『海よりもまだ深く』



 是枝裕和監督の新作『海よりもまだ深く』を、新宿ピカデリーで観た。



 阿部寛と樹木希林が親子役、という点では『歩いても 歩いても』の続編のような趣だが(設定は全然別人)、今作のほうがずっとコミカルな仕上がりである。
 おそらく、是枝監督の映画でいちばん笑いに満ちた作品。コメディといってもよいくらい、随所で淡い笑いがはじける。

 阿部寛が演ずる主人公は、別れた妻(真木よう子)に未練たらたらな中年探偵。
 この設定で私が思い出すのは関川夏央・谷口ジローの名作劇画『事件屋稼業』だが、是枝監督がありきたりなハードボイルド映画など撮るはずもなく、さらにひとひねりが加えられている。主人公は十数年前に純文学の新人賞を取ったきり鳴かず飛ばずの小説家であり、探偵稼業も「小説の取材」と称してつづけているのだ。

 小説家としての自分もあきらめきれず、別れた妻と息子のこともあきらめきれない中途半端なダメ男ぶりが、えも言われぬ味となっている。

 子役からドキュメンタリーのように自然な演技を引き出す「是枝マジック」も健在。阿部寛とタメ年でもあるため、主人公に感情移入してしまった私は、息子のセリフに泣かされた。

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『オデッセイ』



 『オデッセイ』を映像配信で観た。

 独創的で秀逸なSF映画。荒涼としながらも美しい火星の風景の造形も素晴らしい。
 原作(アンディ・ウィアーの『火星の人』)を読んでから観た人の多くが、「原作のほうがディテールが濃密で面白い」という主旨の感想を寄せている。が、原作未読の私はこの映画版で十分満足した。

 火星にたった一人取り残された宇宙飛行士のサバイバル劇――という骨子から想像するよりも、ずっと笑いに満ちていて、軽妙洒脱な映画に仕上がっている。よい意味でとてもアメリカ的な作品だと思った。

 ありえないことをあえて想定するのだが、原作の映画化権を買ったのが日本の映画会社で、NASAではなくJAXAを舞台にした映画に設定変更していたとしたら、どんな作品になっただろうか? 
 JAXAの予算規模はNASAの約10分の1なのだそうで、その点でもずいぶんショボい映画になりそうだが、それ以前に、もっと深刻な映画になったと思う。
 「天は我を見放した~!」てな感じで、取り残された宇宙飛行士が『八甲田山』的に悲憤慷慨する、シリアスでどんより暗いサバイバル映画になったに違いない。

 アメリカ人には、絶体絶命のピンチでジョークを飛ばすような態度を人間的強さ(とくに男らしさ)と見なすところがある。そうした特徴がよい方向に発揮されたのが、この映画のユーモアと軽妙さなのだろう。

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岩岡千景『セーラー服の歌人 鳥居』



 岩岡千景著『セーラー服の歌人 鳥居――拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語』(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)読了。

 本書と同時に第一歌集『キリンの子』を上梓し、マスコミにも多数取り上げられている話題の歌人・鳥居の半生をたどったノンフィクションである。著者は『中日新聞』の記者。

 小学5年のときに目の前で母に自殺され、その後に保護された児童養護施設ではひどい虐待を受け、ホームレス生活を経験し……といった壮絶な半生を、著者は克明に追う。

 この手の本では、著者が「いかに悲惨な体験をどぎつく書いて、読者の目を引くか」しか考えていないようなものも散見する。

 たとえば、「女性の貧困」をテーマに底辺風俗を取材にくる記者の中には、「いまの子、普通すぎるのでちょっと……。もっと悲惨な子はいませんか?」と店側に要望するような者もいるらしい。その場合、取材対象者は「読者受けするキワドイ話のための素材」でしかないわけだ。

 それに対して、2人の娘をもつ40代シングルマザーである著者は、“母の目線”で鳥居を見ている。彼女を見世物にするのではなく、一人の表現者としてきちんととらえようとする視点が感じられるのだ。その点が好ましい。

 胸を打つのは、過酷な体験をしてきたサバイバーである鳥居が、短歌と出合ったことによって「生きる力」を得たという事実である。

「芸術は、私にとっては贅沢品でも嗜好品でもなく、生きるために必要なもので――食費を削っても……実際、3日に1食で暮らしていた時でも、私は美術館や図書館に行くほうを選びました」

 

 文学の力、文学がもたらす「救い」について考えさせられる一冊。
 彼女の表現者としての歩みは、ちょっと柳美里さんを思わせる。どこかの雑誌で2人の対談をやったらいいと思う。 



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西村賢太『痴者の食卓』



 西村賢太著『痴者の食卓』(新潮社/1404円)読了。

 昨夏に刊行されたものだが、いまごろ読んだ。
 6編を収めた短編集。そのうち5編までが、いつもの「秋恵もの」。
 
 残り1編の「夢魔去りぬ」は、テレビ番組の企画で自分の母校(小学校)を訪問した顛末を綴ったもの。
 現在構想中らしい、自らの父親を描く長編の前準備にあたる作品のようだ。が、これだけを読んでも落語のまくらだけ聞かされるようなもので、とくに面白くない。

 5編ある「秋恵もの」も、全体に低調な印象。
 クライマックスで貫多が癇癪を爆発させ、DVに走るという構成は相変わらずだが、いつものユーモアは影を潜め、ただただ陰惨で後味の悪い“最低男小説”に堕してしまっている。

 「西村賢太の作品は、元々陰惨で後味の悪い“最低男小説”ではないか」と思う向きもあろうが、そうではない。『小銭を数える』あたりの作品は、最低男のDVを描きながらも、笑いがあり、不思議な哀切があったのだ。
 
 本書所収の「下水に流した感傷」は、『小銭を数える』所収の傑作「焼却炉行き赤ん坊」の直後の出来事が描かれたものだ。しかし、2作を読み比べてみると、「下水に流した感傷」のほうがガクッと作品のボルテージが落ちている。

 ネタを小出しにしてきた「秋恵もの」も、いよいよ限界だな――そう思わせる、過渡期の一冊。

 私は西村賢太の短編では、デビュー作「けがれなき酒のへど」がいちばん好きだ。あの作品のように、風俗行脚から生まれたエピソードを短編にしたほうが、まだしも面白いのではないか。

 もっとも、「けがれなき酒のへど」は、お気に入りのソープ嬢に大金をだまし取られた顛末を描いたものだから、いかな賢太といえども、あれほどドラマティックな体験はほかにないのかもしれないが……。

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『銀の匙 Silver Spoon』



 『銀の匙 Silver Spoon』をDVDで観た。



 荒川弘(ひろむ/女性)の超人気マンガの実写映画版。
 私は原作も好きだが、この映画版もとてもよい出来だと思う。原作のエッセンスを巧みに抽出して、コミックス10巻以上にのぼるストーリーを、2時間足らずの映画にビシッとまとめている。

 キャスティングもおおむね原作のイメージどおりで、「これは違うだろ」とあからさまな違和感を覚えるキャストが一人もいない。ヒロイン・御影アキ役の広瀬アリスの健康的な色気も素晴らしい。

 まあ、我らが黒木華の南九条あやめ役は原作のイメージとはかなり違うのだが、演技力でイメージのギャップを見事に埋めている。コメディエンヌとしての魅力開眼、という感じだ。

 監督は、私のお気に入り映画の一つ『純喫茶磯辺』の吉田恵輔。さわやかな青春映画の佳編である。

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『東京オアシス』



 今日は、井上靖の長女・浦城いくよさんを取材。
 浦城さんは4年ほど前にも一度取材したことがあるのだが、先月に初の著書『父 井上靖と私』(ユーフォーブックス)を上梓されたので、今回はその著者インタビューである。
 映画『わが母の記』では、ミムラが演じていた「郁子」が、浦城さんにあたる。

 『父 井上靖と私』はとてもよい本だ。とくに、井上靖の小説に対する鬼気迫る情熱を感じさせるエピソードが随所にあり、胸打たれた。


 DVDで『東京オアシス』を観た。黒木華の映画初出演作にあたる、2011年作品。

 3つのエピソードをつないだ、オムニバス的な構成。主演の小林聡美だけがすべてのエピソードに登場し、3つを1つにつなぐ役割を果たす。
 最初のエピソードでは正体不明だった小林聡美が、2つめ、3つめのエピソードでだんだん具体的な人物像になっていく……という構成はなかなか気が利いている。

 だが、映画として面白いかといえば、まったく面白くない。義理で買ったチケットで青臭い学生演劇を観せられたときのように、鼻白んでしまった。

 思わせぶりだが空疎なセリフの連続。
 スカした演出も鼻につく。 「あえて間を外し、余白を作る演出をする私、センスいいでしょ」という監督(松本佳奈・中村佳代)のドヤ顔が透けて見えるようだ。

 ま、私は黒木華(“エピソード3”のヒロイン的扱い)目当てで観たのだから、べつにいいけど。
 いまから5年前の黒木華は、映画初出演のせいか演技もやや硬く、磨かれざる原石という趣だ。

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『わが母の記』



 仕事上の必要があって、『わが母の記』を映像配信で観た。

 井上靖が母親の老年・晩年を描いた、同名の自伝的小説の映画化(原田眞人が脚本・監督)。世田谷区にあった井上邸が撮影に使われているなど、井上靖記念文化財団が全面協力している(ただし、主人公の小説家の名は「伊上洪作」となっている)。

 老いた母と息子の小説家を中心とした、家族のクロニクルである。オープニング曲はバッハのヴァイオリン協奏曲。そのことが象徴するように、地味で静謐で、上品な印象の映画。

 四季折々の日本の風景が、すこぶる美しく描かれている。撮影も照明も秀逸だ。日本よりも海外で高い評価を得たのも納得で、「外国人が求める日本映画そのもの」という感じ。

 母の認知症がしだいに進行していく様子が、つぶさに描かれる(母役の樹木希林が熱演)。そのことが「適量の毒」となり、絶妙なスパイスの役割を果たしている。
 たんなる「お上品な文芸映画」や、ありがちな“「母と子もの」の感動映画”には終わっていないのだ。

 ただし、「主人公が『幼年期に母に捨てられた』と思っている」という点はフィクションで、井上靖はそんなふうには感じていなかったという。

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『シャニダールの花』



 『シャニダールの花』をDVDで観た。黒木華の初主演作にあたる、2013年公開作品。監督は石井岳龍(元・石井聰互)。



 ごく一部の女性の胸にだけ、美しい花が咲くという不思議な現象が頻発する。「シャニダール」と名付けられたその花の満開時に抽出した成分は、画期的な新薬につながるとされ、億単位のカネで取り引きされていた。
 製薬会社の研究所で、「シャニダールの花」の研究にあたる植物学者・大瀧(綾野剛)と、その助手となる響子(黒木華)が主人公。2人は、いつしか恋に落ちる。
 だが、「シャニダールの花」提供者の急死が相次ぎ、2人は研究所が何かを隠蔽していることに気付く。やがて、響子の胸にも「シャニダールの花」が芽吹き……と、いうような話。
 「中二病」的妄想をそのまま映画にしたようなストーリーである。

 「シャニダール」とはイラク北部の、ネアンデルタール人の遺跡洞窟がある地名。
 この洞窟から発掘された遺体の化石から花粉が検出されたため、「ネアンデルタール人も、花を手向けて死者を悼む心を持っていたのだ」と喧伝され、「シャニダール洞窟」の名は世界的に知られた。本作のタイトルと基本設定は、そのエピソードをふまえたものだ。

 終盤、「ネアンデルタール人が死者を悼んで花を置いた? お笑いぐさだ。ネアンデルタール人は、死を招くシャニダールの花に寄生されて滅んだんだよ。花粉が検出されたのは、そのためだ」てな感じの“謎解き話”が出てくる(セリフはうろ覚えでテキトー)。この設定は大変面白いと思った。てゆーか、それ以外に面白い点は一つもない。

 箸にも棒にもかからない映画だが、それでも黒木華は素晴らしくチャーミングだ。白衣に地味メガネをかけた清楚な「リケジョ・コスプレ」が、全編で全開! 彼女はやっぱりこういう地味めの役が似合う。
 黒木華の魅力が堪能できたので、駄作でも許す(笑)。女子は綾野剛目当てで観ればよいと思う。

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斎藤環『ひきこもり文化論』



 一昨日から昨日にかけて、取材で北海道へ――。
 北海道に行くのは久しぶりだ(このブログを検索してみたら、前回行ったのは2010年)。
 取材と直接には関係ないのだが、今回、道内有数の桜の名所として知られる石狩市厚田区の「戸田記念墓地公園」の桜を堪能できた。広大な敷地に植えられた8000本の桜が、行った日にドンピシャの満開! 眺めていて陶然となった。


 行き帰りの飛行機と電車の中で、斎藤環著『ひきこもり文化論』(ちくま学芸文庫/1080円)を読了。仕事の資料として。

 ひきこもり問題の第一人者として知られる精神科医の著者が、折々に発表してきた文化論的考察を集大成したもの。
 他国の若者たちの状況をふまえた比較文化論的考察もあれば、ひきこもりを描いたフィクション(村上龍の『最後の家族』など)の解説もあり……と、多彩な内容だ。

 元の単行本の刊行は13年前なので、情報として古い部分もあるが、今年4月の文庫化にあたって、巻末に長文の「文庫版 補足と解説」が書き下ろされている。ひきこもりをめぐる現状をさまざまな角度から概説する優れた文章で、独立した価値がある。

 ひきこもりについての考察にはさすがの深みがあり、たくさん付箋を打った。そのうちの一ヶ所を引用しておく。

 現代の若者の自信と安心の拠り所は、もはや「お金」ではありません。それはほぼ「他者からの承認」に一元化されています。ひきこもっている当事者のほとんどが不安と葛藤にさいなまれているのは、誰よりもまず本人が、自らのひきこもり状態を深く恥じているからです。その状態が誰からも承認され得ないことがわかっているからです。
 当事者の多くは、「食べるために働く」という動機づけをリアルに感じることができません。彼らを働く気にさせようとして、困窮するまで追い詰めたところで、それは就労につながるとは限らないのです。社会参加を促そうというのなら、むしろ「他者からの承認」という動機づけに誘導するほうがはるかに効果的です。



■関連エントリ
斎藤環・山登敬之『世界一やさしい精神科の本』
斎藤環『家族の痕跡』
斎藤環『被災した時間』

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中島京子『小さいおうち』



 中島京子著『小さいおうち』(文春文庫/626円)読了。
 先日観た映画版(山田洋次監督)がよかったので、原作を読んでみた。2010年上期の直木賞受賞作。

 映画は、原作に比べてさまざまなアレンジが施されている。
 たとえば、重要な登場人物・板倉正司は、原作では戦後にマンガ家になる(そのマンガ家像は水木しげるがモデルだと思われる)のだが、映画では画家に変えられている。

 それらのアレンジは、おおむね成功している。「長編小説を約2時間の映画に収めるためには、こうするしかないだろう」と思わせる、見事な潤色だ。

 ただ、原作を読んでみると、映画では抜け落ちている魅力も少なくないことがわかる。

 第一に、原作は上品な笑いをちりばめたユーモア小説でもあるのだが、映画版はその要素が希薄で、山田洋次らしい湿っぽい人情話の色合いが強まっている(もっとも、山田もかつてはモダンな喜劇映画の作り手だったのだが)。

 第二に、原作では女中のタキが作る料理などが細かく描写されており、昭和初期の食文化を伝える風俗小説としての色合いも強いのだが、映画ではそのへんが端折られている。食事のディテールまで映画で描くわけにはいかないから、仕方ないのだが。

 第三に、原作ではタキが「奥様」の時子に同性愛感情を向けていたことがほのめかされるが、映画ではその要素がバッサリ削ぎ落とされている。“健全なる庶民派作家”たる山田洋次としては、あまりそのへんに立ち入りたくなかったというところか。
 中嶋朋子が演じた睦子(時子の女学校時代からの親友)は、その「ほのめかし」をする重要キャラだが、映画での描き方は「この人物、べつに必要なくね?」という感じの軽~い扱いになっている。ここだけは、映画版の大きな瑕疵だと思った。

 とはいえ、原作も映画もとてもよい作品である。

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『リップヴァンウィンクルの花嫁』



 『リップヴァンウィンクルの花嫁』を、配信限定版(劇場版より少し短い)で観た。まだロードショー公開中なので、配信料が1300円。



 映画館に観に行こうと思っていたのだが、地元の立川シネマシティではいつの間にか上映が終わっていたし、他館での上映もうまく時間が合わないので。
 これからはこんなふうに、公開中の映画も配信で観られるようになっていくのだろう。アメリカみたいに。

 ドラマ「重版出来!」ですっかり黒木華が気に入ってしまい、彼女の出演作品を配信やDVDで次々と観ている。
 『小さいおうち』の女中・タキ役も、彼女らしくて素晴らしかった。白い割烹着がなんと似合うこと。
 『舟を編む』も、映画としては面白かったのだが、これはどちらかといえば宮崎あおいを観るための映画で、黒木華はほんの脇役だった。

 で、この『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、監督の岩井俊二が黒木華のために書いたという脚本であるだけに、彼女の魅力が最初から最後まで全開だ。メイド服・ウェディングドレス・喪服のコスプレがそれぞれ堪能できるうえ、シャワーシーンまであるという鬼サービスぶり(笑)。

 2ちゃんねるの「重版出来!」スレを見ると、黒木華はブスだブサイクだブサカワだと言われ放題だが、私は彼女はとても美しいと思う。日本人に生まれてあの美しさがわからないなんて、カワイソウな連中である。

 映画としても、よい意味で予想を裏切りつづけるストーリーが魅力的で、なかなかの好作。

 準主役級で登場するCoccoの自然な演技と存在感にも驚いた。デヴィッド・ボウイから泉谷しげるに至るまで、シンガーは総じて演技がうまい。それは一つには、人前で歌う行為そのものが俳優の演技に近いからだろう。わざわざ演技を学ぶまでもなく、効果的な発声法や間の取り方などを、彼らはすでに体得しているのだ。
 奇しくも、この映画ではりりィがCoccoの母親を演じているのだが、言うまでもなくりりィもシンガーである。

 「重版出来!」のヒロイン・黒沢心と、『リップヴァンウィンクルの花嫁』のヒロイン・皆川七海は、あらゆる面で対極にあるキャラクターである。その両方を見事に演じきるのだから、黒木華はすごい女優だと思う。

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岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』



 岸見一郎・古賀史健著『嫌われる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社/1620円)読了。
 言わずと知れた、100万部突破の大ベストセラーである。前から気になっていた本で、仕事の資料としてようやく初読。

 フロイト、ユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」の一人と目されながら、日本ではあまり知られていないアルフレッド・アドラー。その思想の核心を、対話形式で表現した“アドラー入門”だ。

 著者の一人・岸見一郎は、哲学者・アドラー研究者であり、日本アドラー心理学協会認定カウンセラー。その岸見に、フリーライターの古賀史健が数年越しの取材を重ね、まとめたのが本書である。

 プラトンの「対話篇」を模した、青年と哲人(=岸見の分身)の問答形式。青年が哲人に投げかける疑問の中に、一般読者がアドラー思想に抱きがちな疑問が反映されている。

 当初、アドラーの思想に強い反発を感じ、時には色をなす青年。だが、対話をくり返すなかでしだいに理解を深め、最後にはアドラー思想を心に据えて生き直す決意をする。
 まるで、日蓮の『立正安国論』(客と主人の問答形式で綴られ、最後に客が主人の主張を受け入れる)のようでもある。

 本書の抜きん出た平明さは、半ば以上が古賀史健の手柄だろう。「難解なことをわかりやすく整理してまとめること」こそ、ライターの能力の核なのである。
 古賀が優れたブックライターであることは当ブログでも過去に指摘しているが、このミリオンセラーによって、やっとその力に見合った大ホームランをかっ飛ばしたと言えそうだ。

■関連エントリ
古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義』
加藤嘉一『われ日本海の橋とならん』ほか

 本書は、アドラー思想をフィルターとした幸福論でもある。さる2月に発刊された続編はズバリ『幸せになる勇気』だが、本書が『幸せになる勇気』というタイトルであっても、違和感はなかっただろう。
 しかし、かりに第1弾が『幸せになる勇気』だったら、こんなに売れただろうか? あえて『嫌われる勇気』という目を引くタイトルにしたことも、100万部突破の要因の一つだと思う。

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「007シリーズ」コンプリート



 『ドクター・ノオ』(1962)から『スペクター』(2015)までの「007シリーズ」全24本と、番外編の『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983)、『007/カジノロワイヤル』(1967)の計26本を、ようやく全部観終わった。
 まあ、観たといっても映像配信で観たのだし、コンプリートしたからといって何の役にも立たないわけだが。

 ざっくりとした感想を書いておく。
 第1作から第7作までのショーン・コネリー期は、さすがにいま観ると古臭い。半世紀も前のスパイ映画なのだから当然だが。
 とくに、第1作『ドクター・ノオ』は低予算作品でもあったから、びっくりするくらいショボい仕上がりだ。
 あと、日本を主舞台とした第5作『007は二度死ぬ』(1967)は、ズレまくった日本像が爆笑ものの珍品。

 それでも、第2作『ロシアより愛をこめて』は、シリーズ最高傑作に挙げる人も多いだけあって、たいへん面白かった。脚本のよさ・ボンドガールの魅力・悪役のキャラ立ちと、それぞれの要素がハイレベルな傑作である。



 1作だけで降板してしまったジョージ・レーゼンビー主演の第6作『女王陛下の007』(1969)は、意外によかった。
 スラリとした長身のレーゼンビーはいかにも英国紳士然として魅力的だし(といってもオーストラリア出身だそうだが)、アクション・シーンでのキビキビした身のこなしも素晴らしい。



 第8作『死ぬのは奴らだ』(1973)から第14作の『美しき獲物たち』(1985)まで、7作にわたった最長のロジャー・ムーア期だが、私はこの時期の作品は総じて質が低いと思う。

 『死ぬのは奴らだ』は、ポール・マッカートニー&ウイングスの主題歌しか知らなかったが、初めて観てみたら、なんともひどい代物。
 何より、アメリカの黒人を悪の組織のボスにして、ハーレムやニューオリンズの黒人コミュニティを「悪の巣窟」のように描いている点がひどい。いまなら、ポリティカリー・コレクト的に完全アウトである。
 出てくる黒人たちの描き方も、いかにもステレオタイプで偏見に満ちている(そもそも、冷戦期の007シリーズのソ連の描き方も偏見に満ちているのだが)。

 ロジャー・ムーア期の特徴は笑いの要素が強まったことだが、ちょっとやりすぎ。
 笑いは007シリーズ共通のスパイスではあるが、あくまで「スパイス程度」だからよいのであって、コミカルな要素が強まりすぎると、『オースティン・パワーズ』などのスパイ映画パロディと区別がつかなくなってしまう。

 『スター・ウォーズ』ばりに宇宙を舞台の一つにした第11作『ムーンレイカー』(1979)なんか、もはや完全に「底抜け超大作」と化している。
 第13作『オクトパシー』(1983)も、興行的には大ヒットしたらしいが、映画としての出来は最悪だ。

 ただし、ロジャー・ムーア期でも、第10作『私を愛したスパイ』は素晴らしい。
 ド派手な見せ場の連続。ボンド・ガールはシリーズ屈指にチャーミングだし、悪役(鋼鉄の歯で人を噛み殺す巨漢「ジョーズ」)の造形も質が高く、時間を忘れて見入ってしまった。
 カーリー・サイモンが歌った主題歌「Nobody Does It Better」も、シリーズの全主題歌中で私はいちばん好きだ。



 第14作『美しき獲物たち』も、ロジャー・ムーア期では『私を愛したスパイ』の次によい。息もつかせぬアクションの連打だ。

 ただ、この作品の撮影時57歳になっていたロジャー・ムーアは、見た目がもう「おじいちゃん」で、アクション・シーンの「無理してる」感が痛々しい。アングロ・サクソンにありがちなことだが、50代に入ると一気に容姿が劣化して、年齢以上に老けて見えるのだ。

 第15作『リビング・デイライツ』(1987)と、第16作『消されたライセンス』(1989)の2作だけで終わってしまったティモシー・ダルトン期は、笑いの要素を抑え、シリアス・アクション的傾向を強めた点が好ましい。ダニエル・クレイグ期の作品を先取りしていたようなところもある。

 

 『リビング・デイライツ』も『消されたライセンス』も、大変面白い。ティモシー・ダルトン主演でもっと作ってほしかった。

 第17作『ゴールデンアイ』(1995)から第20作『ダイ・アナザー・デイ』までのピアース・ブロスナン期は、スパイ映画が作りにくいポスト冷戦期の新しい切り口を模索した時期とも言える。『ダイ・アナザー・デイ』では北朝鮮を主舞台の一つにするなど、工夫が感じられた。
 ロジャー・ムーア期の軽快さと、ティモシー・ダルトン期のシリアス路線の中間を行くバランス感覚も好ましかった。

 ただ、消える(=見えなくなる)ボンド・カーとか、人工衛星からのレーザー光で地上のすべてを焼き尽くす敵の秘密兵器とか、スパイ・ガジェットや武器が荒唐無稽になりすぎて、ちょっと興醒め。

 ピアース・ブロスナン期の4作は、どれもそこそこ面白いが、抜きん出た傑作はなかった気がする。

 『トゥモロー・ネバー・ダイ』でのミシェル・ヨーとの二人乗りバイク・スタントとか、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』でのソフィー・マルソーの色っぽさとか、見どころはあるものの、作品としての完成度はいま一つ。
 しいて挙げるなら、最初の『ゴールデンアイ』がいちばんまとまっていたか。



 シリアスでスタイリッシュな21世紀のジェームズ・ボンド像を作り上げたダニエル・クレイグ期の4作は、ストーリーに無理やりな展開も散見するものの、エンタメとしての質はどの期よりも高いと思う。


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Profile 

前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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●「mm(ミリメートル)」は、私のイニシャル「MM」のもじりです。

●私の大好きなギタリスト・渡辺香津美氏は、ご自身のイニシャル「KW」をもじった「KW(キロワット)」を、公式サイトのタイトルにしておられます(同名のアルバムもあり)。それにあやかったというわけです。

●あと、「1日に1ミリメートルずつでもいいから、前進しよう」という思いもこめられています(こじつけっぽいなあ)。

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