研ぎ澄まされた悪意――桐野夏生『グロテスク』



 桐野夏生著『グロテスク』(文藝春秋)読了。
 2003年度のベストワンに挙げる人も多かった話題作。
 周知のとおり、「東電OL殺人事件」を下敷きにした作品である。ただし、通俗的な事件読み物など比較にならない深みに達している。

 ドストエフスキーがありふれた強盗殺人のニュースを下敷きに『罪と罰』を紡いだように、三島由紀夫が金閣寺放火事件を下敷きに『金閣寺』を書いたように、桐野夏生は想像力を全開にして、通りいっぺんの犯罪報道の背後にもう一つの現実を構築してみせた。

 エンターテインメントではあるが、まぎれもない「文学」でもあると思う。ヘタな純文学よりずっと「人間が描けている」。

 3人の女性の物語である。
 「怪物的」なまでに整い過ぎた美貌をもった、「生まれついての娼婦」ユリコ。ユリコの実の姉でありながら、似ても似つかない平凡な容姿に生まれた「私」。そして、「私」とは名門Q女子高で同級であった、秀才ではあるが平凡な女性・和恵。

 ユリコと和恵は30代後半になってから街娼となって渋谷のホテル街に立つようになり、1年の間に相次いで殺される。
 2つの殺人事件を軸にストーリーは進むが、読者を牽引するのは犯人探しの謎解きではない。『罪と罰』と同程度に「ミステリーでもある」小説だが、むしろ、事件に至るまでの3女性の心の軌跡を精緻に描くことにこそ、作者の主眼がある。
 
 東電OL殺人事件の被害女性がモデルになっているのは、和恵だ。和恵は、昼は一流建設会社のエリートOLだが、夜には街娼となる。「誰も自分のことを見てくれない」昼間の暮らしの空虚を埋めるために……。

 和恵1人を主人公にしていたなら、佐野眞一のノンフィクション『東電OL殺人事件』をなぞっただけの凡庸な作品に終わっていただろう。和恵の心を描きつつ、彼女と運命的な関わりをもつユリコと「私」を対置して描くことによって、重層的な傑作になった。三者三様の根深い孤独が重ね塗りされて、油絵のマチエールのような効果をあげている。都市の闇、人の心の闇を描き出す極彩色の地獄絵図。
 
 「40歳になったら死のうと思っている」とは、桐野の近作『ダーク』の衝撃的な書き出しだが、この『グロテスク』もまた、多彩な登場人物のうち、少しずつ壊れ、破滅に向かって歩を進めていくユリコと和恵の姿が最も強い印象を与える。

 ユリコは和恵に言う。

「体を売る女を、じつは男は憎んでいるのよ。そして、体を売る女も買う男を憎んでいるの。だから、お互いに憎しみが沸騰した時に殺し合いになるのよ。あたしはその日が来るのを待っているから、その時は抵抗せずに殺されるわ」



 奇妙な言い方に響くかもしれないが、この小説の最大の美点は作者の“研ぎ澄まされた悪意”である。3人の女性たちを描く筆致、さらにはその周囲の人たちを描く筆致が、鋭敏な悪意に満ちている。

 女性が女性の容姿や服装、性格などを評する言葉は、時として残酷なまでに鋭いものだ。「男にはとてもそこまで言えないし、そこまで観察できない」というところまで、鋭く観察し、真贋を見分け、辛辣な批評の刃を向ける。この『グロテスク』の描写には、そうした女性ならではの悪意の視線がマックス・レベルでつらぬかれている。

 私が思うに、一流の小説家というのは「一般人には見えないものが見える人たち」である。
 一般人なら気づかず見過ごしてしまう人の心の裏側(たとえば、嫉妬や見栄や憎悪などの「負の感情」、あるいは逆に、ふつうの庶民の心の奥に時として輝く崇高な人間性などという「正の感情」)が、くっきりと見えてしまうのが「一流作家の眼」なのである。

 桐野夏生もまた、まぎれもない「一流作家の眼」をもっている。そうした眼にも2種類あるが、桐野や車谷長吉は、とくに人間の「負の側面」を鋭敏に感じとる眼――研ぎ澄まされた悪意の視線をもっているのだ。

 その悪意の視線がひときわ輝きわたるのは、物語の前半、主人公の3女性が揃って通うお嬢様学校・Q女子高で過ごした少女時代を描いた数章だ。

 初等部から上がってくる本物のお嬢様たち――「オーナー企業のオーナーの娘。就職なんか絶対しない人たち。したら、恥だと思っている」――だけが「主流」を成し、勤め人の娘たちはどんなに勉強ができても「主流」にはなれない「階級社会」。
 そこで行なわれる、暴力を用いない隠微ないじめと差別を描きだす手際の鮮やかさが、桐野の真骨頂だ。
 その「階級社会」で根こそぎ誇りを奪われる「私」と和恵。並外れた美貌ゆえに「主流」のお嬢様たちからさえ一目置かれるユリコ。その差が、後年の悲劇の源となる。

 男の作家が娼婦を描く場合、多少なりとも“聖なる娼婦幻想”に呪縛されてしまい、娼婦に同情的な視線を向けがちだ。
 しかし、桐野夏生が2人の娼婦を描き出す筆致に、そんな甘さは微塵もない。若いころには一晩300万の高級娼婦だったこともあるユリコやエリートOLである和恵が、最下層の街娼に落ちるまでの過程を、微に入り細を穿って容赦なく描き尽くすのである。

 冷ややかな悪意に満ちた桐野の視線。その代弁者となるのは、物語の語り手である「私」だ。
 「私」は、ユリコと和恵の転落の過程の目撃者となる。平凡な秀才にすぎなかった和恵は、高校でユリコに出会ったことで、その毒に感染して少しずつ道を踏み外していく。
 「私」は実の妹であるユリコを憎み、和恵を軽蔑するが、じつは「私」の心の底にも、ユリコと和恵のように生きたいという願望が渦巻いている。だからこそ、物語の最後、「私」もまた渋谷のホテル街に立つのだ。

 欠点も、ないではない。
 たとえば、主要登場人物の1人・ミツル(女性)が、オウム真理教をモデルとしたカルト教団の一員となって「私」の前に現れるあたり、ご都合主義でリアリティがない。東電OL事件にオウム事件を継ぎ足せば現代が描けるわけではあるまいにと、小言を言いたくなる。

 また、殺されたユリコの忘れ形見が盲目の美少年で、しかも彼もまた女性相手の街娼として渋谷の街に立つ、という終章のエピソードも、話が出来すぎているし、いびつな少女趣味にすぎる(ちなみに、桐野はかつて少女向けのジュニア小説を書いていた)。

 それに、作品全体がいささか長すぎる。あと100枚分くらい、余分なエピソードを削ぎ落とすべきだったと思う。
 ただし、そうした瑕疵を補って余りある多くの美点をもった作品である。

 『グロテスク』というタイトルはそっけないが、読み終えると、このまがまがしい物語にこれ以上ないほどふさわしく思える。

 「グロテスク」は、たんなる醜悪さとは似て非なるものだ。それは美が前提になっている。美しさがある一線を越えておぞましさに変わったとき、美が腐り果てて醜悪さに転化したとき、初めてそこに匂い立つのが「グロテスク」なのである。
「美という奴は恐ろしいもんだよ」とは『カラマーゾフの兄弟』の名高いセリフだが、この小説に描かれたのはまさに、グロテスクに成り果てた恐ろしい美、かつては美であったおぞましい醜悪さだ。

 ディケードごとの「セックス・シンボル」があるように、一つの世代、ディケードを象徴する犯罪がある。たとえば、私の世代(1964年生まれ)にとっては宮崎勤の犯罪がそうだ。いまの20代にとっては酒鬼薔薇聖斗の犯罪がそうだろう。
 同様に、いまの30代半ば~40代半ばの女性、とくに独身女性にとって、東電OL事件は、自分たちの世代を象徴するように思える「特別な犯罪」だったのではないか。

 桐野夏生が東電OL事件に材をとった『グロテスク』を描いたのは、必然だった。この事件は桐野の作風にこそふさわしい。「女性ならでは」という言い方は性差別につながりかねないが、それでもあえて言うなら、男の作家には、どんなに優れた作家でも、東電OL事件をこんな小説には出来なかったと思う。
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前原政之 
イラスト/ジョージマ・ヒトシ

前原政之(まえはら・まさゆき)
1964年3月16日、栃木県生まれ。53歳。
1年のみの編プロ勤務(ライターとして)を経て、87年、23歳でフリーに。フリーライター歴30年。
東京・立川市在住。妻、娘、息子の4人家族。

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