー・ボーリンの『ティーザー』などというマニアックなアルバムを、図書館で借りて初めて聴いた)。

 このベストアルバムには、「パープル・モンスーン」(これは、たしか扇風機のテレビCMに使われた)、「秋色化粧」、「さよならレイニー・ステーション」などの主要曲が網羅されている。ただ、私が好きだった「AVENUE」という曲(5thアルバム『ミス・ハート』のオープニング・ナンバー)が入っていないのが、ちょっと残念。

 なにしろ弦楽四重奏+ピアノという普遍的スタイルだから、30年の時を経たいま聴いても少しも古びていない。その後のJ-POPの歴史の中で、同じスタイルをとるフォロワーが現れなかったのが不思議なくらいだ。
 「秋色化粧」と「さよならレイニー・ステーション」は、とくに名曲。

 上田知華は解散後もしばらくはソロでアルバムを発表していたが、いまは他のアーティストへの楽曲提供に専念しているらしい。

関連記事

車谷長吉『阿呆者』

阿呆者阿呆者
(2009/02/24)
車谷 長吉

商品詳細を見る


 車谷長吉(ちょうきつ)著『阿呆者』(新書館/1680円)読了。

 3月に出た最新エッセイ集である。一時期私はこの作家に入れ込み、当時刊行されていた全作品を読んだのだが、なにか「見切った」ような気がして、その後の本には手を出していなかった。久々の「車谷本」だ。

 車谷作品を読んできた者にとっては旧知の事柄が、たくさん出てくる。本書は自伝的要素の濃いエッセイを多く収録しているので、とりわけ既視感が強い。本書の中だけでさえ、話の重複が少なくないのだ。
 それでも退屈せずに読み通せるのは文章家としての手腕ゆえだが、車谷作品に出合ったころの衝撃はもうない。

 車谷のエッセイ集では、第1エッセイ集『業柱抱き』と、2002年に出た『錢金(ぜにかね)について』がよいと思う。とくに『錢金について』は、玉石混淆ではあるものの、「玉」の中には世にも美しい名文と、何度読み返しても笑える爆笑のエッセイがある。

 『錢金について』にあって本書にないのは、突き抜けたユーモアである。
 「贋世捨人」を自称しつつ、そんな自分を突き放して観察し、笑い飛ばすユーモアが車谷のエッセイの魅力だった。が、本書に収録されたエッセイの多くには、自虐はあっても自虐を笑い飛ばす視点がない。ただただ後ろ向きで暗く、読んでいてげんなりしてくるのである。たとえば――。

 人間は罪深い。私はいつもそう思うのである。他の生き物を殺して喰うという意味において。だからこの次ぎ、生れて来る時はどうあっても二度と人間にだけは生れて来たくない。



 嫁はんが私より先に死ぬことを、私は何よりも恐れている。だから私は毎日、自分が早く死ぬことを祈っている。極楽に往生したいとも思わない。私のような極道者はどの道地獄へ行くのである。

  

 ただ、小説家としての「覚悟」を記したエッセイには、感動的なくだりもある。たとえば車谷は、羞恥心を捨てないかぎりよい小説は書けない、という。

 塾高(慶應義塾高校/引用者補足)から大学に進学して来た人からは、作家が生まれない。塾高出身の作家は山川方夫だけである。(中略)塾高から来た人は絶えずお体裁をかまうので(つまり、それを羞恥心があるからと言うのだが)、作家には向いていないのである。お体裁などかまっていると、絶対に作家になれない。と言うて、羞恥心をかなぐり捨ててしまうと、作家になれるか、と言うとそうでもない。内心では羞恥心を持ちつつ、原稿を書く時はそれを捨てなければ、作家としては認められない。「新潮」「文學界」「群像」「野生時代」私の作品を発表して下さった文藝雑誌の編輯者はみな、羞恥心を捨てることを要求して来る。実際、羞恥心を抱いて原稿を書き、これらの雑誌の人に読んでもらうと、かならず没原稿になった。



 あと、面白かったのは、“原稿依頼をしてきた『クロワッサン』の編集者が、漱石が明治の人であることすら知らずに呆れた”という話。

 この渡辺という女は、夏目漱石を昭和時代の人だと思っていたのである。近ごろの婦人雑誌の編輯者は、その程度の出来なのである。私は深く失望した。(中略)後刻、この女から入ったFAXを見ると、『我輩は猫』と書いてあった。要するに編輯者でありながら、『吾輩は猫である』も読んでいないのである。(中略)夏目漱石も読んだことがない無教養な者が「読む楽しみを伝えたい 小説家の読書案内」という企画を雑誌に立て、それを女に売ろうとしているのである。これでは女・子供がどんどん阿呆になって行く筈である。



関連記事

茂木健一郎『ひらめきの導火線』

ひらめきの導火線 (PHP新書)ひらめきの導火線 (PHP新書)
(2008/08/19)
茂木 健一郎

商品詳細を見る


 茂木健一郎著『ひらめきの導火線/トヨタとノーベル賞』(PHP新書/714円)読了。

 最近の茂木健一郎は著書を出しすぎだと思うのだが、先日読んだ『すべては音楽から始まる』はいい本だったので、同じPHP新書から出た本書にも手を伸ばしてみた。

 茂木が「ひらめき」をテーマに出す本としては、新潮新書の『ひらめき脳』に次いで2冊目かな。
 本書には、ひらめきのメカニズムを脳科学的見地から説明するくだりはほとんどない(そのへんは『ひらめき脳』に詳述されているのだろうか? 私は未読なのでわからない)。ひらめきについての著者の考えを、さまざまな角度から綴った軽いサイエンス・エッセイという趣だ。
 あっという間に読めてしまう薄い本だが、重要な指摘や卓見もあり、値段分の価値はある。
 
 全編をつらぬく核となるのは、「日本人は創造性と個性に乏しい」という先入見に対する反論だ。
 茂木は、“日本人は創造性に乏しいのではなく、創造性の発現の仕方が欧米とは違うのだ”と主張する。一人の天才のひらめきに頼るのではなく、みんなで知恵を出し合う「集団的な創造」こそが日本流なのだ、と……。
 日本流の「集団的ひらめき」による創造の代表格がトヨタの車づくりであり、欧米流の「一人の天才のひらめき」による創造の代表格がノーベル賞である――というのが、副題に込められた意味。

 まあ、何も脳科学者が言わなくても、大前研一とか樋口清之(『逆・日本史』の著者。故人だけど)あたりが言いそうなことであり、目からウロコが落ちるほどの主張ではない。
 ただ、その主張を補強するためにくり出してくる事例やロジックには茂木ならではのものがあり、むしろディテールに面白さがある。

 たとえば、「そもそも独創性とは何か?」という話のところで、茂木は人類史上に残る独創の例として、ジョージ・アダムスキーの「空飛ぶ円盤」と円山応挙の幽霊画を挙げる。そして、次のように言うのだ。

 だれもがそれを受け入れ、信じ、実際にそれを「見る」ことすらある。それまでは形にはなっていなかったけれど、人々の心の中に漠然とあったもの。それを明快に形にしてみせた彼らの創造力と独創性は卓越している。
 空飛ぶ円盤も幽霊も、きわめて飛びぬけたひらめきである。



 なるほどなるほど。この視点はたいへん面白い。

 “脳科学者が教える発想力強化のノウハウ”を期待すると肩透かしを食うが、読み物としてはそこそこ楽しめる本。

関連記事

佐伯一麦『芥川賞を取らなかった名作たち』

芥川賞を取らなかった名作たち (朝日新書)芥川賞を取らなかった名作たち (朝日新書)
(2009/01/13)
佐伯 一麦

商品詳細を見る


 佐伯一麦(かずみ)著『芥川賞を取らなかった名作たち』(朝日新書/819円)読了。

 自らも「芥川賞を取りそこなった作家」の一人である著者が、同賞の長い歴史の中から“受賞を逸した名編”11編を選び、それぞれの魅力を探っていく一冊。

 取り上げられているのは、太宰治の「逆行」(第1回/1935年上半期候補作)から干刈あがたの「ウホッホ探検隊」(1983年下半期候補作)まで、戦前からバブル前夜に至る昭和期の作品。平成に入ってからの作品は一つもなし。

 仙台文学館で著者が講師をつとめた連続講座をベースにしたもの。ゆえに、文章は話し言葉でわかりやすいし、ゲストに招いた作家や編集者の話、受講生とのやりとりも随所にはさまれていて臨場感がある。

 以前このブログでも書いたことがあるが、芥川賞を取ってから鳴かず飛ばずの作家は多く、むしろ受賞を逸した人の中にこそ、文学史に名を遺すような重要作家が少なくない。太宰のみならず、三島由紀夫も村上春樹もよしもとばななも、芥川賞を取っていないのである。なので、本書は企画として優れていると思う。

 取り上げられた作品を読んでからのほうが面白いのは当然だが、梗概などは本文で紹介されるので、“読んでいないとチンプンカンプン”ということはない。
 
 『文学賞メッタ斬り!』的な毒舌の笑いを期待する向きも多いだろうが、本書のスタンスはもっと生真面目だ。『文学賞メッタ斬り!』は読んで楽しむ本だったが、本書は“「芥川賞を取らなかった名作」を通じて、佐伯一麦が教える小説の書き方講座”というスタンスなのである。

 ただ、取り上げた作品が落選した際の選評は細かく紹介されるので、『文学賞メッタ斬り!』にあった“選評を批評する愉しさ”は、本書でも十分味わえる。

 また、取り上げた作品をめぐる作品論・作家論としても読みごたえがある。
 とくに、干刈あがたの「ウホッホ探検隊」を取り上げた最終章は、感動的ですらある。同じく『海燕』から登場した作家という意味で同志的連帯感を抱いていたであろう干刈に対する、佐伯によるレクイエムという趣もある(干刈は92年に49歳の若さで病没)。

 巻末には、島田雅彦(芥川賞落選6回)と著者の対談を収録。これが、島田のいつもながらの言いたい放題が痛烈で、なかなか笑える対談になっている。「本文が生真面目だから、読者サービスとして笑えるページも作ろうか」みたいな意図で入れたのかも。

関連記事

川本三郎・鈴木邦男『本と映画と「70年」を語ろう』

本と映画と「70年」を語ろう (朝日新書 110)本と映画と「70年」を語ろう (朝日新書 110)
(2008/05/13)
川本 三郎鈴木 邦男

商品詳細を見る


 川本三郎・鈴木邦男著『本と映画と「70年」を語ろう』(朝日新書/777円)読了。

 新右翼の論客と、心情的にはまぎれもない左翼である川本三郎の対談集。一見「水と油」に見える組み合わせだが、意外にも鈴木は昔から川本のファンなのだという。
 いや、鈴木が書いた本書の「はじめに」を読むと、ファンなどというレベルを超えた強い思い入れを、川本に対して抱いているようだ。

 

 川本さんは「もう一人の自分だ」と思っている。そうなりたいと思いながら、なれなかった自分だ。川本さんには迷惑だろうが、勝手にそう思っている。年はほとんど同じだし、あの激動の「政治の季節」を体験し、新聞社に入り、政治的事件でクビになった経歴は全く同じだ。そして評論活動をしている。もっとも今は天と地の開きだ。
 川本さんは映画・文芸評論家として第一人者だし、もう、「あの事件」を覚えている人も少ない。僕のほうは昔の〈政治活動〉を引きずったままだ。



 川本が朝日新聞社をクビ(懲戒免職)になった「あの事件」とは、1971年に自衛隊朝霞駐屯地で自衛官が刺殺された「赤衛隊事件」のこと。
 当時『朝日ジャーナル』の若手記者だった川本は、指名手配中の犯人をひそかに取材。その過程で犯人にシンパシーを抱くに至る。そして、ジャーナリストとしての一線を超え、犯人から事件の証拠品を渡されて焼却するなどし、証拠湮滅の罪に問われ逮捕。懲役10ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。
 その経緯は、川本の著作『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』(1988年/河出書房新社)で詳細に振り返られている。

 『マイ・バック・ページ』は忘れがたい名著である。私は、川本さんの数多い著書の中であの本がいちばん好きだ。それどころか、これまでに読んだすべての本の中で五指に入るくらい、深い感銘を受けた。

 書名のとおり、1970年周辺の出来事がおもに語られる本書は、いわば“対談版の『マイ・バック・ページ』”である。「赤衛隊事件」についても、1章を割いて語られている。
 また、本や映画を手がかりとして語られる70年前後の「政治の季節」についても、右翼と左翼という2つの視点から振り返ることでより立体的な像が結ばれる感じで、なかなか興味深い内容となっている。左翼同士、右翼同士の対談ではこうはいかず、もっとフラットな内容になっただろう。

 対談の中で語られているところによると、『マイ・バック・ページ』の映画化が現在進行中なのだという。山下敦弘監督の『リンダリンダリンダ』や『天然コケッコー』で知られる根岸洋之がプロデュースを手がけるのだとか。これは期待! 監督はやはり山下敦弘だろうか。私は絶対観る。(→※後注・映画『マイ・バック・ページ』のレビューはこちら

 それにしても、“朝日を懲戒免職された経緯”が大きな位置を占める本書が、朝日新書の一冊として刊行されたというのは、考えてみればすごいことだ。鈴木も書いているとおり、「朝日は懐が深い」。

関連記事

「暫定父子家庭」の日々

 妻が病院に入院中なので、しばらくの間我が家は「父子家庭」である。
 入院の準備とか、手術の付き添いなどで毎日があわただしい。

 一昨日は手術の日――。

 大病院なので、一度に10件もの手術が同時進行することに驚く。
 巨大な「中央手術室」(その中は10の小さな手術室に分かれているのだろう)の手前には「家族控え室」なるものがあり、そこでは何組もの家族が手術の終わりを待っている。
 控え室の上部には大きな液晶モニターがあって、10件それぞれの手術の進行状況が随時表示されていく。ほとんど「流れ作業」のような趣である。

 今春から高校に進んだ娘が、中心になって家事をやってくれるので助かる。

 「アタシも高校に慣れるまで何かとたいへんだから、平日はちゃんとした料理が作れないけど、ガマンしてね。土日はちゃんと作るから」
 などと言ってくれるのがいじらしい。

 まあ、私もたまには料理にチャレンジしてみることにしよう。苦手だけど。

 小学6年生になった息子は、口には出さないものの、母親が家にいないことが寂しそうである。今日3人で病院に見舞いに行ったとき、帰り際に去り難そうにしている様子が見てとれた。

 『となりのトトロ』のワンシーンを思い出す。
関連記事

池内恵『イスラーム世界の論じ方』

イスラーム世界の論じ方イスラーム世界の論じ方
(2008/11)
池内 恵

商品詳細を見る


 池内恵(さとし)著『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社/2730円)読了。

 著者はまだ30代半ばの気鋭のアラブ研究者(現・東大先端科学技術研究センター准教授)。2002年のデビュー作『現代アラブの社会思想』で大佛次郎論壇賞を受賞するなど、その活躍は目覚ましい。

 本書は、2004年から08年にかけて、著者が新聞・雑誌・叢書などに寄せた、イスラーム世界をめぐる論文・時評集である。
 各編が書かれたのは、イラク戦争以来の激動が続き、イラク日本人人質事件(04年)など、イスラーム世界をめぐる事件が日本でもメディアを騒がせた時期。その喧噪の只中にあって、研究者として状況を冷静に見据えた言論活動の記録なのだ。

 「9・11」同時多発テロ(01年)以後も、日本にはイスラーム教徒への極端な偏見は生じていない。しかし、イスラーム世界をめぐる日本の言論には、それとは逆方向の強いバイアスが存在すると、著者は指摘する。

 たとえば、「イスラーム教の名のもとに自爆テロをはじめとした軍事行動を正当化する集団を、『宗教の誤った理解に基づく』とする議論が日本では多い」が、イスラーム教は「預言者自身が武器をとって戦った輝かしい歴史を称揚しているため、軍事は忌避されない」と、著者は言う。

 イスラーム教とテロリズムを同一視するのが偏見であるように、イスラーム教の本質から目を背け、我々のイメージする平和的宗教の鋳型に無理やりはめることもまた偏見である。だが、日本においては後者のバイアスがかかった言論が幅をきかせている。著者は本書の随所でその歪みを正したうえで、歪みの根底に潜むものを、次のように喝破する。

 抑えられてきた反米感情、西欧コンプレックスを「イスラーム」に託して解放するという役割を、日本の言説空間の中の「イスラーム」論は担ってしまっている。



 著者は、バイアスを排したイスラーム世界の全体像を提示し、そこから日本の言論状況をも逆照射する。イスラーム世界と日本。彼我の本質的相違をふまえたうえで、対立を避け共生を続ける方途を探った好著。

関連記事

スタンリー・クラーク『Original Album Classics』

Original Album ClassicsOriginal Album Classics
(2008/01/08)
Stanley Clarke

商品詳細を見る


 CD1枚の値段で5枚組が買える、激安ボックス・セット・シリーズ『Original Album Classics』。今回はスタンリー・クラークのセットを買ってみた。アマゾン・マーケット・プレイスを使うと、新品が送料込みで2000円を切る値段。安いなあ。

 スタンリー・クラークは、いうまでもなく、故ジャコ・パストリアスと並ぶベース・ギターの革新者である。この『Original Album Classics』には、彼が1970年代半ばから80年代初頭にかけて発表した5作品が収められている。
 74年の『スタンリー・クラーク』、75年の『慈愛への旅路』(原題は“Journey to Love")、76年の『スクール・デイズ』、78年の『モダン・マン』、81年の『クラーク・デューク・プロジェクトVol.1』の5枚である。

 アルバムとしていちばんよいのは『スクール・デイズ』だが、ほかの4枚にもそれぞれキラーチューンがあって、いま聴いてもなかなかカッコイイ。

 私のようなロック系リスナーにとって、スタンリー・クラークといえばジェフ・ベックと共演した一連の曲のイメージが強烈だ。このセットでも、『慈愛への旅路』に収められた傑作「ハロー・ジェフ」や、『モダン・マン』に収められた「ロックンロール・ジェリー」といったベックとの共演作が、やはり突出して素晴らしい。

 ただ、5枚とも、いろんな要素を盛り込みすぎて散漫な印象がある。ゴリゴリにハードなジャズ・ロックがあるかと思えばヴォーカル入りのメロウ・チューンがあったり、ストリングスを大仰に用いたイージー・リスニングまがいの曲があったり……。
 「全編にビリビリとした緊張感がみなぎりっぱなし!」みたいな本格ジャズ・ロック・アルバムが、1枚でもあればよかったのになあ。スタンリー・クラークのテクニックとセンスをもってすれば「ベース・ギター版の『ワイアード』」を作れたはずなのに、それにあたるアルバムがないのである。

 あと、この『Original Album Classics』のラインナップに総じて言えることなのだが、収める5枚をセレクトする基準がよくわからない。

 たとえば、チープ・トリックの『Original Album Classics』は、1stから3rdアルバムまでを入れておいて、なぜか4thアルバムの『ドリーム・ポリス』は飛ばし、5th、7thアルバムをくわえている。
 『ドリーム・ポリス』はチープ・トリックの人気最盛時の大ヒット作であり、内容も充実している。これを外して、人気低迷期の地味なアルバム『ネクスト・ポジション・プリーズ』(83年)を入れるというセレクトは「?」である。

 このセットの場合でいうと、『クラーク・デューク・プロジェクトVol.1』だけが浮いている。クラーク・デューク・プロジェクトは、キーボーディストのジョージ・デュークと組んだ双頭ユニットであり、スタンリー・クラークのソロアルバムとは毛色が異なるからだ(要は、この1枚のみブラコン)。
 これを外して、CDが入手困難になっている『ロックス・ペブルス・アンド・サンド』(80年のソロ作)を入れてくれたらよかったのに……。

関連記事

鷲田清一・永江朗『哲学個人授業』

哲学個人授業-<殺し文句>から入る哲学入門 (木星叢書)哲学個人授業-<殺し文句>から入る哲学入門 (木星叢書)
(2008/01/26)
鷲田清一永江朗

商品詳細を見る


 鷲田清一・永江朗著『哲学個人授業/〈殺し文句〉から入る哲学入門』(バジリコ/1575円)読了。

 ベテラン・ライター永江朗と、いまや大阪大学総長をつとめる哲学者の鷲田清一の対談集である。永江が「生徒」となって、鷲田から月イチで受けた「哲学個人授業」という体裁をとっている。月刊誌『ミーツ・リージョナル』連載の単行本化だ。

 プラトンからメルロ=ポンティまで、古今東西の哲学者23人(「東」は日本の西田幾多郎、九鬼周造のみ)を取り上げ、それぞれの思想的特色を1人1回で解説していく「哲学入門」である。
 俎上に載る哲学者の代表的著作から「グッとくる一言」(副題にいう「殺し文句」)をピックアップし、そのフレーズを手がかりに対話を進める、というスタイルをとっている。

 ただし、本のそでに「極上哲学漫談」という惹句があるとおり、知的な笑いに満ちた内容となっており、凡百の堅苦しい「哲学入門」とは一線を画している。たとえば、次のような具合だ。

鷲田 二十世紀の哲学が、その媒体である言語についてばっかり語り出したから、急に哲学離れが起こってきた。「読んだけど、人生については何も書いてなかったよ」とかね。
永江 ははは。わかります。哲学を人生相談と混同している人は多い。
鷲田 生き方を求めてフッサールを読んだのに、『論理学研究』には生き方について書いていないじゃないか、とか。
永江 そりゃそうですよね、『ビッグトゥモロー』じゃあるまいし。
鷲田 二○世紀の哲学者は、世界についてじかに語らなくなった。媒体についてばかり語る。あるいは世界を媒体のしくみの問題に還元してしまう。



 くだけた語り口ではあるものの、その中には目からウロコの知見やずばりと本質をつく卓見がちりばめられている。たとえば――。

永江 前から気になってたんですけど、考えるということと、疑うということとは、別のことですか。
鷲田 同じやと思う。
永江 つまり、考えるということは、疑うことである。だけど私たちは、「考えます」っていうとき、ちゃんと疑っているかなあ?



鷲田 カントとマルキ・ド・サドはだいたい同じ年なんですよ。そこでしばしば、「カントとサドは意外と近いんとちがうか?」っていわれる。
永江 イメージは正反対だけど。
鷲田 まるで機械のように理性に従うカント、機械のように欲望に従うサド。その違いしかないんやないか。カントが純粋理性批判ならサドは純粋感覚批判やね。
永江 サドとカントは兄弟! サドのような反道徳的な人がいないと、カントの道徳も立つ瀬がない。サドとカントは共存共栄ですね。



 難解な哲学を、軽やかな「漫談」にブレイクダウンしていく両著者の知的咀嚼力はすごい。取り上げる哲学者の思想の本質をつかんでいなければできない芸当なのだから……。

 「哲学を(もう一度)学んでみようかなあ」と思っている人に、“楽しそうで入りやすい入り口”を提供する良質の入門書。

関連記事

鷲田清一・内田樹『大人のいない国』

大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)大人のいない国―成熟社会の未熟なあなた (ピンポイント選書)
(2008/10)
鷲田 清一内田 樹

商品詳細を見る


 鷲田清一・内田樹著『大人のいない国/成熟社会の未熟なあなた』(プレジデント社/1200円)読了。

 対談集かと思ったら、そうではなかった。対談は1章のみで、あとは両著者のエッセイ/評論が交互に登場する本なのである。

 日本の大人たちがいかに未熟か、という指摘がさまざまな角度からなされるのだが、それが「近頃の日本人は幼稚でケシカラン!」というような紋切り型の批判にならないのは、この2人ならでは。両著者は、次のように言うのである。

鷲田 最近、政治家が幼稚になったとか、経営者が記者会見に出てきたときの応対が幼稚だ、などと言いますが、皮肉な見方をしたら幼稚な人でも政治や経済を担うことができて、それでも社会が成り立っているなら、それは成熟した社会です。そういう意味では、幼児化というのは成熟の反対というわけではないんですね。
内田 官僚や政治家やメディアに出てくる人たちがこれほど幼稚なのに、致命的な破綻もなく動いている日本社会というのは、改めて見ると、きわめて練れたシステムになっているなって、いつも感心するんですよ。



 この痛烈な皮肉こそ両著者の真骨頂で、ここが本書の肝といってよい。

 第1章の対談も、その後の両著者のエッセイも示唆に富む内容ではあるのだが、いかんせん、本文正味が115ページしかないというのは、あまりに分量が少なすぎ。
 「ピンポイント選書」(本書のシリーズ名)だかなんだか知らないが、たったこれだけのページ数でハードカバー/1200円の本として流通させるというのは、ちょっとね。いまや新書でさえ300ページ近い分量があたりまえだというのに……。
 いや、もちろん、分量が多ければいいってものではないが。
 
 「名言だなあ」と思った箇所を引用する。

鷲田 近代社会って生まれて死ぬまで同じ自分でないといけないという強迫観念があって、直線的に自分の人生を語ろうとするじゃないですか。昔の偉い人は何回も名前が変わった。失敗しても名前を変えるくらいの気持ちでいたらええよ、と。人生を語るときは直線でなく、あみだくじで語れ、と言いたいね。(太字強調は引用者)



関連記事

姜尚中『悩む力』

悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
(2008/05/16)
姜 尚中

商品詳細を見る


 姜尚中著『悩む力』(集英社新書/714円)読了。

 言わずと知れた、50万部突破の大ベストセラーである。仕事上の必要から読んだのだが、たいへんよい本だった。

 年間ベストセラー・リストに名を連ねるような大ベストセラーには、ときおり信じられないほどクダラナイものがある。最近の例でいうと、『女性の品格』や『鈍感力』がそうだった(私は仕事上の必要から2冊とも熟読したので、自信をもってクダラナイと評価できる)。

 しかし、これは違う。50万部売れたことに得心がいく、良質の人生論である。

 姜さんのささやくようなソフトな語り口同様に、読者に対して真摯にやさしく語りかけるような本。自説を声高に主張したり、上から見下したりする感じがまったくないところがよい。

 自身のこれまでの人生経験をふまえ、悩むことのポジティヴな意味合いを説く本。「何のために『働く』のか」「変わらぬ愛はあるか」など、普遍的な「悩み」にそれぞれ一章を割き、真正面から答えを探っている。
 もはや中年になった身にはいささか気恥ずかしく思えるフレーズも散見されるが、10代、20代の若者たちが読んだらずしりと心に響く本だと思う。

 本書の特長は、「悩む力」を説くにあたって、マックス・ウェーバーと夏目漱石の生涯・作品を手がかりとしている点。一見まったく異質に思える2人の中に、近代以降特有の苦悩を直視した人物という共通項を見出し、21世紀の我々が生きるヒントを、彼らの思索の軌跡の中に探っているのだ。

 姜さんがマックス・ウェーバーにくわしいのは当然だが(『マックス・ウェーバーと近代』という著書もある)、意外だったのは、漱石作品についての解釈もたいへん面白い点。
 たとえば、漱石の『それから』について、次のように指摘している。

 この小説は三角関係の悲劇、あるいは純愛の悲劇のように説明されることが多いのですが、私は違うと思っています。私の読み方で言うと、「夢の世界に浮かんでいた青年が、この世の重力のようなものに引っ張られて、地上に落ちる話」です。幻想から現実に落ちたから、最後のところの代助は、ぐるぐると頭の中が回っている。あの「回る」感じはかなりの寓意だと思います(115ページ)



 風変わりな夏目漱石論としても、一読に値する書。

関連記事

花村萬月『イグナシオ』

イグナシオ (角川文庫)イグナシオ (角川文庫)
(1999/02)
花村 萬月

商品詳細を見る


 花村萬月著『イグナシオ』(角川文庫)読了。

 元本は1994年に刊行された初期作品。
 私は初期の花村作品はけっこう読んでいるのだが、これは読みそびれていたもの。図書館に行ったら「リサイクル資料」(除籍図書を利用者の持ち帰り自由にしているもの)の棚にあったので、もらってきたのだ。

 原稿のシメキリが重なって修羅場ってるのに、読み始めたら止まらなくなって、そのまま読了。この吸引力はさすがだ。

 たいへん面白かった。私は花村作品では『ブルース』『眠り猫』『二進法の犬』『ゴッド・ブレイス物語』が好きだが、その4作に匹敵するノンストップ・エンタテインメント。

 花村の芥川賞受賞作『ゲルマニウムの夜』はこの『イグナシオ』を焼き直したものと言われていて、花村自身もそのことを認めている。
 『ゲルマニウムの夜』は私も発表当時読んだけれど、「焼き直し」とは感じなかった。最初の舞台(修道院とは名ばかりの、非行少年の教護施設)が共通で、よく似た場面も登場するけれど、作品としてはまったく別物だと思う。
 この程度の類似で「焼き直し」と批判されてはかなわんだろう、という気がする。2作とも、花村自身の実体験(児童福祉施設での生活)に根差しているのだし。

 並外れた美貌と知力を兼ね備えた悪魔のごとき混血少年・イグナシオが衝動的にくり返す殺人と、あてどない彷徨(逃亡とはちょっと違う)を描いている。ストーリーはかなり強引で粗削りだが、イグナシオが愛する3人の女性の描き方がたいへん生々しく、鮮烈で素晴らしい。

 3人のうち1人は修道女で、もう1人は日韓混血の高級娼婦……という、一歩間違えば安手のポルノになりかねない人物設定。それでも3人とも、血が通った女性としてのリアリティを具えている(男にとって都合のいい描き方ではあるが)。花村は、艶めかしく女を描くのがうまいなあ。

 そういえば、この作品は1996年に映画化されている。私は未見だが、イグナシオ役がいしだ壱成だというだけで、観なくても失敗作とわかる(笑)。
 いしだ壱成では白人との混血には見えないし、凄みのある美貌というわけでもないし、並外れた知力をもつようにも見えない。絵に描いたようなミスキャスト。

関連記事

Guide 

   →全記事インデックス

Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

Counter 

メールフォーム

★私にご用の方はここからメールを下さい。

お名前
メールアドレス
件名
本文

最近の記事

マイ「神曲」ベスト100

カテゴリー

タイトルの由来

●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

Archives

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
本・雑誌
26位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
和書
21位
アクセスランキングを見る>>